九、逃亡者たち
3人の逃亡劇がはじまります!
キースの選んだ方法は、亜仁衣の想像を超えていた。今、亜仁衣と藤井、そしてキースの三人は、亜仁衣の母親の故郷である沖縄の離島『daito』に来ている。
今から一時間前。亜仁衣と藤井がキースの言う河川にまで行くと、そこには高速漁船が来ていた。それは、母親の故郷『daito』でよく見た漁船だ。だから、亜仁衣にはそれが何なのかがすぐにわかった。
『daito』は、東京から1300キロのところにある。でも、この高速漁船なら、たったの一時間で行き来することができる。
どうして、こうなったのかというと――。
キースは、亜仁衣と藤井のためにホテルをとったあと、亜仁衣の実家へ行っていたという。そして、麻伎衣に行くべき良い場所はないかと相談していたのだ。
本来ならば、アンドロイドとして絶対にしてはいけない行為だ。亜仁衣の実家に姿を現すことは、完全に亜仁衣の意志に反する。既に藤井にバラされたとはいえ、キースの存在は実家には秘密だからだ。
でも、アンドロイドのAIは、その緊急時において、所有者の命令にそむいてでも、よりリスクの少ない行動を選択するという『緊急時判断機能』が備わっている。どうやら、キースのアンドロイドAIは、今がよほどの緊急事態だと判断したようだ。
結果、麻伎衣は自身の故郷である沖縄の離島『dダaイiトtウo』から、高速漁船を呼び寄せてくれたのだった。
その際に「うちの近所には、おしゃべりなオバちゃんが多いから、この家に隠れるのは無理よ。ふふふ」と言ったらしい。
なんとも麻伎衣らしい。緊急事態でも、なんだかちょっと能天気だ。
「テレビで見るより、べっぴんだのう~」
おばあは、キースを見つめて言った。
亜仁衣、藤井、キースの三人は、木造平屋建てのおばあの家にやっかいになっていた。
おばあとは、麻伎衣のお母さん、つまり亜仁衣のお婆ちゃんだ。お爺ちゃんのほうは十年前に他界したから、この家にはおばあがひとりで住んでいる。
おばあの家の空間TVでも、藤井貴伊守アンドロイド説が大スキャンダルとして報道されていた。報道はどんどん加熱している。藤井が亜仁衣の会社で騒ぎを起こしたちょうどそのとき、芸能人のほうの藤井貴伊守は、これまた地方でロケをしていたと判明したからだ。
「で、こっちがアンドロイドか?」
おばあは、今度は藤井に向かって言った。藤井は空間TVを見たまま無反応だ。見かねた亜仁衣が「反対だよ。おばあ」と言うと、
「こっちが本物か! なんだか暗いし、オーラが無いなぁ」
と藤井をまじまじと見つめた。そして、
「今まではアンドロイドだと思って言わなかったが、本物だったら、おまえあいさつぐらいしろ」
と言うと、藤井は無言で小さく礼をするだけだった。おばあは呆れ顔になった。
「まったく無愛想な奴だ。亜仁衣は、なんでこんな男がいいんだ?」
空間TVに集中していた亜仁衣は、ふいをつかれた。
「いいって……、どういう意味?」
「一緒に住んでるってことは、付き合ってんだろ?」
「ち……違うって! そんなんじゃなくって、ちょっとわけあって居候されてるだけ」
「居候されてるだけ? なんだそりゃ。ちっとも話が見えてこないな。まぁ、いいか。とりあえず、テレビの騒ぎが落ち着くまでここにいるといい」
おばあがそう言ったところで、庭先から近所の漁師のおじちゃんがやってきた。息を切らして凄い形相をしている。
「たぶん、マスコミってやつだ! この島にも来たらしいぞ! 今、そこまで来てるから早く逃げろ!」
「家の中だから大丈夫だろ」とおばあ。
「そんな人数じゃない! 軽く五十人はいそうだ。家を取り囲まれたら逃げられなくなるぞ。だから早く逃げろ!」
おばあはちょっと考えてから、亜仁衣達を見て、
「とりあえず、三人で逃げろ」
「おばあは?」と亜仁衣。
「今、家の住人まで逃げたら怪しいだろ」
確かに、と思って亜仁衣はうなずいた。
亜仁衣、藤井、キースの三人は、おばあの家から飛び出した。
外は少し騒がしい。遠くのほうからは、複数人の男の声が聞こえてくる。この島は、亜仁衣の母親の故郷だ。亜仁衣は小さな頃から、夏休みになると連れて来られては遊び回った。だから、隠れる場所なんてお手のものだ。
まず、亜仁衣は、近くにあるひまわり畑にふたりを誘導した。今日みたいな風の強い日は、ひまわりの葉が擦れ合ってザワザワと騒がしい。おかげで、人が隠れても上手に音が紛れてくれる。それに、夏のひまわり畑は人の背を覆うほどに丈が高いから、身を隠すのには持って来いなのだ。
