10 マイアはルクスの両親に気に入られた、かもしれない
「ご機嫌よう、奥様。お目にかかれて光栄です。わたくし、マイア・フィーンと申します」
「奥様……」
マイアが淑女の礼を取ると、ルクスの母親は少し怪訝そうな顔をした。いかんせん美人なので、眉をひそめるだけでも迫力がある。
何か間違えてしまっただろうか。内心で冷や汗をだらだらと垂らしながら、それでもマイアは笑みを崩さない。
「母上、彼女にはまだ」
「ああ、なるほど。そういうことでしたか。それならばいいでしょう。アカデミアでただ遊び惚けているわけではないというのは、その所作を見ればわかりますし」
ルクスが何か耳打ちすると、夫人は得心したように頷いた。とりあえず、及第点はもらえたようだ。
ルクスの家が迎えによこした馬車は、マイアをこの瀟洒な邸宅へと連れてきた。貴族のタウンハウスが立ち並ぶ、王都の一等地の一角だ。
とはいえここはルクスの家ではなく、母方の祖父が有するタウンハウスらしい。祖父一家は普段領地のカントリーハウスで暮らしているので、ここは自由に使えるのだとか。
……もしかすると、ルクスが下級貴族だというのはマイアの勘違いなのだろうか。少なくとも、このお屋敷を平然と維持できる家柄の女性が嫁いだ家が、吹けば飛ぶような弱小貴族とは思えなかった。
もちろん、わざわざこの見栄えのいい大邸宅に連れてきたあたり、ルクス自身の家はとても案内できないと思われた可能性もなきにしもあらずだが……。
それからしばらく、マイアは着せ替え人形になった。ずらりと並ぶドレスと宝石達の値段を聞いたら卒倒する気がするので、あまり考えないようにしたい。
「マイア君にはもっと、柔らかい色のほうが似合うと思います」
「おまえに貴婦人の装いの何がわかるというのです。ですが、確かにそうですね。お若いのですから、明るいお色のものも着てみましょうか。マイアさんはどんなお色がお好きかしら」
「奥様に用意していただいたドレスはどれも素敵ですが……そうですね、緑色は好ましいかと」
「よい選択です。では、明るく柔らかい緑のドレスを中心に持ってこさせましょう。せっかくですから、宝石はルクスの瞳に合わせましょうか。ドレスと同じ色ですから、統一感も出せますし。穏やかな緑は、おまえのその美しい桃色の瞳をさぞ引き立てることでしょうね」
夫人の指示でトルソーが入れ替わる。使用人達に傅かれながら、ああでもないこうでもないと様々なドレスをあてられた。きらびやかな服に囲まれておしゃれできるなんて。ちょっと楽しくなってくる。
「サイズは気にしなくてよろしい。その程度のお直しなら、針子がすぐにやってくれます。わたくしのお抱えの針子達の魔法の腕は非常に優秀ですから」
「わたくしにも何か手伝えることはございませんか?」
「殊勝な心掛けですね。であれば、まずは自分にふさわしいドレスを決めなさい。話はそれからです。ルクス、おまえも手伝うように。ご令嬢だけ働かせるのは、紳士のすることではありませんよ」
「わかりました。マイア君の“調和の手”があれば、通常より短い時間で作業できると思います」
「なるほど、全員の魔力を合わせるのですか。便利な能力ですね。となればサイズのお直しだけではなく、よりマイアさんに似合うようなアレンジも……」
「先輩はどういうドレスがいいと思う?」
「そうだな……この、花の模様が入っているのは可愛いと思う。君が動くたびに裾がふわりと広がるし、君の愛らしさをより引き立てるんじゃないか?」
「素敵ね! じゃあ、これにしてみようかな」
「ルクス、おまえも暢気に見ている場合ではありませんよ。マイアさんと合わせる礼服の用意をしなければ」
「正装なら持っていますが……」
「ご令嬢をエスコートして社交の場に出るというのは、普段おまえが行っていることとは違うのです。マイアさんと色や小物を揃えないと。よもやマイアさんに恥をかかせる気ではないでしょうね?」
「ええと……では、ドレスと同じ色の……ハンカチーフを……?」
「マイアさん。我が息子ながらお恥ずかしいですが、ルクスはひどく出不精なのです。初めての社交界のパートナーを務めさせるには、あまりに頼りがいがありません。そんな愚息ですが、マイアさんを守ろうという思いだけは本物なのです。どうか見限らないでやってくれませんか」
「母上、そういう話は結構ですから。マイア君を困らせないでください」
「あ、あの。せんぱ……ルクス様がわたくしのことを第一に考えてくださっているというのは、とても伝わっています。至らぬわたくしですが、わたくしもルクス様にふさわしい淑女でありたいと思うんです。奥様にまでこのように協力していただけて、感謝してもしたりません」
「……やはりおまえ達とは、ぜひ今後のことを話し合う必要があるようですね……。いいですか、必ずやその舞踏会でおまえ達の正しさを証明なさい。話はそれからです」
朝早くから開かれたファッションショーは、昼過ぎになんとか終わりを迎えた。
