9 ルクスはマイアを助けたい、だから
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ルクスが教室に入ると、先ほどまで楽しげに談笑していたクラスメイト達は水を打ったように静まり返った。
重苦しい空気が教室全体を包み込む。誰もルクスのほうを見ることはなかったが、「どうしてここにいるんだ」とでも言いたげな雰囲気がひしひしと感じられた。一限目からルクスが登校して教室にいるなど、彼らにとっても寝耳に水だろう。
(被害妄想かもしれないが……やはり、いたたまれないな)
それから誰も一言も発さないまま講義の時間になった。教師の白墨が黒板を叩き、学生は一心不乱に板書を行う。教師の声は少し震えているような気がした。
講義が終わったのでまっさきに教室を出る。閉じたドアの向こうで、クラスメイト達が呼吸を取り戻す気配を感じた。
賑わいを見せる教室から離れ、人目を避けながら昨日の続きの校内観察を行う。
昨日、マイアと話した後で、ルクスはすぐに学園長に会いに行った。
学園長は戸惑いを見せたものの、話の飲み込み自体は早かった。
王室、魔法省、そして大教会にもすでに連絡済みだ。
ケーオン公爵家は大貴族だ、迂闊につつくのもはばかられるが……だからこそ、もしもの時に備えて根回しを済ませておく必要がある。
学園長と話す過程で、ルクスはこれまでマイアが起こしたといういくつかの問題について聞かされた。
だが、それが“支配の唇”の洗脳を受けた者達による非道な嫌がらせの結果だということは明白だった。むしろマイアは被害者だ。
元から他人とかかわることはほとんどなく、同世代の子女を目にする機会もなかったが……ルクスがアカデミアにいなかった二か月の間で、多くのアカデミア関係者の魔力が異様な様変わりを遂げていた。
(もし僕が、もっときちんと人と向き合えていたら。エリレーテ君の魔力が異質だと、早々に気づけたのかもしれないのに)
傷つくことを恐れて人と関係を構築することをためらい、社交の場に出ることを恐れていなければ。
エリレーテ・ケーオンともきちんと顔を合わせて、幼い段階からその危険性と異常性を察することができていれば。何かは違っていたはずだ。
“支配の唇”が実在するとは思わなかった。
平和な今の世に、よもや邪竜がよみがえるとは思わなかった。
“支配の唇”がどんな魔力をしているかなんて知らなかった。
言い訳ならいくらでも並べられる。だが、その行為に意味はない。
(今僕にできるのは、これ以上の被害を出さないようにすることだ。マイア君のためにも、僕がやらないといけない)
ルクスを見ても物怖じしない、後輩の姿を脳裏に思い描く。
親しみやすい栗色の髪と、春を告げる花のような薄紅の瞳。いつも朗らかに笑う彼女のあの華奢な背に、これほど重い影が差していたなんて知らなかった。知ろうともしなかった。
こんな情けない男であるにもかかわらず、彼女はルクスを友人と呼んでくれた。好意に好意で返してくれた。せめてその想いには報いたい。
はじめは“調和の手”への関心だった。次に彼女の引き出しの多さに驚き、打てば響くような会話を楽しむようになった。そして、あの愛らしい声と笑顔が頭から離れなくなった。
マイアが健やかに、そして幸福でいられるように。国の安寧と民の平穏ならいつも願っていることだが、特定の個人に対してこれほど強い想いを抱いたのは初めてだ。
昼休みを迎えて植物園に行く。
マイアと作戦会議をして、舞踏会を決戦の場に定めた。そうと決まれば、次は戦装束の調達だ。
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「母上、ひとつ個人的なお願いがあるのですが、お時間をいただいてもよろしいでしょうか」
晩餐が佳境に入ったので、おずおずと切り出す。
贅を凝らした食事も、過去のトラウマ────まだ八歳のころ、最も信頼して兄のように慕っていた侍従が食事に猛毒を盛った事件のせいで、ほとんど味が感じられない。
ルクスを裏切った彼は、なんの釈明もしないまま自害してしまった。そのため、戸惑いも怒りも悲しみも、どこにもぶつけることができないままずっとルクスの胸にくすぶっていた。
それでも両親や使用人達を心配させたり、もてなしてくれた者に対して礼を欠いたりしないために、ルクスは出された食事はきちんと食べるようにしていた。無理にでも詰め込んでいるということだけは、絶対に悟られてはならない。
「どうしましたか、ルクス」
