前編
「……君は、婚約者だけでなく、恋人もいないのかい?」
少し前に妹のリュシエンヌの婚約者が決まった。その婚約者であるエティエール公爵家嫡男アドリアンが、私の顔をじっと見ながらそう言った。他の人が言ったならばそこに嘲りの色がにじみ出ているのだが、この義弟予定の青年は純粋に確認をしているだけのようだった。
「そ、そうですね、お恥ずかしい話ですが、御縁がないようでして」
我がボゾルト侯爵家は堅実な領運営をしている安定した家だ。最近は美食の領としても名高く、ひそやかに各方面から人気も高まっていると自負している。それでも、私には政略ですら縁が巡ってこない。何故か? 答えは簡単である。
不細工だからだ。
身長は高い部類。横幅は成人男性二人分。足も腕も丸太のように太く、腹回りなど樹齢何百年なのか。この体の厚みがすべて筋肉ならば引き締まっているのだろうが、残念ながら筋肉の上にたっぷりとした贅肉が乗っかっている状態なので、全体的にまぁ丸い。
もしも父のように顔の作りが甘やかだったらそこまで嫌厭されなかったのかもしれないが、あいにく私の顔は厳しい顔立ちの母似で厳つかった。真面目に考え事をしていると怒っている、楽しくて笑うと悪い事を企んでいる、そんな風にとらえられてしまうきつい印象の顔だった。
それでも貴族である。好悪など無視して政略で婚約しようと考えて。
その結果、初対面の時に号泣されたのが二回、真っ青な顔で無反応になり気絶されたのが一回、家に帰ってから「あの方に嫁ぐ位なら神に嫁ぎます!」と家出自殺騒動が三回。
さすがにもう諦めた。両親は頑張って探しているようだが、幸いにも妹が見染められたのだ。我が侯爵家の血はなんとか繋がるだろう。
まぁ、その見染めた相手、つまりはこの目の前の青年も安心できる相手ではないのだが。
「御縁がない……ちなみに、婚約の話自体はあったのかな? その場合、何処の家とだったか伺っても?」
「はぁ」
問われるがままに答えていく。幸いにも婚約が結べなくともそれぞれの家同士で話はついていて必要な交流も問題なくある。勿論交流が途絶えた家もあるが、まぁ家に不利な状況にはならなかった。自分の婚約の失敗が家の足を引っ張る事にならなくてよかったと思う。
「なるほど、まぁ派閥も違えば交友関係も違うか……だから気付かなかったのか……?」
「あの、な、何か問題が?」
問題があるのは正直言ってこの義弟候補である。
はじめは何の冗談かと思った。何せ公爵家の中でも『王室の守護神』として知られるエティエール公爵家だ。しかもその嫡男であるアドリアンは神の申し子とも言われている。
月の光を集めたような銀の髪に、海のように深い青い瞳。完璧な配置の目鼻立ちは芸術品で、鍛えられた体躯は彫像家が嫉妬する程。まだ幼少の時から公爵家当主の傍らで学び、十歳の時には既に老獪な議会議員達と対等に話せたという頭脳。アドリアンがいるならば向こう三十年はエティエール公爵家は安泰である、と陛下が口にしたとか。
そんな完璧超人が、我が妹リュシエンヌに、私同様不細工と笑われてきたリュシエンヌに惚れ込んだのだという。
もっとも信じがたい婚約の申し込みとして社交界に広まった話に、当然我が家も怪しみ一族総出で調べ上げたが、出てくるのはアドリアンがリュシエンヌ以外目に入っていないという情報だけであった。
確かにリュシエンヌは私と同じように丸々とした体躯だが、身長は平均より少し低く、父に似て顔立ちが甘やかなので、同じ不細工と笑われても小動物のようにかわいがられる一面もある。実際、この婚約話が世に広まった時、一定数の貴婦人と御令嬢が我が事のように喜んでお祝いをしてくれたらしい。悲しいかな、一定数の貴婦人と御令嬢は手のひらを返して侮辱してきたのだが。下に見ていた存在が幸せになる事、ましてや人気の貴公子と結ばれる事が許せないのだろう。人間怖い。
ともあれ、公爵家が情報操作しているのかもしれないが、両親はただただ愛ゆえの求婚であったという結果に納得して婚約を受け入れた。なんせ公爵家からの申し入れだ。よほどのことが無ければ断る事は難しかった。
そんな風に成った妹の婚約だが、私は申し訳ないがまだ信じられない。正直リュシエンヌも未だに何か裏があるのではと疑っている。なので、アドリアンが何か言う度につい色々と邪推してしまう。表には出していないと思うので見逃してほしい。
「いや、問題は無い。何、義兄上とはもしかしたらもう少し仲が深まるかもしれないと思ってね」
「はぁ」
言っている事はわからなかったが、ニコリと微笑む義弟候補は美しすぎて眩しくて見てられないので、とっとと帰ってほしかった。
神の申し子はまごうことなく好青年だ。婚約者の兄とは言え、私のような者とも笑顔で会話をしてくれるのだから。それどころか気安さすらある。だがそれらすべてが私には負担だった。心から彼を信じることが出来ればきっといい酒を酌み交わすことが出来るのだろうが、それは今ではない。
今はまだ視線を気付かれない程度に少し逸らしているし、話すのにも緊張してどもってしまう。無理だ。無理なのだ、こんな煌びやかな人物と関わるなど。
「アドリアン様、お待たせしました」
目当てであるリュシエンヌがやってくると、それまで話していた私の存在など忘れたかのように、アドリアンは満面の笑みで立ち上がってリュシエンヌの元へ行く。ちなみにリュシエンヌは別に準備を怠っていたわけではない。気が急いたのか何なのか、アドリアンが約束の時間よりもやたらと早く来ただけである。
「やぁリュシエンヌ! 待たせたなんて考えなくていいんだよ、今日という日はすべてリュシエンヌの為に使うと決めていたんだから。ああ、私が送った髪飾りをつけてくれているんだね、リュシエンヌが使うと髪飾りもなお一層引き立つな。どうしよう、出かける前にこの驚きと感動を詩にしたためるべきか?」
「アドリアン様、怖いです」
妹が何とか笑顔を張り付けながらも訴える。どうやらリュシエンヌもまだアドリアンに慣れていないようだ。
「すまない! ああ、リュシエンヌを怖がらせるなんて! お詫びに今日だけじゃなく明日も明後日も一緒に出掛けよう!」
「お詫びとは」
小声でつぶやいた妹を見て、思わず目頭を強く抑える。助ける事の出来ない無力な兄ですまない。兄には権力も度胸もない。
意気揚々と出かける二人……正確には意気揚々と出かけるアドリアンと引きずられるリュシエンヌを見送ってから、疲れ切って帰ってくるだろうリュシエンヌの為に、おいしい茶と菓子を用意しておこうと動き出した。
輝かしい人物は見ていて好ましいが、近づきたいとは思わない。拒絶されてきた過去が積み重なれば嫌でも学ぶというものだ。近づきたいとは思わない。近づいてはいけない。無駄に傷つく必要はない。
そこまで考えて、アドリアンは私を初めて会った時からずっと、不快そうな様子を一切見せなかったことに気が付く。リュシエンヌの手前、大目に見てもらえているのだろう。となれば、私はリュシエンヌが遊ばれているのではない事を祈るだけだ。
「まぁ、そう会う事もあるまい」
そもそも、本来ならこの王都の別邸には近づかず、領地に引き籠もっているのが私だ。父の仕事の手伝いで仕方なしに来ているだけで、しかも今日はたまたま用事が無かったからリュシエンヌの準備が出来るまでの接待をしたが、こんなことはそう頻繁にある事ではない。アドリアンと会うのも年に数回会うかどうかとなるだろう。
私のこの考えは見事に外れていた。
「グレゴワール、エティエール公爵から御息女のアレクサンドラ嬢とお前の婚約の話が上がっている」
「またまた父上、御冗談を」
しかし目の前にあるのは、エティエール公爵の紋章印付きの正式な書簡だった。
書いてある。美しい文字でエティエール公爵家長女とボゾルト侯爵家嫡男の婚約を求める内容が書いてある。
私は長い息を吐きながら目を瞑って天を仰いだ。もしかしたら幻覚かもしれない。きっとそうだ。私は希望をもって目を開いてもう一度書簡を見た。
書いてある。間違いなく書いてある。
「いや、おかしいでしょう?!」
アレクサンドラ・エティエール。アドリアンの妹であり、アドリアンに次ぐ神の申し子だ。
豊かな銀髪は輝きながら波打ち、アドリアンと同じ深海のごとき青い目はすべてを魅了する。国一番の家庭教師が褒め称えた才女にして、社交界の次なる宝石と呼ばれる淑女、それがアレクサンドラ・エティエールである。ちなみに今の社交界の宝石は彼女の母であるアナイス・エティエールだ。
遠目に一度見たことがあるが、噂にたがわぬ美貌と社交の巧みさだった。そんな彼女が、国中の年頃の男が狙っていると言われた彼女が、何故、自分と、婚約?!
