15 エリレーテは主人公、だった
* * *
エリレーテ・ケーオンには、生まれる前の記憶があった。
王侯貴族でもなんでもなく、それでも恵まれた暮らしをしていた頃の記憶が。
その記憶の中には、親しんでいた娯楽にまつわるものもあった。とある漫画もその一つだ。
インターネットで無料公開されていた、どこの誰が描いたのかもわからない漫画。作者名は外国語で、ややこしい名前だったことだけ覚えている。それを惰性で読んでいた。
それは、王女エリレーテと、邪竜と呼ばれて貶められた闇の精霊王ローガの恋物語だった。
王侯貴族の子女のみが通う学園で、エリレーテは男爵令嬢マイアの卑劣な罠にかかって王女でありながら危うい立場に立たされてしまう。
マイアとその一派は、邪竜に魂を売った魔女だとエリレーテをそしり、蹴落とすことで国を乗っ取ろうとした。
けれどエリレーテは闇の精霊王の寵愛を受けていたので、華麗な反撃をしてハッピーエンドを迎える。ただそれだけの話だ。
自らを貴族の娘と偽るマイアの正体は、平民の孤児だった。
しかし、彼女は持ち前のしたたかさと悪知恵で貴族令息を中心に学生や教師達をたらしこみ、エリレーテを巧みに追い詰めたのだ。
エリレーテは次期女王であるにもかかわらず、どうしてマイアごときにいいようにしてやられたか。
それは、ケーオン朝はエリレーテの父が開祖となって開いた新しい王朝だからだ。
統治の地盤がまだ盤石とは言えないうえに、エリレーテが持つ女王の素質というべき力もマイアに妨害されるせいで、マイアの暗躍を許してしまっていた。
とうに潰えた前王朝に縋りつき、闇の精霊王を崇めるケーオン家の威光と闇の精霊王の偉大さを理解しようとしない愚かな貴族達。彼らがマイアに群がり、エリレーテを侮辱した。
もちろん、そんな連中も闇の精霊王ローガに完膚なきまでに叩きのめされる。そのシーンは今思い出してもすかっとした。
原作中では、マイアの過去は明かされなかった気がするが……悪役の事情などには興味がない。仮にあったとしても読み飛ばしただろう。
悪役なんてしょせんは主人公を輝かせる踏み台だ。どれだけ外道なのかわかるエピソードならともかく、暗くて可哀想な過去などどうでもいい。それは、勝利の爽快感を味わうためには邪魔でしかない。
けれど、もしちゃんとそこが描かれていれば、いざこの世界に転生した時にもっと早く的確にマイアを見つけられたかもしれない。それだけが残念だ。
おかげで、結局漫画のようにマイアをアカデミアに入学することを許してしまった。漫画と違って、アカデミアには平民の特待生という文化があって、彼女もその枠で入学したようだったが。多分、王朝が変わらなかったせいだろう。
あの漫画の世界に転生したと自覚が芽生えた時、エリレーテはまだ公爵令嬢だった。
とはいえ、ケーオン家が王位を得るのは、九歳の王太子が馬車の事故で死に、そのショックで狂った国王夫妻が怒りの矛先をケーオン家に向けてからだ。
原作では、王室派とケーオン公爵家派の間で激しい内乱が起きる。もちろん、勝利するのは闇の精霊王の加護を受けた公爵家派だ。
血で血を洗う戦の果てに、生来の女王たるエリレーテを前にした王室派はようやく心を入れ替え、玉座をケーオン家に譲り渡す。
前王朝の代表的な人間は、内乱の責任を取らせるべく全員断頭台送りになった。
内乱のせいで国民に多大な犠牲が出たのだから、当然だろう。
ケーオン朝が始まるのは、それからのことだ。時間軸としては、原作の開始時の数年前のことになる。
だから、自分が王女ではなく公爵令嬢として扱われることについて、エリレーテは別に疑問には思わなかった。
どうせ、王女になることが運命づけられているのだから。
五歳の時に、三つ年上の王太子に婚約を持ちかけよう、という話を父から聞かされた。