でも、ふたりの男の背は高すぎた。それに気がついていない藤井の頭は、ひまわり畑の上からひょっこりと飛び出している。
亜仁衣は、途中でそのことに気がついた。
「藤井、頭出てる!」
亜仁衣が小声で、でもハッキリとそう言ったとき、複数の走る足音が聞こえてきた。漁師のおじちゃんの言うマスコミだろうか……⁉
「ストップ……!」
ささやくような亜仁衣の制止の声は、ひまわり畑の音に負けてしまった。藤井の耳には届かない。
追手の足音はかなり近い。亜仁衣は、やきもきしながらも、ひまわり畑の中でじっと息を殺した。藤井は無事だろうか……。
大丈夫。足音はそのまま去って行った。
足音がなくなるやいなや、亜仁衣は急いでふたりを探した。けれど、畑の中どこを探しても、もうふたりの姿はなかった。
ひまわり畑の音は、三人を上手に隠しすぎた。そして、おかげで、お互いのことまでも見失う羽目になってしまったのだ。
「どうしよう~。いきなりはぐれちゃった……」
そのあと、亜仁衣は島の目ぼしいところ――池の周辺、サトウキビ畑、展望塔、港――と、あちこち回った。けれど、ふたりの姿はどこにもない。
人間の十倍の能力があるキースならきっと大丈夫。でも足の悪い藤井は心配だ。しかも、今の藤井はとんでもなくやる気がない。たぶん、あの元婚約者の『乃亜』さんが原因だ。あの感じだと、下手したら大人しくマスコミに捕まってしまうかもしれない。
ふたりを探しながら、そんなことを考えていたら、亜仁衣の心配はどんどん膨れあがってきた。
いつもは、便利な都会生活を送る亜仁衣だ。走り続けたおかげでとっくに息は上がっている。でも、亜仁衣は、その心配に背中を押されるように、休むことなくふたりを探し回った。
その間、何度もマスコミらしき人達に遭遇した。それでも、島のことを良くわかっている亜仁衣のほうが一枚も二枚も上うわ手てだ。絶対に捕まることはなかった。
けれど、そのおかげで、亜仁衣は余計心配になった。足が悪い上に島に慣れていない藤井がこんな状況で大丈夫なのだろうか、と。
夕日が差して、辺りはだんだん暗くなってきた。月の出ない新月の時期である今、この島は、夜になると真っ暗闇に包まれる。
だから、早く藤井を見つけないと、たぶん明日の朝まで会えなくなってしまう。それも、藤井が無事マスコミの手から逃れていたらの話だけれど。
亜仁衣が『dダaイiトtウo』神社を通りがかったとき、背の高い誰かがいるのが見えた。そのシルエットからして藤井かキースだ。でも薄暗くて良く見えない。
「キース?」返事がない。
「藤井?」それも返事がない。
おそるおそる近づいてみると、男は藤井だった。
「ビックリしたあ。返事してよ」
藤井の顔を覗き込むと、社やしろを見つめて心ここにあらずといった様子だ。
「何してんの……。こんなところにいたら見つかっちゃうじゃん」
亜仁衣の言葉に藤井の反応はない。
「ちょっと、聞いてる!?」
被せるように、藤井は「悪いな」とひとこと言った。
「何が」
「……おまえらをこんなことに巻き込んで」
「何、いまさら……。早く逃げよ……!」
亜仁衣は藤井の腕を引っ張った。けれど、藤井は動かない。
「藤井……しっかりして!」
「俺、もう帰るわ」
「帰るって……どこに!? 早くこっち!」
今度は、強引に腕を引っ張った。すると、まだ足の悪い藤井は、よろけるようにして社やしろの裏まで引っ張り連れられていった。
ふたりが隠れた瞬間、神社前の砂利道から複数人の走る足音が聞こえてきた。その足音は神社前で止まった。そして、しばらくの間、神社の中が明かりで照らされると、その足音はまた去って行った。
いまや、島の中はどこも安心できない。マスコミはたぶん、五十人なんてもんじゃない。ひょっとしたら、千人でもいるかもしれない。
一体、この状態がいつまで続くんだろう。亜仁衣がそう思った瞬間、藤井は無用心にも社やしろの前に出て行こうとした。亜仁衣は藤井の腕を掴んで引き止めた。
「行かないで!」
この亜仁衣の声が大きかった。気づかれたようだ。遠くのほうから神社に向かって、勢い良く走る足音が近づいてくる。慌てた亜仁衣は、隠れようと藤井の腕を強く引いた。
「きゃあ……!」
勢いで、藤井と亜仁衣は、社やしろ裏の茂みに倒れ込んでしまった。
その時、境内に誰かが入ってきた。ひとりじゃない。何人かがを歩き回っている。
「おかしいな。さっき、確かに声が聞こえたんだけれど」
男の声だ。その時、社やしろ近くでカエルがゲコゲコと鳴きだした。男達の足音は社やしろの近くまでやってきた。
「このカエルの鳴き声じゃないか?」
「いや、女の声だった。まだこの近くにいるはずだ」
