13 ルクスは引き下がらない、絶対に
「えっ……えっ!?」
マイアは思わずルクスを凝視する。知らなかった。初耳なのはマイアだけではないようで、ヴィアンナを含めた一年生はもちろん、二年生や三年生の間にもどよめきが広がっている。
落ち着いているのは一部の三年生……ルクスからはっきりと「知らない」と言われてもなお自信を失わないエリレーテを見て、ひそひそと話し合っていた者達だけだった。
きっと彼らは最初からルクスが王太子だと知っているから、目の前の王太子を赤の他人だと勘違いしているエリレーテを見ていぶかしんでいたのだろう。
「ルクス先輩……じゃなくて、お、王太子様……?」
「今まで通りの呼び方で構わない。隠していたつもりはないんだが、自分から名乗るほどのことでもないと思っていたんだ。たまたま生まれがそうだったというだけで、僕自身にはその肩書にふさわしい資質がないんだから。……マイア君にまで敬遠されたくなかったし」
呆然と呼びかけると、ルクスは気まずげにマイアを見た。エリレーテに向き直るまでの短い間だったが、彼はまっすぐマイアの目を見てくれる。
「……確かに驚いたけど、別に怖がりはしないわよ」
そうだ、ここでうろたえてはいけない。
もし心の距離感を感じさせようものならきっと、大事な何かを失ってしまう。
己の言葉を証明するように、マイアはルクスの手に触れる。
ルクスは驚いたようだが、振りほどかれることはなかった。少しのためらいのあと、ルクスはマイアの手を握ってくれる。
「そんな……貴方が王太子殿下だなんて……」
「エリレーテ君。僕には君と婚約した覚えはないし、そもそも君との縁談も予定されていない。王家としても、王太子の婚約者について事実無根の噂を真に受けないよう宮廷に勅令を発したことがあったはずだ」
ルクスは淡々と告げる。もし本当に二人が婚約しているのなら、互いに面識があったはずだ。間違っても、王太子その人を前にして出自をあげつらうことはないだろう。
「ねぇ……じゃあ泥被りのあのドレス……本当に王妃殿下のものなんじゃ……?」
「あのネックレスもまさか、国宝のエメラルド……?」
「王妃殿下のお召し物を身につけられるなんて、それなら王太子殿下の本当の婚約者は……!」
どちらの主張を信じるべきか。その答えはあまりにも明白で。先ほどまで自信に満ちていたエリレーテ派達の顔色がどんどん悪くなっている。
「王家に確認したところ、虚言で人々を混乱させないようケーオン公爵家に注意喚起も行っていたという回答があった。釣り合いが取れるからこそ勝手に推測されているだけで自分達は無関係だとかわされて、それ以上の対応は取れなかったそうだが」
「あ、貴方のほうこそ殿下の名を騙っているんじゃないですか? 人嫌いで知られる殿下が、このような場にお出ましになるわけがありません!」
「……確かに僕は他人と接するのが苦手で、一人の時間が好きだ。だが、それは僕個人の性格と考え方、そして国王夫妻の方針によるものであって、他人が嫌いだとか疎ましいだとか、そういった理由はまったくない。必要とあればどこにでも行く」
エリレーテに反論されても、ルクスはまったく動じない。そもそも、その場しのぎの僭称者になど教師達や騎士達が跪くはずがないだろう。
「……華やかな社交の場に立てないだけで、べ、別に会議や会談に出席するのはやぶさかではないし……普段公務で行くような場所に、同世代の方がいないだけだし……」
「先輩、先輩」
つないだ手を軽く引く。ルクスははっとして咳払いをした。
「“内々の話だからまだ公にはできないのだろう”と世論を誘導して人々の口をふさいだのはケーオン公爵家か? おかげで王家もそれ以上の追及はできなかったが、訳知り顔で受け止められるだけで事態は沈静化していた。それなのに、ありもしない逢瀬の話を君が捏造したせいで噂が再燃したようだな」
さすがに根も葉もない噂を立てられるのはいい気がしない、とルクスは周囲を見渡す。
目をそらしてうつむく者も多い。ゴシップを追いかけて、娯楽としていた者達だろう。
「ここ二か月の間、僕は世界魔法技術研究協会が主宰した学会に出席するため隣国に行っていた。社交に不慣れで申し訳ないが、君ときちんと話をしたのは今日が初めてだ」
じゃああの話は、まさかこの話も、とあちこちから囁く声がする。
きっとエリレーテが吹聴していた、王太子との逢瀬の話なのだろう。ルクスからはっきりと不在の事実を突きつけられた今、エリレーテの虚飾がどんどん剥がれ落ちていく。
「僕がめったに人前に出ないことをいいことに、事実をでっちあげて人々に信じ込ませることで真実にしたかったのか? 君の虚言を否定できる僕さえいなければ、君は好きなように話を作ることができるんだから」
ルクスが尋ねると、エリレーテは蔑むように鼻で笑う。観念した、というにしてはその態度はあまりにも不遜だった。
「違います。確かにわたくしは貴方の名前を利用させていただきましたけれど、それは何も貴方の妃になりたかったからではありません。その程度の矮小な地位、こちらから願い下げです」
「は? 先輩の名前を勝手に使っておいて、その言い草はないんじゃない?」
言うに事欠いて、ルクスの妻の座が矮小? さすがにそれは聞き捨てならない。ルクスのことなど何も知らないくせに。
マイアは食って掛かろうとする。だが、今度はマイアが手を引かれる番だった。手を引いたのはルクス当人だ。