あとは夫人のドレスを、よりマイアに合うように手直しするだけだ。針子達の魔法、ルクスの魔力量、そしてマイアの“調和の手”があれば、作業は数時間で終わる見込みだった。
少し遅めの昼食を摂る。昼食は用意してもらえていたが、実はマイアも家から持ってきていた大量のサンドイッチがあった。
普段のルクスの浮きっぷりから、貴族と言っても平民にちょっと毛が生えた程度を想定していたので、この大豪邸に通されてしまった今となっては出すのも恥ずかしいのだが……。
来た時に使用人達にこっそり預けたそれは、帰る時に内緒で回収しようと思っていたのに、夫人の目はごまかせない。結局見せる羽目になってしまった。
「も、申し訳ございません。このような貧相な物を持ち込んでしまって。お目汚しでしたよね」
バスケットをおずおずと見せる。持ち帰って家で食べよう。そうしよう。赤い顔でうつむくマイアだが、不意に腕の中の重みが消えた。
「僕が持とう。母上、せっかくのいい天気ですから昼食は庭で食べませんか?」
「そうですね。では、そのように用意を」
「あ……」
「このサンドイッチ、随分と量が多いな。君一人で食べきれるのか?」
「……差し入れのつもりだったの。先輩が手料理苦手なのは知ってたけど、でも、他の人は食べるかなって」
「うん。では、みんなでありがたくいただこうじゃないか。……実は僕も、マイア君がいつも持ってきているお弁当が気になっていたんだ。君があまりにも美味しそうに食べるから。きっとマイア君の母君が、マイア君とご家族のことを考えてお作りになったんだろう」
「今日はあたしが作ったから、あんまり美味しくないかも」
「そんなことはない。むしろ君の手料理が食べられるのなら光栄だ。君が作ったものなら、安全に違いないから。僕の苦手意識も克服できるかもしれない」
広々とした庭園のテーブルセットにきらびやかな昼食が並ぶ。流麗なスタンドには、場違いながらマイアのサンドイッチが並べられていた。
食前の祈りを済ませ、ルクスはまっさきにサンドイッチに手を伸ばす。手に持ったそれを無言で見下ろす彼を、マイアは祈るような気持ちで見つめた。ややあって、ついにルクスはサンドイッチを口に運んだ。
「……大丈夫だ、マイア君。とても美味しい」
「ほんとに?」
「ああ。作り手の真心がよくわかる、優しい味だ。僕達のためにわざわざ作ってくれてありがとう。……こんな気持ちで食事ができたのは、本当に久しぶりかもしれないな」
嬉しかった。好きな人に手料理を食べてもらえて、そのうえ褒められたなんて。その事実でもう胸がいっぱいで、せっかくのごちそうもかすんでしまうくらいだ。
「マイアさん。明日は、十三時ごろに迎えをよこします。舞踏会は十八時からですから、それまでにこの屋敷ですべての身支度を済ませましょう。わたくしはおりませんが、すべて完璧に手配できるメイド達を遣わせますので心配はいりません」
「はい。よろしくお願いいたします」
「おまえに貸した服と装飾品は、すべておまえの力になるでしょう。ですが、だからといってその圧に飲まれないように。主となるのは、あくまでもマイアさん自身ですからね。どれほど絢爛な衣装であろうと、それらを従えることで初めて武器たりえるのです」
彼女なりの激励なのだろう。人生の先輩の言葉に、マイアは深く頷いた。
「それと、ルクス。わかっていると思いますが、おまえのお父様もおまえの将来をとても心配しています。これほどおまえに理解を示してくださるご令嬢がそう何人もいるとは思えません」
「うっ……」
「おまえが内向的だったのをいいことに、おまえを社交界から遠ざけることにしたのはわたくし達の判断です。おまえには別の適性があるからと、これまでわたくし達はどんな付き合いも強制してきませんでした」
「はい、存じています」
「ですが……そもそも政略結婚に当人同士の意思など必要ないのです。そのことをゆめゆめ忘れることのないように。……たとえマイアさんが否と言おうと、必要だと思えばお父様はおまえ達の結婚を決めかねませんよ。わたくしも、それに賛成ですからね」
「ですから、マイア君の前で彼女を怯えさせるようなことを言わないでくださいとあれほど……」
苦い顔のルクスに、「気にしてないよ」と微笑む。
一足飛びに結婚まで話が飛躍されるとさすがにためらうが、そもそも貴族に見初められた以上は悠長に付き合えるとは思っていない。あとはマイアの覚悟と度胸の問題だ。
ルクスが言う特殊な一族とやらに一抹の懸念はあるが、ルクスはもちろんそのご両親だってマイアを歓迎してくれる。それならば、きっと大丈夫に違いない。
ご息女を一日借りたうえに昼食まで振る舞ってもらったお礼だと、ルクスの母はお土産に高価そうな食材をたくさん包んでくれた。家族みんなで大事に食べよう、そうしよう。
運命の日まであと一日。
邪竜の加護を受けた公爵令嬢と対峙することに、恐怖がないと言えば嘘になる。だが、傍にいてくれるルクスを思えば、勇気はいくらでも湧いてきた。