「エティエール側に何の利点もない。それとも父上、最近我が領内に金や鉄や宝石の鉱山でも見つかりましたか?」
「知らん知らん、そんな報告は上がっていな……まてよ、最近、王家が我が観光保養地をいたく気に入ってくださったが……まさか」
「それでは?! あの『王室狂いのエティエール』ですよ?! 我が家を乗っ取るか領地の一部を合法的に取り上げて王家に献上するんですよきっと!」
『王室の守護神』とも呼ばれるエティエール公爵だが、呆れと共に言われる他の呼び名がある。それが『王室狂いのエティエール』もしくは『王室狂いの身内贔屓』である。
王室が望むなら道に外れない限り、いや、多少なら外れていても、知力財力権力すべてを使って望みをかなえるという王室絶対主義。しかもエティエールが動くと、過程では死ぬほど恐ろしい目に合っても、最終的に全方向に良し、となるから質が悪い。正面切って文句を言いづらい。その才と気質が代々引き継がれ、そしてその才と気質ゆえに身内の結束が固いのだ。
面白い事に、そこまで王室に尽くしているのに、絶対に王室の血は入れない。王が望もうとも王子も王女も受け入れない。何故なのかと訊いた貴族がいたのだが、その返しは未だに語り継がれている。
『君、我が公爵家を甘く見過ぎだ。自他とも認める王室狂いで身内馬鹿の一族なのだよ。仮に王族のどなたかを迎え入れたならば最後、向こう一年はお祭り騒ぎで浮かれ切った挙句にその方を掲げ上げて国を作ってしまう』
何代か前の当主の発言だが、それ以降もエティエール公爵家は同じ立場を貫いている。当然、今も。
「いや、流石にお褒めの言葉をくださっただけでエティエールが動くとは……動く、かも……? いやいや! 領地の割譲などの条件はあげられておらん、あそこは動いたら終わりまでが早いから違うだろう、多分」
「断言できない時点で怖いのですが。やはりリュシエンヌとアドリアンの婚約は裏があったのか……くそ、リュシエンヌを大事にしているようだから認めつつあったのに!」
「それは無い、それは無いんだ。というかアドリアン『殿』と呼べ! いずれ義理の兄弟になるとしても今はまだ友人でもない目上の青年だろう!」
「外ではちゃんと『殿』でも『卿』でもつけていますよ! あの煌びやかな変態が友人なものですか! 今日もリュシエンヌ宛に書物のような分厚い恋文が届いていましたよ! 裏があるかもと考えればなおさら気持ち悪い!!」
「確かにあの恋文のぶ厚さは気持ち悪いというか引くが変態などという失礼な物言いはやめよ! 心の中だけにしておけ!」
「おやおや、父上も心の中では変態と!」
「揚げ足を取るな! 逃避はそこまでだ、一週間後にアレクサンドラ嬢と顔合わせ、これは決定事項だ! それまで領地に帰る事は許さんし少しでもその肉と顔をどうにかしてけ!」
「一週間でどうにかなる肉と顔ならここまで社交界から逃げてないんですよ!」
「言っておくが、逃げて逃げて逃げた挙句跡目を継いで仕方なしに戻る社交界程苦痛は無いぞ……ッ!」
自らの過去を思い出したのか、父が俯いて嗚咽をこらえるように俯いて震えだした。
「父上……五十近いふくよかな男がプルプル震えながら泣いても、誰も同情してくれませんよ」
「ダフネなら、ダフネなら同情してくれる……ッ」
父も結婚までの道のりが長かったらしく、男の結婚適齢期を過ぎたところで結婚してくれた母に感謝と愛を捧げている。母だけはこんな自分を愛してくれていると思い込んでいる。幸せな幻想である。その幻想は壊させてもらおう。
「母上なら父上の泣き顔を見るためにさらに突き落としてきますよ」
両親は政略結婚だ。母はごく普通に美しい男性や精悍な男性が好きなのだが、それ以上に男性の泣き顔が好きである。特に、自分が泣かせたのに自分に縋りついてくる男性の泣き顔が。おかげで奇跡的に相性というか性癖が嚙み合ったのだ。父そのものが愛されているわけではない。
「そんなことは無い! ダフネは私の泣き顔だけでなくこの腹の触り心地も愛してくれている!」
「訂正します。母上なら父上の泣き顔を見るためにさらに突き落として父上が屍になったところでようやく優雅に腹を揉みますよ」
「そら見ろ! 最終的に私はダフネに愛され慰められるのだ! そら見た事か!」
幻想は強固であった。
「…………父上がそれでいいのなら私からはもう何も言う事はありません」
まぁ実際、父が母を縋りつくように愛する限り、母は父を捨てないだろう。平和な家庭で何よりだ。
……もしも私にも結婚してくれるという女神のような存在が現れたら、父のように溢れるほどの感謝と愛を捧げるのだろうか。
そうなる自分が想像できない。だがそんな女神が万が一にもいたら、私はどうあるべきであろうか。父のような盲目さは何か違う気がするが……。
まぁ、こんなことは考えても無駄だ。そんな女神はいない。
アレクサンドラ嬢は、お可哀そうに、政略に使われたのだろう。きっと顔合わせの時に倒れられるか、蔑みの目で「貴女を愛することはありません」とか「想像よりも醜悪ですわね」とか言われて破談になるか、震えながら白い結婚を懇願されるのだと思う。
「あ、あの方よ、いらっしゃったわ! リラ、私美しく仕上がっている? グレゴワール様を誘惑して虜にして恋の奴隷にできる?!」
「今のお嬢様に心奪われない者などおりません。けれどお嬢様、恋の奴隷でよろしいのですか? 対等に並び立つ夫婦が理想と仰っていませんでしたか?」
「あり方としては対等が理想だけど、恋心は奴隷であってほしいの! この私以外を見るなどあり得ないわ! あと三日、それまでにグレゴワール様のお心をがっちりと掴んで結婚してみせるわ!」
「お嬢様、三日後は婚約の顔合わせのみでございます」
「婚約証書と婚姻証書をすり替えてしまえばよいのではなくて?!」
「お嬢様、書類の管理は旦那様がされております」
斜め後ろでとんでもない会話が繰り広げられている。
店内がざわついている。侯爵子息の私が来ているからではない。私の後方斜め後ろ、店外に置いてある立て看板の陰にいる煌びやかな女性が不可思議な行動をとっているからだ。
ここは我が領に本店があるとある菓子屋の王都店だ。本店は以前から贔屓にしていたのだが、昨年王家に焼き菓子の献上を許され、結果、ありがたくも王室御用達の菓子店と認められ、王都に店を置けた。なので、ボゾルト家で時折様子を見についでに購入もしているのだが。
