熟年離婚
熟年離婚
妻の一言が43年間の離婚を決断する事態へ。
学生時代に出逢い、
婚前交渉で遊び、
大学研究室の教授ご夫妻に仲人を依頼し、
2人の子供3人の孫の顔を見た。
妻は専業主婦で、わたしは40年のサラリーマン人生を1社で終えた。
良くも悪くも、典型的な昭和時代の一組の男女であった。
贅沢な暮らしではないが、持ち家を2軒、家族の成長に合わせて購入し住んだ。
私も妻も関西出自であり、首都圏には親戚縁者はいなかった。夫婦共に親からの大きなまとまった資産的支援なく、2人で家庭を築き運営してきた、40年という時間。 結婚45年年齢67才、私は脳梗塞を発症し、後遺症から沖縄県から障害者に認定され、介護1級の身になり、さらに35年間の運転免許を返納することになった。
脳梗塞▶️とは、180度異なるパラレルワールドの1年生として終活を始めることになった。
緊急病院、リハビリ病院と順調に回復し、後遺症は高次に脳機能障害という視野視力系だけであり、四肢マヒなどはなかった。
自立でき自律歩行ができ、会話などの言語能力はダメージを最小限で治った。
初期入院から3ケ月後、自宅通院治療の許可が降りた。
さらに通院は月1回経過観察と投薬処方箋という軽い見通しであった。
私は3ケ月ぶりに自宅へ帰宅した。
病院のベットやトイレでなく、自分のベットと便座であった。
問題は自宅で発生した。
謎の下痢が続いた。
同じ薬の質と量?
医者も原因不明という。
同じように聴いていた妻が、ニタニタしている。
医者が言う。
「薬の種類も量も3ケ月、同じ。
薬の副作用とは考え難い。
あるとしたら、環境変化。病室、自宅?
精神性下痢というのは多いですよ。整腸剤を処方しておきます。」
妻は確信した様子。
「あんた、また入院したら、治ると思う」笑顔で言う。
「下痢と病院監視?
どちらも避けたいね。」
食事時、「別食 用意が、めんどくさい。お粥は面倒くさいし、熱いから作らへん。食べたいんゃったら、入院したら。」
「めんどくさいなら、黙って、せんで良い。文句聴きながらなら、恩きせがましいサービスいらんワ。」
「わたしはアンタが好き嫌いじゃなく、あんたに関心ないわ、障害者やし、何もできんな一人で。」
「わたしに感謝しいや。
わたしが親切行動した、優しい振る舞いした、そんなんやない。
Doinng やない、Beinng。やで!
息子はBein すぐ理解したで。
Being わたしの存在に感謝しなや」
わたしは妻の本性をみた。
今までの結婚生活への不満の蓄積だろう。
オレは酷いことをしてきたのだろう、記憶にないが。
そんな本性の女でなかったと思う。
しかし、今は、これが現実。
障害の旦那と過去の恨みの感情が、今日を招いたのだ。
死ぬ前に気づけて良かった。
妻の気質から、娘さんや叔母には、もう伝えているだろう。
娘も叔母も、ほぼ同じ想いだろう。
わたしは去る。この家を出ていく。
遠い処で、この世にこっそりおサラバする。
誤解でもなんでもない。
わたしの結婚生活の反作用だろう。
妻にはマンション、ローンの終わったマンションと、老女の一人暮らしには間に合う年金が届くはず。死ぬまで届く。
お
サラバ、わたしは、子2人、孫3人の顔も見せてもらった。
充実した人生だった。
かろやかに、あの世へ旅立ち、
母や父と出逢える。
若くして旅たった友とも逢える。
同時代に、ユーミン、みゆき、陽水が居てくれて感謝。
人生のっ最後に、愛しいパートナーで暮らせて感謝。
できすぎた人生だ。
そして人生を閉じて野生になった、
わたしは、どうしようもんなく、野生へと歩む。
熟年離婚は成功。
互いに、新たな視座で尽生狗を見直せる。
障害者という立場に置かれ、人の気質がよく見えるようになった。