・第三話
楼蘭は、いつの間にか閉じていた目を、ゆっくりと開ける。
さっきまで黒板に書かれていた方程式は、いつの間にか消されていたけれど、特に問題は無い、どうせこの範囲は既に勉強しているのだから。
この羽根山高校に入学したのは、特に理由があった訳じゃない、家から近くて学費も安い、それだけの理由で選んだ、まあ地元には、どうせここ以外に高校は無かったから、選ぶ余地もあまりなかった訳だが。
とにかくここでそれなりに成績を修め、大学へ行く。その時には家を出る、家を出ることは両親にまだ言って無いけれど、どうせ反対される事も無いだろう、両親はとにかく、自分を追い出して、早く優秀な親戚の子を、『養子』に迎えたいんだ。その為にはむしろ、自分などいない方が、かえって嬉しいに決まっている。
楼蘭は、微かに笑う、そうだ、もしも家を出たいなどと聞けば、ひょっとしたら両親は喜んでくれるかも知れない、今まで、自分は両親が喜んでいる顔なんか見た事も無かったけれど、ようやく始めて、両親が喜ぶ顔を見られるかも知れないではないか。
そう考えると、むしろ家を出る、と伝える事は良い事のような気がする。
思わず声を上げて笑いそうになるのを、軽く頭を振って我慢する。落ち着け、今は授業中だ。
ちらり、と、黒板の上にかけられた時計を見る。十三時五十五分、授業の時間は四十分だから、あと五分ほどでこの授業も終わりだ、次は何の授業だったかな? 今日は帰ったら何をしようか? 最近では、父の跡を継ぐための勉強も、母の跡を継ぐためのダンスや演技のレッスンもやっていない、両親が、『もう良い』と言ったのだ、それもきっと、『養子』が来る事がほとんど確定しているからだろう。
だから最近では、学校から帰ってから夕食までの時間、或いは休日などを、ずっとゲームをして過ごしていた、最新型のゲーム機から古い物まで、親がくれる小遣いで、簡単に揃えることが出来た、『養子』が来たらそれらは皆、そいつに取られてしまうかも知れないが、まあ良い、どうせもうすぐ追い出されるんだ、それまではせいぜい、親の金で遊んでやるさ。
楼蘭は、ふん、と鼻を鳴らしそうになって、またしても軽く頭を振った。
とにかく今は、授業に集中しないと……そう思い直して、残り五分の間だけでも、教師の声に耳を傾けようと、崩れかけていた体勢を整えた。
その時。
ざざ……
突如として、耳障りなノイズの音が、教室の中に響いた。
「……?」
楼蘭は、思わず顔を上げていた。
今の音は……何だ?
胸の中で呟きながら、音のした方を見る。黒板の上の壁に掛けられた時計、そのさらに上に設置されたスピーカー、校内放送やチャイムの音などを流す為の物だ、だからてっきり、チャイムを流そうとして、何処か故障でもして変な音がしたのか、と思った。
けれど……
『あー』
再びスピーカーから聞こえたのは……
何処か間延びした、恐らくは少女と思われる声。
そして。
『あー、あー、テステス』
声が言う。
「……?」
その声が、何処かで聞いた様な気がして、楼蘭は思わず眉を寄せたけれど、何処で聞いたのか、そして誰の声だったのか思い出せない。
『羽根山高校二年A組』
声が言う。
いきなり響いた声に、黙ってスピーカーを見上げていたクラスメイト達も、突如として自分達のクラスの名前を出され、びくっ、と身体を震わせ、動揺した様子を見せる。
『並びに、羽根山高校全校生徒、全教職員に告げる』
少女の声が言う。
『今から、『ゲーム』を開始する』
少女の声は、はっきりとそう告げた。
『命をかけた『ゲーム』だ、『マスター』はこの私、そして『プレイヤー』は、二年A組の生徒達、ルール説明は後ほどとさせて頂く、とりあえず今は、頑張ってクリアーを目指してくれ、とだけ言っておこう』
「ちょっと!!」
がたんっ、と音がして、一人の女子生徒が立ち上がる。
「一体何なのよ!? 今は……」
その言葉の後に、その女子生徒が何を言おうとしたのかは、結局解らないままだ。
何故なら。
どおんっ!!
次の瞬間。
轟音が轟き、教室が。
否。
校舎全体が、大きく揺れたからだ。
「な 何だっ!?」
誰か男子の叫ぶ声。
「きゃあああああっ!!」
さっき立ち上がった女子とは別の女子の悲鳴。
「みんな、机の下に潜りなさい!!」
さっきまで授業していた教師が叫ぶ声。
楼蘭は咄嗟に、ばっ、と机の下に隠れた。だが、自分と同じ事が咄嗟に出来た人間は、一体何人いたのか……それすらも解らないほどに激しい揺れが辺りを襲っていた。
何が起きたのか。
楼蘭には、解らない。
だが……
何かが……
何かが、始まろうとしていた。