「実は、日曜にアカデミアで開かれる舞踏会のために、母上のドレスとアクセサリーを貸していただきたく。パートナーのために、どうしても母上のお力が必要なのです」
「……なんですって?」
「パートナー……舞踏会……? まさかお前が!? 本気で言っているのか、ルクス!?」
母が、そして父が驚愕を露わにしてルクスを凝視する。社交から逃げ回っていた息子が急にそんなことを言い出せば、それぐらいの反応はしてしまうのかもしれない。
「わ、わたくしのドレスと宝石を与えるということが一体どんな意味を持つのか、知らないとは言わせませんよ。学生のためだけの舞踏会で、おいそれとそのような真似をさせるわけにはいきません」
「承知しています。ですが、彼女にはそれだけの盾が必要なんです。ただいっとき、貸していただくわけにはいかないでしょうか。“調和の手”を持つ聖なる乙女を庇護するために、どうかお願いいたします」
「なるほど、昨日お前が言っていた娘か。……つまり、正式に添い遂げようと思う相手を見つけたわけではないのか……」
「あくまでも、彼女を守るために必要な措置というだけです。マイア君は平民で、身分差によって発言力が左右されることを憂いていました。エリレーテ君、ひいてはケーオン公爵家と対等に話し合うためにも、マイア君には強い後援があるという事実が必要なんです」
ルクスは深く頭を下げる。両親は顔を見合わせ、頭を上げるよう告げた。
「ルクシアド。おまえの言うことがすべて正しくて、正義がその娘にあることを、おまえはいまだ客観的には証明できていないでしょう。事実がどうあれ、罪を立証できない公爵令嬢を公衆の面前で辱めたとなれば、恥をかくのはおまえだけではありません」
「だが、邪竜の使者たる“支配の唇”の能力者の狼藉を許し、みすみす邪竜を復活させるようなことがあれば、その時こそ私達は恥をかくだけでは済まない。平和を守るためであれば、そしりなどいくらでも受けよう」
「その通りです。ですから、その娘にわたくしのドレスを身につけることを許します。本来であれば、わたくしの義娘と認めた者にしか与えない栄誉ですが……」
母は小さくため息をついた。
「何度戒めても、今なお流言に踊らされている者達もいるようです。ここで一度、おまえから直々に意思を示すといいでしょう。その娘とおまえの関係性がどうであれ、わたくしのドレスと装飾品を身につけた者がおまえのパートナーを務めるということは、流言を真に受けた者達に己の愚かさを知らせるよい機会になります」
「ちなみに、その少女を本当にお前の妻として迎える気はないのか? お前が社交をしないことをよしとしたのは私達だが……これまで浮いた話の一つもないお前が、まさか自分から令嬢の話をするとは思わなかった。今後その奇跡が二度とあるかもわからないぞ」
「……選択肢のひとつとしては、もちろん考えています。マイア君を不当に傷つけたのは、僕が至らなかったからです。僕はもっと早く“支配の唇”に気づくべきでした。母上の盛装までお借りするのですから、彼女に対して取るべき責任もあります。結婚という形は、ある意味では最適でしょう」
ルクスはそっと目を閉じる。何も知らないマイアは、ルクスの好意を喜んでくれていた。
「……ですが、それについては彼女の意思を尊重したいんです。僕達は身分が違いすぎますから。聖なる乙女という触れ込みがあれば、身分差を覆すことはできますが……育った環境の違いからくる心労は変わりません」
マイアは優秀だ。平民とはいえアカデミアの特待生となった以上、ルクスの一族に嫁ぐに足りるだけの知識と教養を身につけるだろう。
けれどルクスと結婚するということは、彼女が思い描いているであろう『普通』を彼女から奪ってしまうことになる。それを受け入れるかはマイア次第だ。マイアの未来の決定権は、ルクスが握っていてはいけなかった。
「それでも、マイア君が僕を選んでくれるのなら……その時は、彼女のために尽くそうと思います。彼女がずっと、心穏やかでいられるように」
“調和の手”は他人の不調を癒せるが、マイア自身の魔力の乱れを整えることはできないようだった。だが、ルクスに触れて魔力を同調させていた時、マイアの魔力は確かに落ち着いていたのだ。
それが“調和の手”によるものなのか、それとも何か別の要因があったのかはわからない。けれど一度そういう結果が出た以上、無視するわけにはいかないだろう。再現性を確かめるべく、さらに研究していかなければ。
だから。
マイアが苦しんでいる時に、いつでも寄り添えるようになりたかった。
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