第一話
羽根山高校、二年A組の教室には、だらり、と弛緩した空気が漂っていた。
時刻は、昼の一時三十五分。午後の授業が始まって、そろそろ十五分程度が経過しよう、というところだろう、だがその十五分の間に、クラスメイト達はほぼ全員がだらけてしまっていた。
こそこそと。
或いは、大っぴらに。
授業なんか、完全に無視して自分の『作業』に没頭している者。
スマートフォンを弄っている者。
退屈そうに、ペンをくるくると回している者。
外の景色をぼんやりと眺めている者。
果ては授業とは全然関係無い勉強をしている者までいる。
無論、そういう人間ばかりでは無く、きちんと授業を受けている者もいる。
増崎楼蘭も、その一人だ。きちんと教科書とノートを机の上に広げて、初老の教師が棒読みする解説を聞きながら、黒板に大きく書かれている数学の方程式を、ノートに書いて行く。
もっとも、今授業でやっている範囲の勉強は、実際には一月以上も前に、自分で既に勉強した箇所だから、今更必要無いのだけれど、それでも復習しておく事は、決してマイナスにはならないだろう。事実楼蘭はそうして、トップ、とまでは行かないにしても、それなりの成績を修めてきた。今はまだ二年生だけれど、来年には三年生になり、本格的な大学受験が始まる、そうなった時に、この成績はきっとプラスになるだろう。
そうだ。
そして。
地元の大学でも、或いは何処か別な場所の大学でも構わない。とにかく早く……
早く、独立して家を出たい。
自分は……
自分は……
『要らない子供』なのだ。
楼蘭は、そう思った。
増崎楼蘭。
十七歳。
高校二年生。
この地元にある羽根山高校に通う二年生。
成績は、トップ、とも言えないが、それなりには上の方だ、この調子ならばそれなりの大学には行けるだろう。
勉強以外では、残念ながら特筆すべき才能は無い。運動も普通だし、残念ながら芸術だとか、音楽だとか、そういう方面の才能には恵まれていない。
加えてあまり社交的では無い性格で、口数も少なく、クラスにはあまり友人もいないし、それに恋人もいない。
別にそれで構わない。自分の人生は、それで良いんだ。変に目立ったりもせず、特に劇的な出来事も起こらずに、ただ……
ただ、平凡に過ぎ去っていけばそれで良い。
このまま高校を卒業して、大学に行っても、自分はそこでもやはり同じ様に過ごすだろう、そして高校のクラスメイト達はきっと皆……
皆、自分の事など覚えてもいない。もちろんこの先、大学に行っても、大学の同期達もも同じように、やはり自分の事は忘れるに違い無い。
それで良い。
それで、構わないんだ。
楼蘭は目を閉じて、そう思った。
増崎楼蘭。
何もかもが平凡であり、それで構わない。
そう思っている自分が、唯一他人とは違うところがあるとすれば、それは……
それは、両親の事だ。
楼蘭は、目を閉じる。
楼蘭の両親は、非常に優秀だった。
父は、一流大卒のエリート商社マン。
母は、有名な劇団のスター。
そんな二人が何処で出会い、どんな理由で結婚したのかは、楼蘭は知らない。とにかくそうして産まれたのが楼蘭だった。
両親は自分の誕生を喜び、同時に楼蘭にとてつもない期待を寄せていた。自分と同じ一流大学に進ませるか、或いは役者として演技の道に進むか、そんな風に考えていた。
だが……
楼蘭には、全くと良い程『才能』が無かった。
父の様に一流の大学へ行く様な頭脳も、母の様に役者として演技する様な才能、そのどちらも楼蘭には備わっていなかったのだ、父が卒業した一流大学の附属高校の入試を受ければ最低の成績で不合格、母が通っていた演技のスクールに通えば、演技も歌もダンスも、全てにおいて、同じスクールにいる同年代の子供と比べても最低の成績だった。
成長するに連れて、それらはますます顕著になって行く、いくら勉強や役者の練習を頑張っても、ちっとも成績が伸びない。
そして……
それに伴って……
両親の、楼蘭を見る目も、徐々に変わって行ってしまった。最初のうちでこそ慰めたりしてくれていた両親も、何度も何度も赤点を取ったり、役者デビューが出来ない、と言われたりするうちに、徐々に冷たい目に変わり、そこに映るのも、徐々に期待から失望の色に変わって行った。そして……
ここ最近では両親は、もう楼蘭に対して何も言わなくなっていた。
楼蘭は、それでも必死に努力して、どうにかして両親の期待に応えようとした。
だが、結局楼蘭は何も出来なかった、才能は振るわず、両親からは明らかな失望の目で見られ、家の中でだんだんと肩身の狭い思いをし……
そして……
ある日の晩。
楼蘭は見た。
見てしまったのだ。