16 マイアは聖なる乙女に、なる
邪竜を打ち倒すための聖なる光に包まれて、エリレーテは気を失ったようだった。最後に何かわけのわからないことを呟いていたが、目覚める気配はなさそうだ。
魔力を使いきり、誰もがその場に突っ伏した。
マイアとルクスも、さすがにこれ以上立っていられる気力はない。座り込み、肩を寄せ合う。
「これでひとまず、一件落着なのかな……?」
「ケーオン公爵家には、詳しく話を聞く必要があるが……。後のことは、司法局と騎士団に任せよう」
終わった。これでもう、エリレーテにも邪竜にもおびやかされることはない。マイア達は勝ったのだ。
深々と安堵の息を吐く。張りつめていた緊張の糸がほどけるのを感じた。もう一歩も動けそうにない。
「……とってもかっこよかったよ、ルクス先輩。あたし一人だったら、きっと戦えなかった」
「マイア君こそ勇敢だった。君がいてくれたからこそ、僕でもあそこまで立ち回ることができたんだ」
力を使い果たした周囲の者達も、お互いの健闘を称え合っている。その称賛の中心にいるのは、マイアとルクスだった。
やってきた増援の騎士達に、ホール内の人々が保護される。
エリレーテも連行されていった。邪竜と呼ばれた精霊がいた場所には、骨とも炭ともつかない黒い塊が残されているだけだ。もちろんそれも慎重に確保され、運び出されていく。異教徒達にとっての聖遺物にならないように、大教会で解析されたうえで厳重に封印されるようだ。
マイア達が勝利したとはいえ、永劫あの邪竜が蘇らないとは限らない。現に、平和の女神が倒したはずの邪竜がこうしてマイア達の前に現れたのだ。けれど、遠い未来に同じことがあったとしても、きっと人々が立ち上がってくれることだろう。マイア達がそうだったように。
(邪竜を倒そうとした時の女神様も、あたしと同じ気持ちだったのかな。ちょっとおこがましいけど)
マイアはたまたま“調和の手”を持っていたというだけだ。望んで手にした力ではないし、努力の末に身につけたものですらない。
マイアが立ち上がった理由だって、元をただせば利己的なものだった。自分が渦中にいなければ、邪竜のことなどまったく気にしていなかったかもしれない。
けれど。
そんなマイアでも誰かの役に立てたなら、これほど嬉しいことはなかった。
*
アカデミアで起きた事件から一週間。この一週間は事後処理と、巻き込まれた者達の休養のためのものだったのだろう。すっかり時の人となったマイアは、家族と共に王宮に呼び出された。
迎えの馬車があまりに豪勢だったせいで、両親は泡を吹いていたが……取って食われはしないと思うので安心してほしい。たぶん。弟妹はふかふかの椅子で遊びながら無邪気にはしゃいでいたのでよしとしよう。
「来てくれてありがとう、マイア君」
「すごい、先輩って本当に王子様なんだ……」
マイア達を出迎えてくれたのは、役人達を連れたルクスだ。そのままマイア達は応接用の広間に通された。
当然と言えば当然なのだが、ルクスが王宮にいることに唖然とする。特殊な一族、すなわち王族。今さらその事実がのしかかってきた。
つまり、舞踏会の時に彼の母親から借りた服飾品は、ヴィアンナのお世辞などではなく本当に王妃が身につけていたものだったのだ。ルクスはもちろん王妃にも、わりと不敬なことをしてしまった気がする。その事実だけですでに胃が痛い。
(別に、ルクス先輩が王族なこと自体は怖くないんだけど……周りの目が気になるの……)
もう、これまで通りの関係ではいられなくなってしまうのだろうか。
それは少し……いや、かなり寂しいと思う。ただのマイアとルクスとして、花園で過ごす時間はかけがえのないものだったのに。
マイアが沈んでいる間、ルクスはマイアの家族と挨拶していた。元々ルクスは引っ込み思案で、両親もガチガチに緊張しているので、話が弾んでいるようには見えなかったが。唯一、事態をよくわかっていない弟妹が元気いっぱいだったことが清涼剤だ。
「今日マイア君達に来ていただいたのは、邪竜討伐の功労をねぎらうためなんだが……もうひとつ、打診したいことがあって」