男達の近くの茂みには、亜仁衣と藤井が倒れこんでいた。亜仁衣の上に藤井が覆いかぶさる形だ。
お互いの顔の距離は、わずか十センチ。その状態で動けずに固まっている。ほんの少しでも物音を立てれば、男達にそこにいるのがバレてしまう。茂みの中からは、男達の足だけがチラチラと見える。
(うそでしょ! なんでこんなときに――)
亜仁衣の心の叫びの原因は藤井だった。真顔の藤井がいつものキラキラを放っていたからだ。あまりに距離が近すぎて、目をそらしても視界に入ってきてしまう。でも、男達の動きを確認したいから、目を閉じるわけにもいかない。
亜仁衣は胸がドキドキしてきた。でも、今は逃げることができない。ひょっとして、心臓の鼓動音が男達の耳に入ってしまうんじゃないか。思わずそう心配になった。当然、藤井には伝わってしまっている。
(もう……ダメ……!)
とうとう亜仁衣は、藤井を見なかろうとギュっと目をつむった。そして、そのまま男達が去るのを待った。
「おかしいな。確かにこの辺で――」
そう言ってからしばらくして、男達の去っていく足音が聞こえた。足音が遠くに行くまでもう少し。胸が苦しくなってきた亜仁衣は息を止めて待った。たぶん、顔は真っ赤になっている。
そのとき、顔の横で何やら物音がした。おそるおそる目を開け音のほうを見やると、そこにいたのはカエルだった。亜仁衣はカエルと目があった。瞬間、カエルはゲコッとひと鳴きすると、亜仁衣と藤井の顔をめがけて飛んできた!
「ひゃぁ!」
「うわぁ!」
驚いたふたりは叫び声を上げた。即座、遠くのほうで、「やっぱり、神社にいるぞ!」と男の声がした。
亜仁衣は、藤井の手を引いて神社から逃げ出した。裏手にあるサトウキビ畑を突っ切ると、そのまま森の中の道なき道を駆け進む。やっぱり『daito』の地理を良く知っている亜仁衣だ。到底、男達が追いつくことはできなかった。
亜仁衣は、藤井の手を引いて森を走り抜けた。疲れがたたったのか、亜仁衣の息は完全に上がっている。もう誰も追って来ていないことは分かっていた。でも、亜仁衣は逃げるのを止めない。
ふたりは、島で一番の池である『大池』の桟橋にまでたどりついた。走りざまに藤井が振り返ると、やっぱりもう誰も追って来てはいない。
「もういいんじゃないか――」
「ダメ!」
亜仁衣は藤井を振り返らずに言った。
「今は、まだ……帰っちゃゃダメ!」
しゃべったおかげで、余計に息が荒くなった亜仁衣は立ち止まった。亜仁衣はまだ藤井の手を放さない。
「今、帰ったら……、私の大好きな藤井貴伊守がダメになっちゃう……! だから、帰らないで!」
藤井は、フッと一笑した。
「そうだったな。テレビで、おまえの大好きな藤井貴伊守を見れなくなるからな」
亜仁衣は、首を大きく横に振った。
「……違う! あんたのこと!」
藤井は怪訝な顔をした。
「――俺?」
「私……、高校生のときにあの舞台、見たんだから……。そのとき、感動して泣いたんだからね……! 箱根の夜の藤井は……、あのときと何も変わってなかった。何ひとつ……」
藤井は記憶をたどった。そして、箱根の夜、旅館の屋上で自分が歌ったときのことを思い出した。満天の星を前に、四年前の舞台を思い出してしまったからだ。その姿を亜仁衣が見ていたということだ。藤井は、亜仁衣に強く握られた自分の手を見た。その手は、ちょっと痛くなるくらいの力で握られている。
亜仁衣は、再び藤井の手を引いて先に行こうとした。けれど、藤井は動こうとしない。亜仁衣は振り返った。
「ちょっと……。何やってんの……!」
今度は、両手で藤井の手を掴むと体重をかけて引いた。
すると、足の悪い藤井はバランスを崩して、亜仁衣に倒れ掛かってきた。
「……!」
亜仁衣の頬は赤くなった。藤井が亜仁衣に抱き着いた格好になってしまったからだ。
「ちょ、ちょっと……!」
亜仁衣は、倒れ掛かった藤井を起こして引き離そうとした。でも、藤井は離れようとしない。
「藤井……どう……したの⁉」
さんざん走ったおかげで、元々、亜仁衣の鼓動は激しかった。その上、藤井に抱きつかれてるものだから心臓はパンク寸前だ。亜仁衣は、とんでもなく息苦しくなってきた。目をぎゅっとつむると藤井を突き飛ばそうとした。でも、その瞬間、藤井のほうが亜仁衣の両肩を掴んで身体を引き離した。
亜仁衣はおそるおそる目を開けた。すると、藤井は黙ったまま、じっと亜仁衣の目を見つめていた。
藤井は真顔だ。この顔つき。昔、藤井の出演していた恋愛ドラマのラブシーンで見たことがある。亜仁衣がそう思った瞬間、藤井の顔が近づいてきた。
(これって、ま、まさか……――!)