ちらりと見えた服装だけでもわかる、明らかに階級が上の人物。声だけでも美しいのだからきっとその姿も。それなのに、立て看板の陰に隠れ切れてない状態で店内の客を監視し、小声で叫ぶという器用な事をしている。注目されない筈もない。
だが私はそちらを見ない。見たらややこしい事になる気配しかしない。後ろなど知らぬ。このパイ菓子美味しそうだなぁ。
「ジョルジュ、お前後ろを見られるか?」
「御冗談を。厄介事に自ら足を踏み入れる趣味はございません」
斜め後ろに立っている侍従に視線を動かさずに尋ねれば、同じように商品を見ながら返事が来た。
「私の命令でもか?」
「失礼ながら、グレゴワール様が真に望んでいる事は『何事も無かったことにしたい』ではございませんか?」
「優秀な侍従をもって幸せだ。いいか、あちらが動いても知らぬ存ぜぬを貫き通せ。ここにボゾルト家の者はいない」
「承知いたしました。侯爵子息が平日の昼日中に話も通さずふらふらと出歩くなど、外聞がよろしくありませんからねぇ」
万が一の時の言い訳を確認を込めて言っているだけなのに、どことなく棘を感じるのは気のせいではないだろう。
「食べる物はこの目で確認したいだろう……!」
常日頃から一般の侯爵子息ならば行かないところまでジョルジュを連れまわしている自覚はあった。だが譲れなかった。美味しい飲食物だけが出不精の私を突き動かすのだ。
「ええ、ええ、予定にないものも偶然見つけてお召し上がりになりたいのですよね。大丈夫ですよ、ここにボゾルト家の者はいらっしゃいませんので、ご自由にご覧ください」
鼻で笑われそうな声色で言われても、何も『大丈夫』とは思えない。ジョルジュの心を休めるためにも、領に帰ったら暫くは大人しくしていようと思った。
「坊ちゃま、いらっしゃいませ。お久しぶりでございます……あの、後ろにいらっしゃる方は……」
我々の会話が聞こえていなかった店主は、ただただ困惑した様子で話しかけてくる。私の後方斜め後ろを気にしながら。
「うん、久しいな。後ろ? ああ、沢山客が来ているようで何よりだ。今のおすすめは何になる?」
「いえ、お客様と言いますか……あ、こちらの季節の果物のパイ巻きです」
「やはりそうか、では定番の蜜蠟焼きと季節の果物のパイ巻きをもらおう」
「ありがとうございます……あの、坊ちゃまのお知り合いでは?」
「はは、どうした、私が領に引きこもりの跡取り息子として有名なのを忘れたか? 貴族の知り合いなどいないに等しい」
「いえ、でも、さっき坊ちゃまの御名前を……」
「ところで久々に作業場の様子も見させてもらいたい。ついでにそのまま裏口から出してくれ」
「でも、あの……」
「頼む裏口から出してくれ、君も我が領民ならわかるだろう、私が宝石や花と軽やかな会話など出来ると思うか? 無理を言わないでくれ、まず向き合えない目を見られないだがそんな失礼な態度をとれば相手を傷つけボゾルトの名にも傷がつくそれは避けねばならない私はこの店で君以外とは会っていないし話をしていないそうだろう?!」
詰め寄っての早口は心に迫るものがあったらしい。店主は顔を青褪めさせながらも痛々しい目でこちらを見る。
「坊ちゃま……! 他領の商売敵が邪魔してきた時は嬉々として矢面に立ってえげつなく丸め込んでくださったのに、どうして……!」
「叩き潰していい相手ならどんな面を見せてもいいからな! さぁ作業場を見せてくれ!」
「おいたわしや坊ちゃま! こちらでございます!」
店主が素早く案内してくれたので、それについて店の奥へと入っていく。背後は絶対振り返らない。
「そんな! 偶然を装って運命の出会いを演出して仲良くなる計画が!」
「お嬢様、素直に三日後を待ちましょう」
背後から美しい声が意味の分からない事を叫んでいる。
侍女らしき人物の声に、まったくだ、と言いたいところだが、それはつまり、彼女は、本当に。
「エティエールの御令嬢でしょうね。まさか顔合わせより前にいらっしゃるとは」
作業場に入り扉を閉めてすぐ、ジョルジュがそう言い、私は深い溜息をついた。
「いや、私は止めたんだよ? 翌日会うのだし、返事を書くのも大変だろうし。そしたら、返事はいらないしとにかく気持ちを伝えたい、と言い張ってね」
ニコニコと笑いながら紙の束を差し出してきたのは、眩しすぎる義弟予定のアドリアンである。
リュシエンヌに会いに来たのが第一の目的だが、それともう一つ、私へ渡す物があるからと会ってみれば、謎の紙の束を渡された。
「い、いや、あの、待って、待ってくださ……え、あ、あの、ま、まさか、これは……?!」
「まぁ義理の兄弟になるんだ、私的な恋文を運ぶくらいはするよ」
「こ、こいぶ、恋文ぃ?! 私にぃ?! こい…………恋文……?」
渡されたのはずっしりと重い書物のような紙の束である。どう見ても手紙には見えない。既視感がある。
「恋文にしては厚みがおかしいよね、妹はこれと決めた時の熱量が気持ち悪くてね」
「い、いえ、恋文の厚さに関しては卿の妹への恋文の厚さも充分におかしく……」
「ん?」
「多大なお気持ち、ありがたく頂戴いたします」
美形は笑顔にも様々な意図を持たせる事を知った。逆らってはいけない笑顔だった。
とはいえ、これをもらってどうすればいいのか。明日会う予定の相手からの、政略婚約と思われる相手からの恋文と名乗る物体。
先日の菓子店の様子を思い出してもまだ疑わしい。人生の大半は他者に嘲笑われてきたのだ、まして王家が絡んでいるかもしれない内容、純粋な恋文であると素直に信じることが出来ない。
「可愛い妹ではあるけど、いささか面倒くさい性格である事は否定できなくてね。顔合わせでどうしても嫌だったら断ってもいいんだよ」
困惑している私に気が付いたのか、アドリアンが苦笑しながらそう言った。
「え、そうなのですか?」
断ってもいい案件なのか、と、少しほっとして顔を上げると、アドリアンはまた逆らってはいけない笑顔になった。
「まぁうちの妹を断った場合、君は今後どんな縁も結べなくなると思うし私とリュシエンヌの子供が義父上の後を継ぐことになると思うけどね」
「わぁ、そうなのですか……」
私は飛ばされ補助に回るのか、そうか……嫡男教育頑張ったのに……いやまぁ有力公爵家の御令嬢をふるなんてことになったらまぁそうなるか……そうなるか?
