11 マイアは泣き寝入りしたくない、なので
(どうかあたし達に力をお貸しください、平和の女神様)
国の守護神である平和の女神の像の前に跪いて祈りを捧げる。静謐なこの時間がマイアは好きだった。今日のミサでもきちんと祈ったが、一人になって改めて祈るとやはり気持ちが引き締まる。
「神父様、お掃除終わったわよー。他にお手伝いすることはない?」
傍らに置いていた掃除用具を手に取って立ち上がり、別室の神父に声をかける。
「ありがとう、マイア。もう大丈夫じゃから、少しお茶でも飲んでいきなさい」
朝のミサの片づけが終わり、やっと一息ついた。十一時。ここで少しのんびりしても、迎えの時間までには家に帰れるだろう。
コルセットの恐怖におびえていたので、今日の昼食はいらないとあらかじめ母には伝えてあった。日曜の奉仕作業の後は、神父はいつも軽食を用意してくれているからだ。
「どうじゃ、最近は。学校は楽しいかね?」
「とっても。友達もたくさんいるし、素敵な人とも知り合えたの。三年生の先輩なんだけどね、今日はその人と舞踏会に行くのよ!」
「それはよかった。なんじゃろうと、お前さんが楽しいと思えることが一番じゃからな」
神父が出すお菓子は多い。本人は甘党だから常備しているのだと言っているが、きっと持ち帰って弟妹に渡せるようにだろう。その厚意をありがたく受け取り、マイアはハーブティーに口をつけた。
「実を言うとな、お前さんにアカデミアの推薦状を出していいものか迷っとったんじゃ。じゃが、過保護なわしのせいでお前さんの未来が断たれるのも忍びない。楽しそうなお前さんを見るあたり、わしの選択は正しかったようじゃな」
「神父様には感謝してもしたりないわ。でも……迷ってたって、どうして?」
「お前さんの魔力は、特別じゃからなぁ。……十年ほど前になるかの、国の上のほうで少しばかり不穏な動きがあってな。表立った波風は立っとらんが、何かしらの対立があったようなんじゃ。楽隠居を決めたわしのところに泣きついてくる者まで出る始末よ」
(ルクス先輩が言ってた通り、神父様って結構偉い人だったりするのかしら……)
ただの下町の神父かと思っていたが、最近どうにも自信がない。少なくとも、現役の聖職者達には十分頼りにされているようだ。
「そんな状況で、“調和の手”であるお前さんを表舞台に立たせれば、不埒な目的で担ぎ上げたり危ない目に遭わせようとしたりする者が出ないとも限らんからの。じゃからお前さんのご両親とも相談して、お前さんのことはなるべくそっとしておこうと思ったんじゃが……」
豊かな白髭を撫で、神父は慈愛に満ちた眼差しで微笑んだ。
「お前さんはわしが見てきた生徒の中で、一番勉強熱心じゃった。どうにかその芽を伸ばしたかったんじゃよ。知識も教養も、正しく磨けば剣にも盾にもなるからの」
「ありがとう、神父様」
なんだかくすぐったい。照れくささをごまかすようにマドレーヌをつまむ。
けれど、少しひっかかることがあった。
「不穏な動き、って?」
「なんと言ったらいいのかのう。お前さんに聞かせるような話ではないんじゃが……十年ほど前に、とあるやんごとなき方が毒を盛られて暗殺の憂き目にあったのじゃ。まだ幼かったのに、お可哀想なことよ」
「ひどい……」
「しかもそれはただの毒ではなく、何かおぞましい呪いのようなものじゃった。それで、大教会が応急処置を行うことになったんじゃが……担当した聖職者いわく、どうにも様子がおかしく周囲が信用できん、と。そこで急遽わしの教会でお迎えすることになってな。わしはもう大教会の派閥争いからも退いとったし、宮廷の権力とも距離を置いておったから都合がよかったんじゃろうて」
思わず心臓が飛び跳ねた。なんだかすごく聞き覚えのある話のような気がする。
「あの方にかけられた呪いは、当人の魔力を故意に暴走させるような性質の悪いしろものでなぁ。そうやって地獄のような苦痛を味わわせた挙げ句、犠牲者の命を奪うんじゃ。わしも長く生きてきたが、あそこまで複雑怪奇で残酷なものを目にしたのはあれが初めてじゃの」
わしの神聖魔法でも太刀打ちできそうになかった、と神父は悔しそうに呟く。せっかく頼ってもらったのに申し訳ないがあんなことは初めてだ、と。
「あれは人の手には負えない、人智を超えた厄災のようじゃった。なまじっかあの方の魔力量が多いばかりに、ひどく苦しまれておったのを覚えておるよ。不思議なことに、わしらが何をするでもなくそのお方の呪いは解かれたから、お命は助かったんじゃがな。きっと女神様の加護があったんじゃろう」