原作での元王太子は、その肩書程度しか描写のない端役だった。過去回想で数コマ描かれたかどうか、といったところだろう。
とはいえ、会ったこともない少年に興味はなかったし、彼はその次の年には死ぬことになる。父も、あまり本気ではないようだった。
そもそも、エリレーテの初恋はローガだ。
だから、王太子との婚約なんて望んでいなかった。
けれど、ローガは昔からずっとエリレーテの傍にいてくれるのに、いつまでも子供扱いする。
それにふてくされていて、どうしてもローガの気を引きたくて、王太子との縁談を了承した。前世の記憶があるエリレーテにとって、愛する人にいつまでも幼女扱いされるのはつらいものがあったのだ。
原作のエリレーテはローガ一筋だから、王太子との縁談など蹴ったのだろう。
けれど今世のエリレーテは、恋の駆け引きのため縁談に賛成したので、父は王家に縁談を打診することにしてくれた。
王太子との最初の顔合わせの日取りが決まりそうだった頃、王太子が毒を盛られたという噂を聞いた。
ローガが楽しそうに笑っていたので、何か知っているのかと聞くと「信者を使って呪いをかけた」という。
そういえば、ケーオン家の遠縁の若者が王族の侍従を務めていたような気がする。原作では、王太子を乗せた馬車が谷底に落ちた時にその場にいて、一緒に死んでしまったはずだ。
結局、王太子は一命をとりとめたそうだが……エリレーテと王太子の縁談はそのまま流れた。
ローガが嫉妬してくれただけで、エリレーテの目的は果たしたようなものだ。
両親も、いかにエリレーテがローガに愛されているか理解してくれて、二人の仲を祝福してくれた。
だから、エリレーテはそれ以上王太子のことなど気にも留めなかった。
当て馬王太子の役目は終わった。後は原作通りに死んでもらうだけだ。
けれど、その翌年に起こるはずだった王太子の馬車の事故は、何故か起こらなかった。
公の場にまったく現れないせいで存在感は欠片もないが、一応今も生きているらしい。
暗殺未遂の首謀者が不明だったので、再発を防ぐために王太子を人目に触れさせなくなった、とかなんとか。あるいは、息子の死から目をそらしたいあまりに、国王夫妻が嘘を吹聴しているだけなのかもしれないが。
王位を継承する正当な理由がなくなってしまい、両親も雌伏を選んだので、ケーオン家はいつまでも公爵位のままだった。
残念だったが仕方ない。焦らなくても、ローガの力が戻ればいつでも台頭できる。
ローガは大いなる存在だが、大昔に女神を騙る女に力の大部分を奪われていた。闇の精霊王たるローガが邪竜だとそしられるようになったのもその女のせいだ。
時間がゆっくりとその傷を癒やし、今の時代になってようやく形を取り戻すまでに至ったのだ。ローガが万全ではない以上、むやみに動くわけにはいかない。
闇の精霊王として当然の振る舞いをしていただけで、ローガは悪いことなんて何もしていなかった。血と争いを好むのも、殺戮と破滅をもたらすのも、そう生まれついたものとしての宿命なのに。
それを、正義気取りのでしゃばり女が邪魔したのだ。人間は自分達の勝手な都合でローガを悪とそしり、共存の道すら許さなかった。そんな横暴、認めてはならない。
エリレーテだけは、孤独なローガの痛みと悲劇を理解できる。
そんなエリレーテを、ローガは唯一無二の妃と呼んでくれた。
原作では、ローガとエリレーテが恋仲であることは公にできなかった。
偽りの女神への信仰がまだ国内に残っていることもあり、闇の精霊王という人智を越えた存在は、矮小な人間風情では受け入れられないからだ。
その圧倒的な力でもってマイア達のような邪悪な連中を根絶やしにしてから、人々はようやくローガの偉大さとケーオン家の正しさを知って恭順を示すことになる。それまでは、無知な衆愚を踊らせておくほかない。