「そう重く考えず、一度妹と会って話をしてみてくれたまえ。兄の私が言うのもなんだが、妹は面倒くさいところもあるが全体的には面白い女だよ」
「面白い女」
「うん」
御令嬢の紹介としてはそぐわない単語が出てきた。
「い、いや、もっと、か、可愛らしいとか、淑女の鑑とか……」
「うーん、そういった面もあるだろうが、やはり総合的な印象は面白い女、だよ」
「面白い女」
「うん」
世界で一番美しいと言ってもいい女性を表す言葉が『面白い女』とは何の冗談だ、と思う反面、菓子店での様子を振り返ると納得してしまう自分がいた。
リュシエンヌがやってきて、私は逆に部屋へと戻る。懐に入れる事すらできない紙の束が重い。二重の意味で重い。
自室の椅子に座ると、早速手紙を読み始めた。紙を動かすたびに微かにいい香りが鼻先をかすめる。当たり前だが、こんな上品な手紙をもらったことが無くて怯んでしまう。いや、こんな厚さの手紙だってもらったことは無いのだが。
初めましての挨拶から始まり、いつどこで私を知ったのか、私の事をどう思っているのか、後日の対面を楽しみにしている、婚約が無事結ばれるのを祈っている、という事が書かれた、内容としてはごく一般的な手紙だった。
だが、そのすべてが過剰すぎる美辞麗句で飾られていて、もはや慇懃無礼に値する気がする。特に私の容姿を褒めたたえている辺りが。
「……菓子店での言い訳、と見ていいのか? これは……」
読み進めていけば、実は菓子店で見かけたが声をかけられず申し訳ない、と、あくまで気付かれていない前提で挨拶できなかったことを悔やまれていた。その点に関しては私が全力で無視をしていたので悔やまないでいただきたい。悔やむべきは彼女がしていた奇行の方である。
長い時間をかけて読み上げた手紙を机に置き、深くため息をついた。
アレクサンドラ嬢が、エティエールが読めない。
今まで一度も会ったことは無く、仮にアドリアンから盛られた紹介をされていたとしても、菓子店で実物を見た時に真実を知った筈だ……いや、知った割にはおかしな反応だったが。それでも、この私だ。女性から私が好かれる筈もない。
となると、考えられるのはふたつ。
一つはアレクサンドラ嬢が勘違いをしている可能性。
社交界にほとんど出ない私だが、両親や妹を通して一応社交界に出回っている噂は知っている。その中には私に関する噂が幾つかある事も。
中には、不細工であるとか、婚約を軒並み断られているとか、事実でしかないものもあるが。
婚約するために、美形の執事や使用人を付けたり、美しい愛人を持つ許可をくれたり、ボゾルトの金を好きに使う許可をくれたりする――これは事実無根の噂だ。
いや、いたのだ。一時期、そういう条件であれば婚約を考えてやらなくもない、と言ってくる御令嬢というか家が。他所の血が入りそうだったので丁重に断ったが。だが、私に断られた、という事が屈辱だったのか、ボゾルト侯爵家はそこまで譲歩して探しているのにそれでも嫁の成り手が見つからないようだ、という噂を流された。
家族が事実と違うと激怒した事と一通り嗤われた事でその噂は飽きられたが、アレクサンドラ嬢はその噂を信じているのかもしれない。菓子店にいた時は侍従のジョルジュもいた。ごく普通の顔立ちだと思うが、私がいることで比較してとてつもない美男子に見えていて、それで婚約に乗り気になったのかもしれない。私さえ夢中にさせてしまえば後はやりたい放題だと。
この可能性も高い気がするが、現実的なのはもう一つの可能性だ。
当初より考えられていた、ボゾルト領そのものが狙いという可能性。
既にリュシエンヌとアドリアンが婚約を結ばれているにも拘らず、なおも、という事は、ボゾルト侯爵家そのものを早急に手に入れたいという事。
菓子店で言っていた『恋の奴隷』とは、要するに、私を篭絡して何でもアレクサンドラ嬢のいう事を聞く状態にする、私を傀儡の侯爵にしてボゾルトを手に入れる、という事なのだろう。
だが、ボゾルトが抱えているものは、領内が食べていけるだけの農村と最近力を入れ始めた観光保養地。国政に絡む役職にもついておらず、運搬に使うほどの川もなく、海に面してもいないし、難攻不落の山脈を抱えているわけでもないし、何らかの資源が発掘されたという話も聞かない。街道だけは整えているが、際立って優れた街道というわけでもない。婚約の打診を受けてから再調査を入れたからそこは間違いないだろう。
「権力争い含め、戦争や内戦の気配もない……エティエールの領経営も順調だし、王族の方々も同じく。となると、やはり王家が気に入ったという観光保養地……えー、あそこ父上も私も結構力を入れて育てたから取られたくないなぁ……落としどころとしては、権利を王家に献上して実際の経営はうちが、という方向かぁ……? 六四……いや、七三……無理かなぁ、嫌だなぁ」
エティエールが動くのならば、最終的には我々にも利がある状態になるのだろう。なるのだろうが、現状嫌なものは嫌だ。
「アレクサンドラ嬢を丸め込む……出来るかぁ? いや、でも伝わってきている噂全部忖度の結果の噂で、菓子店で見たような彼女が本当なら……」
色々な予想を立てては色々な対策を考えておく。私にはそれ位しか出来なかった。
「ほ、本日はお目通りいただき、ありがとうございます。ボゾルト侯爵家嫡男、グレゴワールでございます」
「ご足労頂きありがとうございます。エティエール公爵家長女、アレクサンドラでございます」
そこに、完全無欠の気高い令嬢がいた。
菓子店での謎の行動などなかったかのように、静かに美しく座るアレクサンドラ嬢に動揺する。こんなの高嶺の花過ぎる。面白さの欠片もないのだが。奇行に走っていた令嬢は何処だ。話が違う。
混乱しながらも改めてエティエール家と向き合う。美というものを体現しているアナイス・エティエール公爵と、公爵によく似たアレクサンドラ嬢。そしてほっと落ち着く一般的な顔立ちをした公爵の御夫君エミール閣下。ええと確かシヌエ伯爵だったか、もうずっと伯爵だけ見ていたい。公爵とアレクサンドラ嬢は眩しすぎて目が潰れる。
ちなみにちゃっかりアドリアンもいるが、ニヤニヤして腹立たしいのでこちらも視界に入れたくない。何で私とアレクサンドラ嬢の顔合わせに立ち会っているんだお前は。物見遊山か。消えろ。
緊張している両親とぐるぐると思考を巡らせ俯く私に、公爵はまるで女王のように優雅に堂々と話を進めていく。
「アドリアンとリュシエンヌ嬢の仲を認めてもらったばかりなのに、更に押しかけるようになってしまったわね。けれど我が家は代々『婚約者は家と自分に相応しい相手を自身で見つけよ』としているの。アレクサンドラも幼少よりそういう目を磨いてきたし、その確かさはこの私が認めるわ。リュシエンヌ嬢といいグレゴワール殿といい、侯爵家は良き教育をされましたね」
「ありがとうございます。閣下にそう言っていただけると、間違いはなかったのだと安堵いたします」
政略だと断言してもらった方がよかった。アレクサンドラ嬢が私を選んだ? 嘘だろう。嘘じゃないなら公爵の言う『そういう目』とやらは大分曇っているに違いない。もしかしたら『そういう目』がお気に召したのはやはりボゾルト領自体だろうか。だったらもうその辺りをすべて正直に言って欲しい。仕事として交渉したい。
親同士のあれやこれやを横聞きしながら、私はアレクサンドラ嬢をそっと見た。目が合った。なので目を逸らした。もしやずっと私を見ていたのか? いや、偶然に決まっている。自意識過剰にも程があるぞ、私。あと、ちらりと見えたアドリアンがまだニヤニヤしていたので殴りたい。