話しだそうとした役人を制止し、ルクスは自ら口を開く。マイアは思わず姿勢を正した。
「あの時、僕達の魔力をまとめあげて邪竜を倒したことで、マイア君は名実ともに聖なる乙女と目された。これは、ただの儀礼的な二つ名じゃない。邪竜を倒した立役者の君は、まさに平和の女神の再臨だ」
「お、大げさでしょ。あたし一人の力でやったことじゃないし」
「だが、マイア君がいなければ成しえなかったことだというのは事実だろう? 君という存在は、誰にとっても無視できるものではなくなった。そんな君をぜひ自派閥に取り込もうと、宮廷中が目を光らせている。もちろん大教会もだ。これは単純な就職先の世話という話ではなく、婚姻にまつわることにもなるだろう」
ルクスはやや言いづらそうではあるが、ちゃんと顔を上げてマイアを見つめた。
「……王家としても、聖なる乙女である君を王室の名において庇護し、次代の王妃として迎え入れることでぜひともその箔を得たいと考えている」
「ルクス先輩の意見は?」
「僕はマイア君のことが好きだ。魔導書を読むつもりだったのに、君の来訪が待ち遠しくて集中できない。魔力を観察しようとしたつもりなのに、君の笑顔に見惚れてしまう。こんなことは初めてなんだ。友人として接している時でさえそうなんだから、もし君と添い遂げることができるのならば、それに勝る喜びはない」
即答だった。ルクスがあまりに真剣に言うものだから、誰も口を挟めない。
「ただ、これは君の未来にかかわることだからな。君の意志でもって、どうするか決めてほしい。僕はそれを尊重するし、君の望みが叶えられるよう手を尽くそう」
歓声を上げて抱きつきたくなるのを必死に抑えたマイアは、つとめて冷静に言葉を重ねる。
「だけどあたしは平民よ。知識も教養も、学ぶことはできるけど……。聖なる乙女って言ったって、流れる血は変わらないわ」
「この国を、ひいては世界を蝕むほどの危機を未然に防いだのはマイア君だ。本来の身分を理由に君を貶めようとするような方はいない。仮にいたとしても、僕がその悪意から君を守ってみせる」
「引きこもりなのに?」
「うっ……。た、確かに人と接するのは苦手だが……。君と一緒でさえあれば、誰が相手でも立ち向かえると証明しただろう?」
「うん。あの時だけじゃなくて、先輩はいつでもあたしを助けてくれたわよね」
だから。
マイアの中で、答えはもうとっくに決まっている。
「本当にあたしが誰を選んでもいいって言うなら、あなたとずっと一緒にいたいわ。あたしが戦うきっかけをくれたのはルクス先輩だから」
「マイア君にそう言っていただけるのなら光栄だ。君の信頼に恥じないよう、僕も精進しよう。……とりあえず、社交に慣れるところからだな」
ルクスは控えめに笑う。それに見惚れていたマイアは、誰かの咳払いを聞いてようやくここが二人きりの空間ではなかったことを思い出した。
*
「ご機嫌よう、マイアさん」
「ご機嫌よう、ヴィアンナ!」
親友に微笑みかけられ、マイアもにこやかに返事をする。マイアの学園生活は順風満帆、平穏そのものだった。
アカデミアにはもう、エリレーテの影も形も残っていない。
ケーオン公爵家は、彼らが手を染めていた残酷な邪竜崇拝の儀式の罪を追及されて取り潰しとなり、エリレーテも終身刑を言い渡されていた。
彼女は今、厳重な警備の施された監獄宮に収容されている。
果たしてエリレーテは自分の犯した罪の重さを自覚して更生するのか、あるいは牢獄の中でもあのよくわからない妄言を口にし続けて自らを省みることがないのか。それはもはやマイアの知り及ぶところではなかった。
マイアとエリレーテが会うことはもう二度とないだろう。正真正銘、二人の世界は交わらない。
*
「先輩っ、待った?」
「マイア君か。いや、僕もちょうど今来たところだ」
昼休み。いつものように、マイアは花園に向かう。ちょうどルクスが荷物を置いているところだった。
「今日はちゃんと教室に行ってきたの?」
「ああ。公務以外で人前に出ることの練習になると思って。相変わらず、腫れ物に触るように扱われているが……」
「たぶんそれは、恐れ多いからだと思うわよ。ルクス先輩が嫌われてるとかじゃなくて」
