1 マイアは学園中の嫌われ者、らしい
「あらあら。呆けていないで、もっとちゃんと髪を洗ったらどうですか? 平民は自分で洗うんでしょう?」
水浸しになって噴水の中でへたり込むマイアを見下ろし、公爵令嬢エリレーテが嗤う。
「待っているだけでは、いつまで経っても泥は落ちませんよ?」
「エリレーテ様ったら。泥被りの御髪は、元からこの汚らしい茶色ですのよ」
公爵令嬢エリレーテの取り巻き筆頭、伯爵令嬢ヴィアンナの言葉に、他の取り巻き達も同調した。ここにマイアの味方はいない。
「まあ、そうだったんですか? なら、きっとこの人は鏡を見たことがないんですね! その薄汚れた貧相な身なりで聖なる乙女を騙ろうだなんて、恥を知りなさい」
「平民の分際でエリレーテ様を貶めようだなんて、まったく図々しいこと。ここまで恥を晒しておきながらまだアカデミアに居座り続けることができるだなんて、本当にご立派な心臓をお持ちですのね」
マイアは唇を嚙みしめ、それでも気丈に笑ってみせた────こいつら後で絶対思い知らせてやる、と。
悪いことは重なるもので、『マイアがふざけて噴水の中に立ち入った』という匿名の通報によって駆けつけた教員から大目玉を食らった。当然、とっくにエリレーテ達はいなくなっている。
マイアが噴水の中にいたのは、ヴィアンナの手によって噴水に放り込まれた鞄の中身を回収しようと手を伸ばしたところを、後ろから別の取り巻きに突き飛ばされたからなのに。信じてくれる人がどこにもいなければ、真実には一片の価値もない。
教員からしてみれば、すべてマイアの過失だ。
王侯貴族のためのアカデミアに通う平民の特待生と、由緒正しい上級貴族の令嬢達。信用があるのはどちらなのか、考えるまでもない。たとえ誰かが本当のことを見ていたとしても、より都合のいい現実に塗り替えられてしまう。
びしょびしょの私物と服をとにかく乾かそうと、木立に隠れて魔法を使う。
ぽうっと両手が淡く光ると、みじめさも和らいだ。ずぶ濡れだった何もかもが本来の姿を取り戻していく。だから、大丈夫。
「大丈夫だもん。こんなところで、諦めるわけには……」
家で待つ両親と弟妹の姿を、そして信じて送り出してくれた神父を思う。マイアは実家暮らしだから、あんなみすぼらしい恰好で帰るわけにはいかなかった。
王立アカデミアの特待生に選ばれた平民は、宮廷での成功が約束されていた。ここで逃げ出して、チャンスを棒に振るわけにはいかない。
何より、彼らを心配させたくなかった。マイアは楽しくて充実した学園生活を送っているのだと、彼らにだけは思ってもらいたい。
マイアは視線を落とし、少しの間その動きを止める。けれどすぐに、自らを鼓舞するように勢いよく物を片付けて校門に向かった。
三か月ほど前まで……つまり入学してから一か月ほどは、マイアの学園生活は本当に順調だった。
他の特待生とも熱心に交流したし、貴族の学生とも友好的に接することができていた。
マイアの栗色の髪は生まれつきさらさらで、大きな薄紅の瞳はまるで色づく花びらのよう。
労働と言えば教会の奉仕作業をするぐらいだったから、変に日に焼けていることもなければたくましすぎるわけでもない。体つきこそ貧相だが、華奢だとか儚げとかどうとでも言い繕える。
ようするに、マイアは貴族令嬢に混じっても遜色ないほど美少女だった。
とても今では考えられないが、マイアにだって友達がいて、輪の中心にいたと言っても差支えがなかったのだ。あのヴィアンナですらも、元々はマイアの親友だった。
事情が変わったのは、公爵令嬢エリレーテが一月遅れてアカデミアに通いだしてから。
体調不良のせいだとも、極秘の王命によるものだとも囁かれるその入学の遅れがなければ、もしかしたらマイアの学園生活は最初から真っ暗で……周囲に手のひらを返される絶望と落差だけは味わわなくて済んだかもしれなかったのに。
名門公爵家の令嬢とか、社交界に咲く気高い薔薇姫とか、聖なる乙女とか。
エリレーテにはたいそうな肩書がいくつもついていた。さすがは名家に生まれた美貌の才媛だ。王太子の婚約者だという噂もある。文字通り、マイアとは住む世界が違っていた。
最初、エリレーテはマイアに近づこうとしなかった。隣のクラスだということもあり、接点がなかったというのもある。
いずれ宮廷で大成する見込みがあるとしても、しょせん上級貴族達にとって特待生とはただの平民だ。
さしたる身分もないまま実力だけで登用された官僚や軍人、側仕えは見下していいものだという風潮が上級貴族にはあった。どうせ上級貴族が金と権力で地位を買ってマイア達の上司になるのだから、それも当然といえば当然だろう。
それでも特待生や下級貴族の側からすれば、上級貴族にはぜひとも取り入りたい。
人脈を求める者達に、エリレーテは連日のように囲まれていた。出遅れたマイアに割って入る隙はない。
だから、二人の世界は交わらないはずだった。
けれどその遅い登校から一週間ほど経って、エリレーテがこう言ったらしい。マイアこそ、エリレーテのすべてを奪う悪魔なのだと。
ちょっと何のことかわからなかったが、どうやらエリレーテは常々その“悪魔”を恐れていたという。
エリレーテはついにその悪魔を見つけて糾弾し、取り巻きを扇動して排除に乗り出したのだ。
たった一月の友情など、エリレーテの一声の前では何の意味もない。
エリレーテに気に入られたい、不興を買いたくないという理由で、誰もがマイアの敵に回った。こうして、マイアの平和な学園生活は脆くも崩れ去った。
エリレーテは取り巻きに、しおらしく不安を吐露するだけでいい。すると取り巻きはエリレーテに忖度して、勝手にマイアをいじめだす。
後は、にやにやとそれを眺めるだけだ。いじめの場にエリレーテがいることはあっても、マイアに対して侮辱の言葉をかけるだけで直接手を出すのは取り巻きにやらせていた。
マイアに嫌がらせを行う者の中には、ヴィアンナのようにかつてマイアが友人と呼んだ者もいた。粛清に巻き込まれたくないと、いじめに加担しなかった友人もマイアから離れていった。
エリレーテとその取り巻きがでっちあげたマイアの罪状は数えきれない。
物を盗んだ、態度が悪い、風紀を乱している、聖なる乙女を自称した……。その冤罪こそがマイアを虐げる理由になり、自分達の行いを正当化させる。礼儀のなっていない平民を、自分達は教育してやっているだけなのだと。
もともと気の強いマイアは、持ち前の精神力で逆境に立ち向かった。そういう勝気なところも、エリレーテ派に嫌われる一因だったのかもしれない。
けれど、今さら退くことはできなかった。エリレーテの前で泣いて跪き許しを乞うたところで、状況が好転するようにはとても思えなかったからだ。反逆者から奴隷へと、扱いが変わるだけだというのは目に見えていた。
アカデミアにもはやマイアの味方はいない。自分の身は自分で守る必要がある。
誰かを信じたところで、それがエリレーテ派の人間の内通者ではない保証はないのだ。
だから、マイアは誰のことも信じない────つもりだったのに。