昔、遠目に見た時よりも、さらに魅力的になっている気がする。だがこの彼女は菓子店にいた彼女と同一人物なのだろうか。なんか眩しいオーラは同じだけど雰囲気が違う。
「……それでは、二人の婚約を認めるという事で」
嘘だろう。少し意識を飛ばしている間に婚約が調ってしまった。アレクサンドラ嬢、引き返すなら今がチャンスです。アレクサンドラ嬢、何故頬を染めて頷いているのです。
「……ッあ、あの!」
少し裏返った声が出てしまった。アドリアン、今噴出したな、後でリュシエンヌに告げ口してやる。
「こ、婚約を結ぶ、前に、一度、エティエール公爵令嬢と、おは、お話がしたいのですが」
「そうね、まだ二人は少しも話していなかったわね。アレクサンドラ、庭を案内してさしあげなさい」
「はい」
美しい声で返事をしたアレクサンドラ嬢と私は部屋を出た。侍女が先導してくれるので、それに付いていけばいいだろうと足を一歩踏み出したところで。
「あの、ボゾルト卿……」
「は、はい……え?」
呼びかけられて振り返れば、アレクサンドラ嬢は微笑みながら控えめに手を差し出していた。何をしているのかと考え、そして次の瞬間、衝撃と共に血の気が下がった。
エスコート。母と妹以外誰も受け入れてくれなかったエスコート。無視されるとしても礼儀としてやらなければならないエスコート。あまりにも無縁の日々が長かったため完全に失念していた。何という無礼を働いてしまったのか。本当なら部屋を出る前から、椅子から立ち上がる時点でするべきだったのに。
「し、失礼しました! き、緊張のあまり、頭が、回っていないようで……!」
「構いませんわ。私も緊張していますの」
真意の読めない、まさに淑女の微笑みでそう言ってくれた。やはり菓子店での彼女とは別人だ。
エスコートは嫌がられることなく、二人で並んで庭に出る。道すがらのアレクサンドラの美しい声による穏やかな説明は、私の頭にすっと入ってきてとても心地よかったし、公爵家の庭の美しさにほれぼれした。
エティエール公爵家は、何処をとっても美しい。場所も、人も。
「少し座って話しませんか」
花々に溢れた庭の中にある四阿にたどり着き、向かい合って座る。筈が、アレクサンドラ嬢は隣に座った。何故だ。
「あああの、エティ、エティエール公爵令嬢、とな、隣ではなく、向かいの席の方が……!」
「まぁ、アレクサンドラとお呼びになって」
私の発言は無かったことにされ、アレクサンドラ嬢がそっと腕に触れてくる。何故だ。助けて。罠だこれ。まずい、天使に篭絡される。
「え、エティエール公爵令嬢! わ、私達はまだ……!」
「アレクサンドラですわ」
「あ、アレクサンドラ嬢、わた、私達はまだ婚約が成立したわけではないのですから……!」
「そう、実は婚約の事でご相談したくて……」
「!」
来た。さぁ、どれだ。婚約を望んでいないか、愛人や散財の許可か、ボゾルト領の乗っ取りの為の篭絡か。予想はついている。大丈夫だ、別に傷ついてなんかない。
「私、正直に申し上げますと、婚約はどうかと思うのです……」
……別に、傷ついてなんかない。本当だ。何度も何度も言われた拒絶の言葉だ。泣き喚いたり罵ってきたり気絶されたりしなかっただけ、アレクサンドラ嬢は心が広く強く気遣いの出来る方だ。
こんなものだ。これが普通だ。そもそも私は彼女の振る舞いを疑っていたではないか。少しだけ、ほんの少しだけいい夢が見られたのだ。何も問題はない。
「婚約を飛ばして結婚をすることは可能でしょうか」
何も問題は……問題だらけだなぁ?!
「アレクサンドラ嬢、正気に戻ってください」
「いたって正気ですわ」
「では自棄にならないでください」
「自棄になってもいませんわ。強いて言えば焦っております」
「あ、焦っている?」
「はい、早く手を打たねばボゾルト卿がどこぞの小娘に取られてしまいますゆえ」
「アレクサンドラ嬢、正気に戻ってください」
「いたって正気ですわ」
会話が出来ていない。きっとアレクサンドラ嬢は錯乱されている。私は助けを求めるように彼女の侍女を仰ぎ見たが、何故か侍女は何かを諦めたような、すべてを受け入れたような微笑みで小さく頷くだけだった。
「……あ、アレクサンドラ嬢、私も、馬鹿ではありませんし、か、覚悟はできております。こ、ここは一つ、腹を割って話しませんか」
「覚悟はできている……つまり、今日にでも婚姻証書にご署名頂けると?」
「い、いえ、ですから、腹を割って話しましょう。アレクサンドラ嬢の、エティ、エティエール公爵家の望みは何ですか?」
「ありがたいことに、母も父もただ私が幸せであればいい、と」
「そういうことではなくてですねぇえぇぇ……!」
駄目だ、これ多分アレクサンドラ嬢には何も伝えられてないな。後からどうとでもなると言われているか、後から指令を出すからとりあえず落としておけと言われているやつだ。そうか、そこでリュシエンヌ経由のアドリアンか。くそ、もう追い詰められているじゃないか。
「……い、いえ、そうですね、わ、私も、アレクサンドラ嬢のような素晴らしい女性は、し、幸せになるべきだと思います」
「ありがとうございます。ご安心ください。私、旦那様に幸せにしてもらいたいとは思いますが、私も旦那様を幸せにしたいと思っておりますの。国一番の夫婦になりましょうね」
「あの、ほ、本当に、違……ッ! あ、アレクサンドラ嬢には私のようなものではなく、もも、もっと素晴らしい方が相応しいのではないかと思うのですが?!」
「まぁ」
天使の誘惑に必死に耐えながら叫べば、アレクサンドラ嬢の瞳から光が消えた。
「………………その私に相応しいとかいう素晴らしい方はどちらにいらっしゃいますの?」
笑顔のままなのに怖い。美形は笑顔に色々な意味を乗せ過ぎである。
「え……あー、第三王子殿下……は、エティエール公爵家としては無理ですよね、となると……あ、り、リンツ公爵家の御嫡男はとても美しく優秀な方と私でも聞き及んでおります!」
「リンツ公爵家。あの棒っ切れのような体の上に甘ったるい顔をした小賢しい方」
「え」
笑顔のままなのに怖い二回目。あまり御令嬢の口からは出てきてほしくない評価が出てきた。
「あらいけない、口さがない事を……見苦しいところをお見せしました。ご容赦ください」
「あ、いえ……あの、り、リンツ公爵家の御子息とは面識が?」
「そうですね、兄が友人ですので。御令嬢方には憧れている方もいらっしゃるようですが……人の趣味は様々ですわ」
さも意外な事のように言われたが、第三王子殿下とリンツ公爵子息が大人気なのは引き籠りの私でも知っている事実だ。お二人とも見目麗しく優秀で御令嬢方だけでなく夫人方にも熱い視線を送られていると聞く。それなのに。
「あ、アレクサンドラ嬢のお好みではなかったと……」
「やはり殿方はボゾルト卿位たくましい方でなくては、と思います」
瞳に光が戻って恥ずかし気に頬を染めた。天使が狂った。
「た、たくましいとは、これは、中々、あ、ありがたい捉え方で……」
「捉え方だなんて。事実としてボゾルト卿はたくましいではありませんか」
「い、いえ、これは太ましいという……」
「その上、獣をも支配せんばかりの雄々しい顔立ち。騎士団の方々もかくやと言わんばかりの、強く勇ましい風貌だと思いますわ」
何という事だ、天使が狂い続けている。
というか、これは。
これは、もしかして。
もしかして、まさか、母の同類の方なのか……?!