亜仁衣は、思わず目をつむった。
(……!?)
……なにも起きない。おもむろに目をあけると、藤井はつぶやいた。
「思い出した……」
「え?」
「そういえば、おまえは覗きが趣味だったな」
思いも寄らない藤井の言葉に、亜仁衣は戸惑った。
「ど……、どういうこと?」
「おまえは俺の風呂を覗いただろ。そうやって箱根の夜も覗いてた、ってわけだな」
「ええ!?」
一瞬、言葉を飲み込めなかった亜仁衣は、変な声を上げてしまった。けれど、少ししてやっと意味を理解すると、顔を真っ赤にして唇を噛みしめた。
次の瞬間、亜仁衣は藤井を突き飛ばしていた。
「うっわ!」
大きな音を立てて派手な水しぶきが上がった。藤井は『大池』に落ちてしまった。驚いた渡り鳥達は一斉に鳴き声を上げ、空に向かって飛び立っていく。藤井は勢いよく池から頭を出すと、顔の水を手でぬぐった。
「何すんだ! おまえ!」
亜仁衣はハッと我に返ると「ご、ごめん……!」と慌てた。
藤井は桟橋にはい上がろうとしたけれど、足が悪いおかげで上手く上がれない。亜仁衣は、急いで藤井の手を掴むと桟橋に引っ張り上げた。
藤井は全身びしょぬれだ。「ったく」と言ってから、ひとつため息を吐くと、
「自分が怪我させた男……。しかも大好きな男を突き飛ばすか!」
と、いつもの調子で言い放った。
亜仁衣は、またもや顔が赤くなって、
「うるさい!」
と、もう一度突き飛ばそうとした。藤井は「や、やめろ!」と、それを手で制した。
その藤井の姿は、亜仁衣のツボに入ってしまった。フッとひとつ吹き出すと、次にあははと声を上げて笑い出した。
「笑うんじゃねえ!」
藤井は、不機嫌そうに自分の上着をはたき水気を飛ばした。
亜仁衣は、なかなか笑いやまない。はじめは、藤井の仕草が面白かった。でも、次第に、いつもの藤井に戻ったことが嬉しくて笑っている自分に気がついた。そして、ひと安心すると思わず涙が出てきた。亜仁衣は、笑いながら涙を指でぬぐった。
「笑い泣きまでするか? 一体誰のせいで、こうなったと思ってんだ」
藤井は、不機嫌そうに頭をぶん回すと髪の水気を吹き飛ばした。
その瞬間、辺りが急激に暗くなった。島がこうなると、真っ暗になるまでもうわずかだ。暗くなったおかげで、遠くのほうの明かりも良く見える。
亜仁衣はそれを見ると、「こっち」と藤井の手を引っ張り、またぞろ走りはじめた。
闇は辺りを覆い始めた。もう少しで視界が無くなりそうだ。
「こんなに暗い中、どこに行くんだ」
藤井がそう言うと、亜仁衣は「大丈夫。あそこなら絶対に」と自信ありげに言った。
この島で、絶対安全な場所と言えばあそこしかない。亜仁衣は、闇が完全に島を覆う前にその場所に向かって急いだ。
一方、島民達は混乱していた。マスコミは次々に押し寄せてくる。対抗して、おばあと島民達は結託して彼らを宿泊させずに追い返した。島民は全部で六百人ほどしかいない。だから、皆な家族みたいなものですぐに手を貸してくれた。
しかし、それでも、社用ジェットで来る輩もいるから、叩いても叩いても島に残るマスコミの数は減らない。
「亜仁衣ちゃん、大丈夫かなあ」
漁師のおじちゃんは、闇に包まれそうな空を見てつぶやいた。
藤井を含む亜仁衣たちは、無事、マスコミから逃げ切ることができるのでしょうか。