だが、ローガの存在を公にできないからこそエリレーテに婚約者がいないことをさんざんあげつらわれた。逆ハーを気取って国の重鎮の息子達を侍らせるあの悪女にだ。同じことを繰り返してはいけない。
かといって、適当な男を挙げればローガに嫉妬されてしまう。取り巻きに男がいるだけならローガもある程度我慢してくれるし、ローガの嫉妬自体は心地よいのだが、そうほいほいと手駒を殺されるわけにはいかない。
何よりも、ローガと比べれば誰だって見劣りしてしまう。公爵令嬢エリレーテにふさわしい男を選ばなければ、また同じように嗤われるだろう。
ちょうどいいのが、引きこもりの王太子だった。
すでにローガの威光に触れたことのある、影の薄い少年だ。一度ローガの嫉妬を受けて表舞台から消えた臆病者など、今さらローガは歯牙にもかけない。王太子という身分なら、婚約者役に据えたところでマイアに足元を見られることもないだろう。
王家から抗議がきて強硬手段に訴えられるようなことがあれば、それを理由に戦争を始めることもできる。
我ながら素晴らしい選択だ。王太子の名前が婚約者候補として挙がった発端こそ友人の勘違いだったが、エリレーテはその思い込みを利用することにした。
非の打ち所のない淑女として名声を高める傍ら、エリレーテはローガの花嫁になるための準備に明け暮れた。
つまり、ローガの妃として様々な儀式を執り行い、ローガの寵愛の証である“支配の唇”の練度を高めることに精を出した。
夢中になるせいでうっかりアカデミアへの入学を先延ばしにしたり、欠席が重なったりしてしまったが、これもマイアを徹底的に叩き潰すために必要なことだ。仕方ないだろう。
原作でマイアがエリレーテにした仕打ちを、エリレーテは忘れていない。
原作のマイアは復讐がどうの革命がどうのとほざいていた気もするが、そんなのエリレーテには関係のない話だ。あの悪女には、どこまでも苦しめて辱めを与えてやらなければ気が済まない。
そしてアカデミアの舞踏会で、マイアがモブの男子生徒と一緒にエリレーテの前に立ちはだかった時、ついにこの時が来たと思った。
すっかり落ちぶれ、モブ一人しか頼れないマイア。ぷちりと潰すのはあまりにたやすいが、それではこの長きに渡る苛立ちが解消されない。
存分に持ち上げてからいたぶって、ローガの圧倒的な力でもって自らの愚かさを叩き込んでやろう。たとえモブの正体が王太子だったとしても、何も変わらないのだ。さあ、どういう風に処刑してやろうか。
「聖なる乙女……! おのれ、小癪な真似を! たかが人間風情が、この俺に歯向かうとは!」
そのはずだった。そうなるはずだった。
「ち、違います。これはきっと、逆行してもう一回やり直すための布石なんです……」
原作と現実で違うことが多すぎたから、うまく立ち回れなかっただけだ。
現実の予習も無事に終わった。もう立ち回り方は問題ない。
また繰り返すことができれば、その時こそ絶対に悪役を嬲り殺して主人公らしいハッピーエンドを手に入れられる。
だから。
眼前に迫る、暴力的なその輝きは、ある意味では福音なのだ。
そう。そうでなければいけない。そうあってほしい。
光に身を焼かれるローガの絶叫を聞きながら、エリレーテは乾いた笑みを浮かべる。それでも本能的な恐怖には抗えず、頬を一筋の涙が伝った。
本当はもう、心のどこかではわかっていた。
どこかで何かを、間違えてしまったことを。
取り返しのつかない失敗の、報いがやってきたことを。
「何回やり直されたって、あたし達はあんた達なんかには負けないから」
だって、これではまるで────エリレーテこそが悪役のようではないか。
* * *