「……あの、勘違いなさらないでね。私は外見だけで心惹かれたのではありません。ボゾルト侯爵領の繁栄、その一助となっているボゾルト卿のご活躍をよく存じております」
私の思考を読んだかのように、アレクサンドラ嬢が苦笑して語りだす。
そうだ、あまりにも言われ慣れていないから動揺したが、これが社交辞令、お世辞、会話の潤滑油というやつだ。危なかった、真に受けてしまうところだった。母の同類なわけがない。アレクサンドラ嬢に失礼だった。
少し落ち着きを取り戻した。するとそれを見計らったかのように、アレクサンドラ嬢は私の膝の上にある手に自身の美しい手を重ねてててて手ぇ! あったかい! やわらかい! 天使怖い天使怖い堕落させられる悪魔かこの人いや天使だ怖い助けて!!
「最近、侯爵領では『実力あらば身分問わず』を謳い文句にして、その通り実力がある者を身分問わず採用し、一人一人の負担を減らし常に円滑に業務が進む体制を作り出されたそうですね」
それは私が楽をしたいからだ。私が気分で休んでも仕事が滞らないようにしたかっただけで、あと、他で権力争いに負けて平民落ちしてうちに来ていた元貴族の才能がもったいなかったからで、評判が良かったから同じ体制を平民にも教えたら色々なところで採用されただけだ。
「それに、観光保養地に王侯貴族だけでなく平民の方にも手が届きやすい飲食を増やして、購買層をかなり広げたとか。商人や旅人には情報も集まる有難い場所、立ち寄るべき場所として有名になっておりましてよ」
それは私が様々な美味しいものを食べたかったからだ。領地を見て回ると、貴族に出すのは躊躇われるがやたら美味しいものが眠っていたのだ、あんなの何時だって食べられる状態にしたい。あと商人が他所から持ってきた美味しいものも定期的に欲しいから、媚売りのように商人や旅人に優しい仕組みを作っただけだ。
「様々な商店、商会への助成の巧みさも伝わっておりますのよ。ええ、助成そのものは勿論、商売敵との綺麗なお別れの仕方、とかも。実力さえあれば必ず領主が後ろ盾になってくれる、というのは心強いですわね」
それはボゾルト領の邪魔者を徹底的に排除したかっ……あ、うん、あってるな。
「ボゾルト卿、今あげた内容はすべて貴方が関わっている、いえ、提案し取り仕切っていると伺っております」
それはまぁそうなのだが、母を幸せにするために父が馬車馬のごとく努力をした土台があってこそで……あぁもう、勘違いと言えなくもないけれど、こちらにとって都合が良い勘違いだからこれもう放置でいいかー。
「外見も素晴らしく領の将来も明るい、何故ボゾルト卿に今まで婚約者がいらっしゃらなかったのか不思議でなりません。ああ、ですがおかげで私は今この場にいるのですから、これはやはり、私と巡り合い結婚する運命だった、と……! 私、子は三人は欲しいですわ」
赤く染めた頬に手を添え、恥ずかしそうに目を伏せる。何とも可愛らしい、恋する少女の仕草だ。最後かなり先走った内容を口にしていたが。
だが理解できた。彼女は中身と背景を見て判断されたのだ。色々勘違いだが、その評価はありがたい事だ。
……ありがたい事だ。
私はじんわりと目元が熱くなるのを感じた。
例えば何か成果を上げたとしても、私は外の人間に評価されることがなかった。認めてくれたのは家族のみ。領民とて、私が領地に引き籠もり実際に見回って交流するようになって、彼らを助けるようになって、ようやく認められたのだ。
私だって昔から引き籠りだったわけではない。小さな頃はそれなりに王都で他の貴族と交流をしていたのだ。だが、心が折れたことがあった。
第三王子殿下の同世代という事で、かつて、高位貴族の子供ばかりが集められた茶会があった。今ほど丸くはないが、すでにふっくらとして厳つい顔つきだった私は、会場に入った瞬間にくすくすと笑われた。
『あれが噂の……』
『本当に物語の野獣みたい』
その前から、自分の容姿が嗤われるものなのだとわかっていた。大規模な茶会こそ初めてだったが、小さな茶会には参加していたから。
それでも、参加していた茶会で多少なりとも話が出来る相手も出来ていたし、家族や家庭教師には出来がいいと褒められていたからそこまで卑下していなかった。何なら言い負かしてやろうかと嗤う集団を見た時。
『嫌だ、こちらを睨んでいるわ。私、彼に突き飛ばされたことがあるのよね』
『それは怖い、前に参加した茶会では礼儀知らずで大恥をかいていたし、野獣というのは間違いじゃないな』
そう言って、私を蔑んだ目で見て、にやにやと笑っていたのは、私が多少なりとも話が出来ると思っていた二人だった。
君を突き飛ばしたのは別の子だったじゃないか。カッコいいと付きまとっていた子に突き飛ばされて、転んだところを私が立たせてあげたのに。
礼儀知らずだったのは君じゃないか。周りの大人が眉をひそめていたから、隠すようにしてさりげなくそれを教えてあげたのに。
二人とも「ありがとう」と言って、それで少し話をして、もしも今日会えたら、友達になれるかも、と……思っていたのに。
その後はどう足掻いても無理だった。私が誰に話しかけようとしても、皆嗤いながらそそくさと離れていく。離れたところでくすくすと笑う。何もせずに片隅でじっと過ごして、それなのに、後日、色々な御令嬢に付きまとっていた、と噂された。母も同席の茶会だったので、そんな事実はないと、母が誰よりも怒って噂を消してくれたのが救いだった。
今ならわかる。多分、私は私で、助けてやったという空気を出していたのだろう。それが屈辱だったのだ。望んでいなかったのだ、私の手助けなど。
突き飛ばされた子は、突き飛ばされたところを見られたくなかったし、突き飛ばした相手にこそ助けてほしかったのだ。
礼儀を逸した子は、その無礼を知られたくなかったし、後で年長者に優しく指摘されたかったか自分で気付きたかったのだ。
余計なお世話をしてしまった。それはわかる。だけど、それは嘘をばらまかれて嗤われるほどの事ではない筈だろう。多分。
その後はもう完全にいたぶっていい玩具扱いだ。社交界に最低限しか関わらなくなっても、その最低限の交流で嗤われる、無視される、嘘の噂をばらまかれる。
そして、父の手伝いをしてからの功績は、交流したこともない奴らが教えてくれたことになっていた。もしくは、関わったこともない奴らから盗んだことになっていた。
『ボゾルト卿、今あげた内容はすべて貴方が関わっている、いえ、提案し取り仕切っていると伺っております』
やっている内容は大したことじゃない。世界を動かしたわけでも大発明をしたわけでもない。ただ少し、領内を活気付けさせただけ。少し、領内の皆がやりやすくなっただけ。
それだけだ。だが、それらを私がやったことだと、誰に教えられたでも誰の考えを盗んだわけでもなく、私が考え行動したことだと、認めてもらえた。
私の悪い噂なんて、社交界の中心にいるこの方にはきっと山ほど入ってくるだろうに、恐らく自身の目で見て自身で判断して私を認めてくれたのだ。そんなことをしたら、それこそ他の御令息御令嬢に白けた目で見られるだろうに。
アドリアン、お前の妹御は『面白い女』ではなく『素晴らしくも変わった女神』だ。
「……申し訳ございません、私ばかりが喋ってしまって」
俯いてしまった私に気遣って、アレクサンドラ嬢が視線を落として声を小さくする。やめてくれ、何故キュッと手を握るのか、助けて助けて天使怖い助けて。
「いいいいえ、あの、あの、お、お気になさらず」