「僕は他の王族の方々のように、威厳も自信もないんだが。僕自身にそこまで畏怖を感じる必要はないだろう?」
苦笑すると、ルクスは大真面目に答えた。どうやら気づいていないらしい。
実態は引きこもりの魔法馬鹿でも、はたから見れば頭脳明晰にして眉目秀麗、高貴な孤高の王太子なのに。そのあたりのことをもっと自覚してほしいものだ。
「まあいいわ。お弁当、先輩の分も作ってきたの。食べてみてくれる?」
「ありがとう、ぜひいただこう」
王族の婚約者にふさわしい品位を保つため、という名目で、マイアの家には王室からいくばくかの予算が支給されることになった。その出所はルクスの個人的な資産らしい。
ただもらうだけというのも忍びないので、せめてルクスの分の昼食を用意することで微小ながら還元している。まずマイアの手料理に慣れさせることで、ルクスに食事の楽しみを思い出してもらうためだ。
今はまだマイアの手料理しか安心して食べられなくても、人が作った料理への忌避感さえなくなれば、ルクスも普通に食事ができるようになるだろう。これにはルクスも同意してくれたので、堂々とお弁当を渡すことができていた。
「どれもとても美味しいが……特にこのじゃがいものパンケーキが絶品だ。やはり君は料理上手だな。これも母君のご指導の賜物か」
「普段からもっと豪勢なものを食べてるくせに。こんなのただの家庭料理じゃない」
口ではそう言うものの、褒められて嬉しくないわけがない。ルクスに喜んでもらえてよかった。
「料理の格式なんて関係ないだろう。この昼食の価値は、格式では測れない。マイア君の手料理を食べられるなんて、僕はつくづく幸せ者だな」
「もう。先輩は大げさね。……幸せなのは、あたしもだから」
温かい家族と恩師がいて、優しい親友がいて、頼りになる恋人がいて。
マイアの目に映る世界は、とても輝いていた。エリレーテのせいで影が差していた日常は、今では遠いものに思える。
けれどもし、愛した世界が失われていたら。
あのままエリレーテの横暴に膝をつき、邪竜にすべてを蹂躙されていたとしたら。
家族も、友人も、想い人もいなければ。
その時マイアは、一体どうしていただろう。
奪われたものを取り返そうとする?
だが、人の命は奪われてしまえばもう二度と戻らない。
喪失の悲しみを埋めるために、悲劇の元凶への復讐に走る?
そんな真似は絶対にしないなんて、言い切れる自信がなかった。
(そうなったあたしはきっと、聖なる乙女なんてたいそうなものにはなれないわね)
自嘲気味に笑う。
もしも本当に限界まで追い詰められて、すべての拠り所を失ってしまっていたら────どんな手を使ってでも報復を行おうとしていたかもしれない。
邪竜と邪竜崇拝者達を許すことは、絶対にできないだろう。
平和の女神と同等の力など、孤独の身になれば何の慰めにもなりはしない。
憎悪で濁った目が映す世界は、きっと今とは違うものに違いなかった。
「どうかしたのか、マイア君」
「ううん。自分がいかに恵まれてるか、再確認してただけ」
幾重にも積み重なった奇跡に感謝する。
大切な人達が、今日も健やかでいてくれて。ルクスと出逢い、想いを交わすこともできた。これ以上望むことがあるだろうか。
「あたしが聖なる乙女になれたのは、たくさんの人がいてくれたからなの。調和の力なんて、他に人がいなくちゃなんの意味もないんだから」
誰にも心配をかけたくない。誰にも同情されたくない。その一心で、これまでずっと自分一人で何もかもを背負ってきた。せっかくマイアを大切に想ってくれる人達がいたのに、これではひとりぼっちと何も変わらない。
「ルクス先輩。あたしにもちゃんと居場所があるって……誰かを頼ってもいいって、教えてくれてありがとう」
魔力を通じて人をつなぐ“調和の手”。マイアは神話に伝えられる平和の女神のような、非の打ちどころのない聖者にはなれないかもしれないけれど。
それでも、マイアを聖なる乙女と信じてくれた人達がいる。彼らに対して胸を張れる自分でありたかった。
マイアの愛した世界は、誰にだって奪わせない。この力は、きっとそのためにあるのだから。




