14 マイアは諦めない、何があっても
「そんな……!? 召喚扉は押さえてるのに、向こう側からこじ開けられてる……!?」
マイアは目を見開いた。この威圧感の源……エリレーテを守るように渦巻く闇が、別次元へとつながる召喚扉から漏れ出た高位精霊の霊気だと察してしまったからだ。
エリレーテの魔力と同調するだけでは抑えられない。精霊……邪竜のほうが無理やりこちらにやってこようとしているのだ。
エリレーテの召喚魔法だけならマイアでも拮抗できるが、邪竜の圧倒的な力のせいで押し切られてしまう。そもそも、精霊の力の源は魔力ではなく霊気だ。召喚魔法を介した顕現ではない以上、“調和の手”では精霊を支配することができない。
「どうしよう先輩! 邪竜は自分の意思でこっちに来ようとしてる! これはもう召喚魔法とは呼べないわ! このまま来ちゃったら、あたしでも主導権が握れない!」
「落ち着くんだ。こうなればもう、僕達で立ち向かうしかない」
冷や汗の伝うまま、ルクスは眼鏡の位置を直す。そんなマイア達を嘲笑うかのように、エリレーテは残酷に告げた。
「あのね? 貴方達みたいな端役が何をしたって無駄なんですよ? だって、このお話の主人公はわたくしですから!」
「何言ってるの、あんた……」
「貴方達があまりにも哀れですから、これまで付き合ってあげましたけど。わたくしを糾弾できただけで、まさか勝った気にでもなっていたんですか? 本当にお可哀想! ここまで愚かだと、弱い者いじめのようであまり好きではないんですが……わたくしに逆らうほうが悪いんですよ?」
エリレーテの口元が醜悪に歪む。悪意でらんらんと輝く双眸が、マイア達を捉えた。
「たとえここで全員を生贄にできなくても、“支配の唇”で全員洗脳しなおして貴方達二人を私刑にすればそれでおしまいなのに。……だから無理して来なくてもよかったんですよ、ローガ」
「はっ。愛しい妃をさんざん貶められたのだ、俺が直々に裁きを与えてやるべきだろう?」
「きゃっ……!」
エリレーテを中心に、おぞましい狂気が放たれる。
心の奥底から蝕まれるような闇の波動を浴び、マイアは思わずその場に座り込んでしまった。ルクスも片膝をつく。まるで神を前にしているかのような圧倒的な威容に、誰もが震えながら崩れ落ちていた。
「これが……邪竜……」
ルクスは呆然と呟く。その視線の先にいるのは、エリレーテの真横に立つ美しい青年だ。
「邪竜、邪竜と呼ぶのはいい加減やめてもらえません? 闇の精霊王たるお方に失礼でしょう?」
闇をまとめた漆黒の髪、この世のすべてを冷笑する氷の瞳。そして、ねじれた二本の角と禍々しい尾。
人の姿をした異形は、己にしなだれかかるエリレーテだけをいつくしんでいた。
「エリレーテ。この者達はみな、俺のために集めた贄達なのだろう? 全員食らっても構わんな? そもそも、俺の妃を視界に入れているというだけで万死に値するのだ」
「そうですね。せっかく来てくれたんですから、ローガの好きなようにしてください。ああ、けれどあそこの二人だけは、どこまでも残酷に痛めつけてからにしてくださいね?」
「当然だ。絶望と恐怖の染み込んだ血肉ほど美味なものはないからな」
邪竜は残忍に笑う。歯を食いしばって悲鳴を必死にこらえ、マイアはふたりを睨みつけた。
「ん? ああ、よく見ればあの忌々しい女の同類と、昔殺しそびれた餓鬼ではないか。随分と美味そうに育ったものだ。見逃してやったかいがあったな。最高だぞエリレーテ! さすがは俺の妃だ、これほど極上の食事を用意してくれるとは! 彼奴らを食らえば、かなり力が戻りそうだ!」
邪竜は軽く腕を振るう。腕を横に薙ぎ払ったその風圧が、不可視の巨大な刃に変わる。
たちまちホールは惨劇の舞台になる────はずだった。
「くっ……! 誰一人として傷つけさせるものか!」
だが、ルクスがそれを許さない。
彼がとっさに張った魔法の障壁は、ひび割れながらも邪竜の一撃を防いでみせた。
「何? 人間のくせに生意気な真似をするではないか」
「はぁ……。諦めの悪い方ですね。そもそも貴方、本当ならとっくに死んでいるはずなのに」
霊気に負けずに立ち上がったルクスを見て、邪竜は煩わしそうに眉を吊り上げる。エリレーテも苛立ちを隠そうとしない。
「一体何があの漫画と違うのかしら。いい加減、ご自分の運命を受け入れて死んでくれません?」
「……それはできない。僕は王族の一人として、国民を守る義務がある」
ルクスが障壁を重ね掛けするたびに、何かが壊れる音がする。障壁は紙のようにたやすく破られた。しかしルクスは構わず新たな障壁を展開させる。
邪竜という圧倒的な存在の前に、人はあまりにも無力だ。
それでもルクスは限界まで魔法の障壁を展開し、暴虐から人々を守ろうとしていた。その奮闘のおかげで、まだ誰の命も失われていない。
「勝手に……」