(あの時の子、ちゃんと助かったんだ。よかった)
暴走した魔力を、“調和の手”が同調することによって鎮めたのだろう。マイアが回復を願ったから、あの子が持つ本来の落ち着いた魔力に戻ったに違いない。どこの誰かは知らないし、偶然起きた奇跡だが、マイアの力で人を助けられたというなら悪い気はしなかった。
「暗殺未遂の下手人じゃった使用人は、捕らえられる前に……その、話が聞けるような状況ではなくなってしまってな。どこからそんな毒を持ち込んだのかもわからずじまいじゃ。じゃが、幼いご令息を害された高貴なご夫妻が徹底的に調べさせた結果、邪竜の復活をもくろむ異教徒がおる可能性に辿り着いたらしい」
「邪竜を崇拝する人なんているの?」
ルクスの話が脳裏をよぎる。どうやら神父も何か知っているらしい。彼から何か情報を引き出せないものだろうか。
「同じ人間と言えど、思考までは一枚岩にはなれんのじゃよ。悲しく愚かしいことじゃがな。どれほど高潔な組織でも、必ず腐敗は忍び寄る。富や権力を求める者、体制への不満を訴える者……そういった者達の成れの果てが寄り集まり、たまたまその異教となったのやもしれぬな」
神父の口ぶりからして、邪竜の復活自体は信じていないようだった。あくまでもそういう概念が、逆賊の旗印として受肉したと思っているらしい。むしろ大教会の人間としては、聖なる乙女によって滅ぼされたはずの邪竜が復活するなど認めてはいけないのだろう。
確かに、邪竜の真偽そのものはさほど重要ではない。
重要なのは、邪竜復活を掲げる活動家が存在していることだ。
「結局異教徒のしっぽを掴むには至らんかったようじゃが、あの一族の方をおびやかすことも厭わぬような危険な輩がいたのは事実じゃからの。他に仲間がひそんでいないとも限らんし」
(でもその人達は、今に至るまで摘発されてない。きっと、それだけ根深いところにいるんだ。その人達がこれまで邪魔をしてたから、邪竜復活の警鐘を鳴らす人達の声はうまく広がらなかった)
巧妙に社会に溶け込んだ活動家達の妨害、そして正統なる信仰による慢心。それらが最悪の噛み合い方をした結果、危機感を持っている者達ですら後手に回らざるを得なかった。
かつて邪竜を倒して世界を救った、聖なる乙女。平和の女神として祀られた彼女も、よもや後世の人間が自分を信じすぎるあまり思考を放棄してしまい、そのせいで平和がおびやかされることになるとは思わなかっただろう。
「そういう人達にとっては、聖なる乙女と同じ“調和の手”の持ち主なんていないほうがいいわよね」
「その通り。狂人の詭弁だろうとなんだろうと、たがの外れた者は何をしでかすかわからんからの」
エリレーテが自身を“調和の手”を持つ聖なる乙女だと吹聴していた理由が、ようやくわかった気がした。
彼女は、“調和の手”の能力者が名乗れない状況を作ったのだ。希少な能力者が同時代に何人もいるはずがない。明確な権威のあるエリレーテがいる以上、本物の“調和の手”のほうが排斥されかねなかった。
だから、自分が本物だという自覚があったとしても表舞台に立とうとしない。ちょうどマイアがそうだったように。本物がいつまでも名乗り出ないなら、ずっとエリレーテの……邪竜崇拝者達の天下だ。
“支配の唇”と“調和の手”はよく似ている。
“支配の唇”で自分の魔力に染め上げて洗脳すれば、疑似的に“調和の手”の力を再現できるだろう。ルクスのように魔力を視ることができる者ならともかく、そうでない人々を騙すことなど簡単だ。
“調和の手”の能力者だと思われていた少女が、実は邪竜の寵愛を受けた者だったら。連鎖的に“調和の手”……正統なる信仰と、平和の女神の評判も落ちるに違いない。異教徒達にとってこれほど都合のいいことはないだろう。
「とはいえ、あれからもう十年近くが経っとるからの。“調和の手”は女神様の愛の証じゃ。いつまでも隠し通せるものでもなし。いずれはお前さんも、その特別な魔力の使いどころを学ばんといかん。アカデミアで貴い方々と席を並べることがお前さんに実りをもたらして、この国にとってよりよい未来を導いてくれると、わしは信じておるよ」
「……そうね、神父様。あたし、頑張るわ」
邪竜は人の世に争いを振りまく。邪竜とは厄災の権化であり、混沌の化身だ。
その邪竜の威を借りる活動家達が、まっとうな倫理観と正義感を持っているとはとても思えなかった。
(そんな奴らには絶対に負けたくない──これ以上、あたしの平和な日常をめちゃくちゃにはさせないんだから)