どこを見ればいいのかわからなくて視線を泳がせたまま伝えると、アレクサンドラ嬢は小首を傾げ上目遣いで尋ねてきた。何だろうな、何でこの人何もかも絵になるのだろうな、これが美しいってことかな、天使怖いな。
「ボゾルト卿は、この結婚をどう思われていますか?」
結婚ではなく婚約ですが……どう思っているか。ああ、この返事をまともにさせないために私は今篭絡されているのだろうか。いや、侯爵家を継ぐ者としてここはしっかりと意見を、あ、やめて、だからこれ以上近づかないで身を寄せないでいい香りがする助けて神様この天使止めて。
「……ッそ、率直に、も、申し上げますと、え、エティエール公爵家に何の利点も無い様に見えます。となれば、わ、我々ボゾルト側が知らない何かをエティエール公爵家が掴んでいるのかな、と、思って、いたのですが……」
語尾が小さくなってしまう。
「どうぞ、続けてください」
ボゾルト侯爵家が損をしないために見極めなければならない。それなのに、頭がいつもより三割増しで鈍い。これもアレクサンドラ嬢の作戦だろうか。ああ、結局ここまで来ても私は疑っている。
「……あ、アレクサンドラ嬢に失礼なことを、く、口にしております。大変、申し訳ない」
「いいえ、私が問うたことでございます」
「わた、私は、この婚約の意図が読めません。あ、アレクサンドラ嬢は、先ほど、あ、あんなにも心を砕いてくださいましたが、そ、それでも私には、ど、どうしてもそのお言葉を信じ切ることが出来ない、の、です。今、この状況ですら、どこかで、だ、誰かに笑いものにされているのではと、思って、しまう。え、エティエールに意図があっての婚約だと言われた方が、わかりやすい。そ、その場合は、ただただエティエールとボゾルトの両方が、と、得をするよう動き、アレ、アレクサンドラ嬢が不快な思いをしない生活を提供しようと、尽力するのみです。ところが、あ、貴女はそのような意図はないと、仰る。だから……」
私の人生において初めてと言ってもいい、異性との接触、異性からの高評価。それらすべてを嬉しく思うのに、同じくらい信じることが出来ない。わかっている。私は面倒くさい男だ。だがこう育ってしまったのだ、こう学んでしまったのだ。性格も思考回路もすぐに変えられるものではない。
「……だ、だから、もし、もしも本当に、ほ、本当にアレクサンドラ嬢が私を、す、少しでも好ましい、と、そう思って、え、選んでくれたのだとしたら……すみません、あ、あまりにも自分に都合がよすぎて、信じられない、お、お気持ちをどう返せばいいのか、わからない、うれ、嬉しいのです、それは間違いなく。ですが、そ、そんな風に思われたことがないので、どうすれば……どうすればアレクサンドラ嬢のお気持ちに報いることが出来るのか、わ、私には……」
わからない。
混乱している。信じられない。だから、どうすればいいのかわからない。これが正直なところだ。
絶世の美女が自分を高評価している。そんなのは夢物語だ。特に私のような男には。
男女の仲など、私には遠い世界の話だった。それなのに、最上級の話が降って湧いたところで、実感もなければ手に余る。
自分は今、多分、非常にもったいない事をしている。
馬鹿になって諸手を挙げて飛びついてしまえばいいのだ。裏でどれだけ馬鹿にされようと、後からもう用済みだと捨てられようと、今この瞬間は最高の宝を手に入れることが出来るのだ。多分普通に生きていけば絶対に手に入れられない宝を。
だけど。
だけど、もしも本当に、アレクサンドラ嬢が私をいい人間だと、価値ある人間だと思ってくれているというのなら。
それならば、私はただ宝をありがたがるだけで終わりたくない。
「わ、わからないのです。だん、男女の、機微など、じょ、女性が何をもって喜ぶかなど、私にはわからない。け、けれど、人として、ここまで生きてきたのは確かです。な、ならば」
ここだけは、外せない。強く心に決めて、アレクサンドラ嬢の顔をしっかりと見る。その美しい目は、やはり私を優しく見守っていてくれていた。
泣きそうだ。緊張する。けれど、これだけは伝えなくては。
「アレクサンドラ嬢、私はこの婚約がどのような意図で結ばれたにしても、人として、貴女に、誠実でありたい」
誰よりも何よりも、アレクサンドラ嬢に誠実な人物でありたい。
ただ正直に、今の心境を伝えた。これは、経験のない私の精一杯の誠意の告白なのだ。
もっとうまいやり方や駆け引きなどきっとごまんとあるのだろうが、私にはこれしか思いつかなかった。
「……ボゾルト卿は、美しい心根をお持ちですのね」
「え……」
わずかな沈黙の後、返されたのは思ってもみなかった言葉。
「私、今とても自分が恥ずかしいですわ。ボゾルト卿の外見を褒めたたえ、その才を見出したかのようにお伝えして……けれど卿は忘れられがちな心にこそ気遣ってくださった」
「あ、アレクサンドラ嬢……」
違う、私はただそんな機会がなかったから美辞麗句を操ることが出来ないだけだ。貴族間の交流もほとんど出来なかったから、褒めたたえようとすると領民にするように上からになってしまうから控えているだけだ。圧倒的な経験不足。それを何とかただ正直になる事で誤魔化そうとしているだけだ。
情けない人間だ。それなのに。
「改めて申し上げます。エティエール公爵家長女アレクサンドラは、ボゾルト侯爵家嫡男グレゴワール様との婚約を望みます。これはエティエールの意思ではなく、私の意思です」
それなのに、アレクサンドラ嬢は、その行動すら認めてくださった。
「……ッ……じょ、女性に、そのような申し出をさせてしまって、まこ、誠に、心苦しく……!」
「あら、そう思われるのでしたら、ボゾルト卿からもお願いいたします」
悪戯を仕掛けたような無邪気な笑顔に、何故かストンと肩の力が抜けた。心地良い諦めにも似た、爽やかな敗北感。
もういいではないか。
裏があるかもしれない。隠された意図があるかもしれない。嘘かもしれない。
けれど、ここまで言われたのだ。ここまで伝えてくださったのだ。
裏があろうとなかろうと、隠された意図があろうとなかろうと、嘘があろうとなかろうと、私はただ誠実に。のめり込むでもなく、従属するでもなく、入れあげるでもなく、ただただ誠実に。
ただ受け入れ、ただ感謝し、ただ愛そう。
……なるほど、やはり私は父の子だ。
私は椅子から立ち上がり、アレクサンドラ嬢に向き合うとその目を見つめながら跪き手を差しだす。その宝石のような眼が私の姿を捕らえても逸らされない。アドリアンだけでなく、この方も初めから私を邪険にしなかったことを、今更ながらに噛みしめる。
私を見て、私を認め、私を評価してくれた方が、ずっと聞き苦しい喋り方をしている私から目を逸らさず聞いてくれた。
本当に心が美しいのは、きっとこの方だ。
「……アレクサンドラ嬢、私、グレゴワール・ボゾルトは、貴女との婚約を望みます。貴女の心を守り、貴女の日々を支え、貴女に幸せをもたらします事を誓います。どうか、この手をお取りください」
「ええ、ボゾルト卿、喜んでお受けしますわ」
「どうぞ、グレゴワールとお呼びください」
「ええ、喜んで、グレゴワール様!」
今日一番の笑顔を見ることが出来た。不思議なもので、疑心暗鬼だったさっきまでは美しい怖いとしか思わなかったのに、全面降伏をしてしまった今はこの輝かしい笑顔に妙に心が跳ねた。
そうか、これが恋に落ちるという事か。
初めての感覚に面映ゆさを覚えていると、アレクサンドラ嬢は私の手を両手で包みながら言った。だからそういう行為は初心者には刺激が強すぎてですね?!