まとわりつく重圧に抗いながら、マイアはゆっくりと立ち上がった。
ルクスと寄り添い合って並び立つ。ルクスを支えているのか、それともマイアが支えられているのか、もう二人にもわからなかった。
「勝手にルクス先輩を死んだことにするな! あたし達が負けたって決めつけるな!」
恐怖のあまり足が震える。今すぐ背を向けてここから逃げ出したい。だけど。
「偉そうに! 自分が勝ったって思い込んで、調子乗ってるのはあんた達のほうでしょ!?」
ルクスとつないだ手が淡い光を放つ。マイアとルクスの魔力が溶け合った。ルクスが張った障壁をマイアが補強していく。邪竜の暴威を抑え込むにはまだ足りない。それでも。
「お願い。こいつを倒すために、みんなの力を貸して……!」
「させません! そんな反吐が出そうな理想論、わたくしの前で通用するとでも? 人間がどれだけ醜い生き物なのか、貴方もよく知っているでしょう?」
ヴィアンナをはじめとした、何人もの生徒達の周囲に黒い泡のようなものがいくつも湧き出る。
生徒達の共通点は、エリレーテに洗脳されてマイアをいじめていた者達だ。
その黒い泡は、マイアのすぐ近くにも現れた。
すかさずルクスが叩き割るが、小さなしぶきが肌に触れる。断片的かつごく短い間のことではあるが、いじめられていたころの記憶が脳裏にぶわりと駆け巡った。思わず足がすくむ。
「マイア君!」
「……大丈夫。大丈夫だから。あたしはもう、ひとりじゃない」
ルクスとつないだ手を強く握り直す。胸に灯る勇気の灯火は、こんなところで消させない。
「何が調和ですか、馬鹿馬鹿しい。こんな連中と、仲良くおててをつなげるとでも?」
「そんな……これが、わたくし……?」
その泡は、一体何なのか。
答え合わせは必要ない。絶望に染まった顔で虚空を凝視するヴィアンナが教えてくれる。
「なんということ……! こんなひどいことを、わたくしが……?」
ヴィアンナは目を見開いてマイアを見つめた。涙がぽろぽろとこぼれ落ち、謝罪の言葉があふれ出す。
「マイアさん……。わたくしには、貴方のお友達でいる資格はありませんわ。どれだけの謝罪の言葉を尽くしても、この罪は到底雪ぎきれないでしょう。もう、貴方の手は取れません。わたくしはそれだけのことをしてしまったのです。たとえ操られていたとしても、己の所業に責任は持ちますわ」
悲しく笑うヴィアンナが、障壁の外に這い出ようとする。ヴィアンナだけではなかった。我を失っていたころの記憶を押しつけられて、罪悪感に苦しんでいる者達がいる。
自らの命をもってその醜態を償おうとする者、恥辱に叫んで現実からの逃避を望む者。このまま彼女達をいかせてはいけない。
「待って! 確かに、ヴィアンナ達に裏切られてすごくつらかった。許せないって何度も思ってたよ。いつか絶対見返してやるって」
心にどす黒いものが蠢く。憎悪、憤怒、絶望、そして悲哀。鬱屈していたあの日のことを、忘れたわけではない。
「……でもさ。それ以上に許せない奴を見つけちゃったの。みんなのことを利用して、あたし達の心を踏み躙った奴。ここであたしがヴィアンナ達の手をもう一度取れないなら、多分最後まであいつの思い通りになっちゃう。それだけは絶対に嫌なんだ」
それでも。
愛する人と共に立ったマイアの瞳は、曇らない。
「エリレーテ。あんたの指図は受けない。あたしの言葉も感情も、あたしだけのものだから。あたしが何を選ぶかはあたしが決める」
本気であたしに償いたいと思うなら。
一人で諦めて自己満足に逃げるんじゃなくて、その意思をきちんと見せて。
声を張り上げたわけではない。それでもマイアの呼びかけは、誰の胸にも響いてくれた。
「なっ……どうして!? マイアはそんなキャラじゃないでしょう!? 自分のことしか信じないし考えてないくせに、絆だとか友情だとか、そんな寒いお題目でわたくしとローガに逆らう気ですか!? どうせ悪役なんだから、みじめったらしくさっさと退場してくださいよ!」
「あんたにあたしの何がわかるって言うのよ」
マイアはルクスと頷き合う。この場で立っているのはマイアとルクス、そしてエリレーテと邪竜しかいなかった。それ以外の全員が、マイアとルクスに祈りを捧げるように跪いているからだ。
「邪竜とか邪竜の妃とか、そんなのどうだっていい。誰にも迷惑かけない場所で勝手にやってればいいじゃん」
エリレーテ以外の全員の魔力が、マイアによって混ざり合っていく。
彼らが託した祈りは、マイアが確かに受け取った。生まれるのは、ほのかに温かく、そして何より強い力だ。
邪竜は確かに顕現したが、まだ本来の力は取り戻していないはずだ。この場にいる者達の魔力だけでも、きっと届く。
「でも──あたしの大好きな世界は、あんた達なんかに絶対壊させないんだから」
マイアが束ねた魔力は光の奔流となり、エリレーテごと邪竜を飲み込んだ。