とりあえず好きに言わせておけということだろうか。納得はできないが、引き下がざるを得ない。マイアは口を尖らせながら渋々押し黙った。
「わたくしにはすでに心に決めた方がいるんです。あの方に操を捧げると決めた以上、他の男性と縁づくわけにはいきません。ですがわたくしはケーオン公爵家の娘。エスコートの相手がいないというわけにはいかないんです。とはいえ、いずれわたくしはあの方の花嫁になるというのに、つまらない男との縁談など持ち込まれても困るでしょう?」
すると、エリレーテの取り巻きの男達がうっとりとエリレーテを見つめた。誰もが「つまり私だな」という顔をしているのが滑稽だ。
「その点、殿下はいい虫よけになりました。最初こそ、お友達にそう勘違いされただけなのですが……その利便性に気づいてからは、わたくしもことさら否定はしないようにしたんです」
「はじめはただの周りの勘違いだったのに、おだてられて調子に乗っちゃったってこと? でもルクス先輩がいるアカデミアに通うことになったから引っ込みがつかなくなって、嘘に嘘を重ねちゃったんだ? 周りの人も、気になって色々聞いちゃいそうだもの。公爵家のご令嬢っていうプライドが、どんどん嘘を膨らませちゃったのね」
「黙りなさい。端女風情に口を開く許可は与えていませんよ」
その得意満面の笑みが気に食わずにとうとう口を挟んだマイアを、エリレーテはきつく睨みつけた。
「マイア君も当事者だ。たとえ君が許可を出さなくても、僕はぜひ彼女にも発言してもらいたい。無論、関係のある内容だという前提のうえでだが」
ルクスがたしなめると、エリレーテは煩わしげに口元を扇子で覆って話を戻した。
「わたくしほどの淑女であれば、王家に嫁ぐのに不足はありません。それに殿下は大変存在感が……こほん、失礼しました。その、控えめなお人柄ですから、わたくしが何を言おうと誰も疑わないんです。殿下という方がいながらわたくしに粉をかけようとする無謀な男性もいませんしね」
一転して取り巻きの男達は硬直する。エリレーテ自身も楽しげに侍らせていたはずなのに、振り回されて彼らも大変だ。同情はしないが。
「殿下は賑やかなところがお好きではないようですから、社交の場であってもわたくしが殿下と共にいなくてもおかしくはないでしょう? どうせ殿下はお出ましにならないのですから。わたくしとの婚約の噂で殿下と王家にご迷惑をおかけしたというなら、謝罪してさしあげてもいいですけど……何か支障がありました?」
「ない。王家が僕と君の噂を否定しようとしたのは、あくまでも君の将来の縁談に響くという理由からだ。少し意地の悪い言い方にはなるが……根拠のない噂話で王室は揺らがないし、外野の憶測で僕の妃選びが左右されるということもないからな。君から被った迷惑は、もっと別の大きなものだ」
ルクスはじっとエリレーテを視て、そしてマイアに視線を移した。小さく頷かれ、悟る。今こそ洗脳を解く時だと。
「皆、聞いてほしい。ここにいるマイア・フィーン君は、エリレーテ君と彼女を支持する者達から不当に貶められ続けてきた。これまでマイア君は、いじめというアカデミアにあるまじき愚行の被害を受けていたんだ。この中には、その現場を目撃していた方もいると思う。では何故、誇り高い貴族子女がそのような蛮行に出たのだろう?」
「何を……!」
エリレーテは目を剥く。しかし忠実な手駒達は、この時ばかりは彼女の意思を汲めなかった。
「我々は教育を施していただけだ! その女は身の程知らずの薄汚い平民だからな!」
「泥被りは、放っておけばいずれエリレーテ様に冤罪をなすりつけて学園から追放する、悪魔のような女なの! だからそうなる前に、正義の鉄槌を下すのよ!」
これまでエリレーテから刷り込まれていたマイアへの敵意が、一気に噴出した。慌ててエリレーテがもう一度彼らに洗脳を施し、口を閉ざそうとするがもう遅い。
「なるほど。しかし彼らは、邪竜の加護を受けたエリレーテ君に操られているに過ぎない。かの聖なる乙女と同様の“調和の手”を持つマイア君を排斥し、今一度この地を邪竜の脅威にさらすために」
ルクスは指を鳴らす。不可視の拘束を解いたようだ。そして、マイアはありったけの声で叫んだ。
「魔力の淀みよ、治れー!」
ありとあらゆる魔力に同調できる“調和の手”。その聖なる光が、邪な支配の力に囚われていた人々を包み込む。
「あれ……? わたくしは今、何を……」
「ん? 舞踏会……おや、マイアじゃないか。後で私と一曲踊ってくれないか?」
マイアに対して態度をひるがえした者達を、まだ洗脳されていなかった者達が怪訝そうに見ている。けれど彼らの眼差しは徐々にエリレーテに向けられた。そこに宿るのは疑惑の念だ。
「洗脳によって不和をばらまいたのは君だな、エリレーテ君。邪竜の寵愛を受け、邪竜がもたらす混沌を望む君にとって、次代の聖なる乙女たるマイア君ほど目障りな者はいないだろう?」
エリレーテの一挙一動を見逃すまいと、マイアはエリレーテを注意深く見つめる。召喚魔法か、あるいは“支配の唇”による洗脳か。どちらであっても対処できるようにしなければ。
「だが、君の野望を見逃すわけにはいかない。王太子ルクシアドの名において、君を拘束させてもらおう」
取り押さえろ。ルクスの号令に、騎士達が素早く応じる。
けれど彼らは登壇できない。圧倒的な威圧感がホールを満たし、エリレーテの高笑いが響き渡った。