「それでは結婚はいつにいたしましょう! 今日? 明日? 明後日?」
「アレクサンドラ嬢、正気に戻ってください」
「いたって正気ですわ」
「先に助言をしておこう。妹は今の君の見た目ごと気に入っているからね。どうせ服装とか口を出し始めるから、下手に考えず全部妹に任せてしまえばいい」
「そんな、気に入っているだなんてお世辞は……」
「君はあれを本気でお世辞だと思っているのか?」
「え、いや、だって……えぇ?」
今日も今日とてリュシエンヌに会いに来たアドリアンの相手をしている。私は私でこの後アレクサンドラ嬢に会いに行く予定なので、一刻も早く解放されたい。急いで支度をしてくれリュシエンヌ。約束の時間よりむやみやたらと早く来るのはいい加減迷惑だと気付いてくれアドリアン。
「しかし、本当に君みたいな男がいるとはね。おかげで我が家は妹に平謝りだ」
「どういうことですか?」
いかに煌びやかな存在であっても、その内面が変態だという事を知り、会う回数を重ねていけば、流石にその煌びやかさにも慣れてきた。まだほんのりと目を見ることは出来ないが、どもる事もなく返せば、アドリアンはアレクサンドラ嬢の過去を教えてくれた。
「妹は子供の頃から理想の男性像を家族に語って聞かせていてね、家族みんなで『そんな男はいない』と言い続けてきたのだが、理想の男性像そのままの君がいたときた」
「理想の男性像、ですか?」
「そう、子供の頃に裏庭の森で野犬が出て来たことがあってね。その時に庭師が追い払って腰を抜かした妹を抱えて助けたことがあったのだが、どうやらそれが妹の『理想の王子様』の始まりだったらしい」
その庭師は私と同じような体形で、私とは違って髭面の優しい顔立ちだったらしいが、追い払う時の睨みは別人のようだったらしい。
ただし、初恋にはならなかった。何故ならその庭師は妻子持ちだったし、流石に年が離れすぎていたし、髭はそこまでお好みではなかったそうだ。
それでも、本当に恐ろしいところを救ってもらえたことで、小さなアレクサンドラ嬢にその印象は焼き付いたそうだ。
「獣を追い払えるくらい強く、自分を抱えて逃げることが出来るくらい力があり、抱えられた時に自分がすっぽり収まる位一回りも二回りも三回りも大きい体躯で、一睨みで獣が怯えるような眼光鋭い力強さのある容貌。この時点で大分絞られてくるが、これだけじゃない」
アドリアンは喉を鳴らして笑いながら続ける。
「エティエールと渡り合えるだけの才覚を持ち、何処に出しても恥ずかしくない紳士の振る舞いをし、自分だけを愛してくれる人。どうだ、こんな男はいないと思うだろう」
「それは、確かに……と言いますか、私も当てはまっているとは……」
身分問わずで探せば、前半だけならいるだろうし、後半だけでもいるだろう。だが、両方を兼ねそろえるとなると無理がある。私だって完全に当てはまっているとは言い難いというか言えない。無理がある。
獣は、まぁ、そこまで大きなものでなければ、何を使ってもいいなら追い払えるだろう。アレクサンドラ嬢を抱える事も出来るだろう。彼女を軽く上回る体躯に周囲を怖がらせる風貌も持っている。
だが、エティエールと渡り合えるだけの才覚? ボゾルト領しか見ていなかった自分に何を無茶な。何処に出しても恥ずかしくない紳士の振る舞い……は、まぁ、一応高位貴族だし、色々反省して弁えているから、まぁ多分出来ていると、思いたいが……輝かしい存在を前にすると、卑屈になってどもってしまうのは駄目なのではないだろうか。
「正直に受け取らなくていいよ。要は現状の暮らしに満足しているから、そこに理想の王子様が加わってほしい、というだけだ。いやぁ、高位貴族で領経営も上向きの家に女遊びをしない真っ当な性質を持つ理想の王子様が売れ残っていたとは、我が妹の引きの強さよ!」
そんな大層な男ではない。とは、もはや言えない状況である。
「……彼女の夢を壊さないように尽力します」
「適当に頑張り給え。あ、肉体改造は頑張らないであげてくれ」
良い情報を得たと思うべきなのだろうが、少し困惑する。実はアレクサンドラ嬢に恥をかかせないために、本格的に体を絞ろうかと考えていたところだったのだ。あと、少しでも顔の怖さを消すために化粧でも覚えようかと。
しかし、ここにきてまさかの母の同類説が間違ってもいないとくるとは……いや、アレクサンドラ嬢の場合は恐怖心とときめきと安堵が変に結びついてしまっているのかもしれない……?
ともあれ、どんな理由だとしても、この肉がとこの顔を気に入ってくれているのなら、変にいじったりせずにいこう。
「しかし、幼少の出来事がきっかけでしたか。私はてっきりエティエール家独自の美の基準があるのかと思っていたのですが」
「そんなものはないよ。私は妹とは逆でね、正直に言うと……見た目の違いがいまいち分からないというか……いや、違いは分かる。分かるのだが、どうしてもそこに価値を見いだせない。それに、現状のエティエールに満足していない。さらに上へもっていきたい。その点、リュシエンヌは完璧だ。あの雰囲気と性格と仕草と能力と立ち回りと美意識と機転のきかせ方は素晴らしいしそのすべてを愛している。私はリュシエンヌの見た目がどう変わっても変わらず愛するよ。本当に私が求めていたすべてを兼ねそろえていてね、この前の茶会の話をしてもいいかい? ドレスコードがあったお茶会だったのだけど……」
「出来れば身内が絡む惚気は聞きたくありませんね」
身内への気恥ずかしさというよりもアドリアンの面倒臭さを感じ取ってぶった切った。リュシエンヌ、お前はお前で大丈夫そうだ。そろそろ安心してもいいかもしれない。
「うーん、残念。そうそう、私は妹の事で惚気られても全く構わないよ」
「はぁ」
恐らく私がアドリアンに惚気話をする日は来ないだろう。私の性格的に、多分、惚気話をするより一人で噛みしめる気がする。
人生はどう転ぶかわからない。自分がまさか誰もが憧れる美女と婚約を結ぶ事になるとは。本当に、人の趣味とは様々だ。
別に婚約者が出来たからと言って、私が劇的に変わることは無い。今後も領内に引き籠もっていることが多いだろうし、煌びやかな人々には卑屈な思いを抱えるのだろう。
けれど、こんな自分を選んでくれた人がいる。
それならば、選んでくれた女神、いや、アレクサンドラ嬢の為に、彼女の『理想の王子様』を体現するべく頑張ろう。
中々に厳しい目標である。エティエールと渡り合えるだけの才覚を身に着け、何処に出ても恥ずかしくない紳士となり、そして。
彼女だけを愛する。これに関してだけは……とても簡単な事だ。