八、全国津々浦々、大スキャンダル!
家出したアニイは実家に居候することに。
そこから出社する際に、キースはお弁当を届けてくれるが・・・・。
「隣人トラブルって何があったのよ」
麻伎衣はテーブルに頬杖をつき、娘である亜仁衣をマジマジと見つめて言った。
亜仁衣の家出先。それは、自宅から十キロと離れていない実家だった。亜仁衣は、リビングのソファに寝ころがって空間TVを見ている。
「変な人が隣りに引っ越してきちゃったの。面倒だから、しばらくこの家にいさせて」
変な隣人とは、勿論藤井のことだ。ある意味、藤井はご近所トラブルのひとつかもしれない。麻伎衣は眉をひそめて、
「変な人って……。怖いわねえ。この際、家に帰ってくれば?」
「ううん、帰らない。その変な隣人が出ていくまでだから……」
「あら。その隣人さん出ていく見込みがあるのね。ならいいけど」
麻伎衣は、能天気な口調でそう言った。
足が治って、藤井が出ていくまでの間。亜仁衣はそう思って、一時的に実家で居候させてもらうことにしたのだ。
さて、亜仁衣は、家出の際、何も持ってこなかった。突発的な家出だったから当たり前だ。でも、そこはさすがはキース。その日のうちに出勤に必要なもの――スーツや化粧品――、それから身の回りの必需品やらを飛行宅配ですぐに送り届けてくれた。
そして、お弁当に至っては、毎朝、郵便ポストの上に届けてくれる。亜仁衣がどこに行くかなんて、キースにはお見通しのようだ。
そうやって、毎朝ポストの上に置かれるお弁当の差し入れは、亜仁衣にとって自分がキースに嫌われていないと思える〝最後の砦とりで〟のようなものだった。だからこそ、キースがお弁当を届けに来ている姿は絶対に見たくなかった。もしも、キースと目が合って冷たい態度を取られでもしたら、亜仁衣はもう立ち直れない。〝最後の砦〟は崩されて、亜仁衣城は完全崩壊してしまう。
(ダメ! 生きていけない……!)
だから亜仁衣は、毎朝毎夕は絶対に家の郵便ポストのほうを見ないと決めていた。
毎夕のほうは何をするのかというと、空からになったお弁当箱を、亜仁衣が郵便ポストの上に置いておくのだ。夜になって二階の部屋から郵便ポストのほうを覗くと、空からのお弁当箱は知らない間に姿を消している。
一週間ほどして、お弁当はいつもの丁寧な作りにプラスアルファで変なものが入ってくるようになった。それは、お菓子だったり、ケーキの切れ端だったり。藤井が入れたに違いない。
それも過ぎると、明らかに藤井がひとりで作ったとおぼしきお弁当が、たまに届けられて来るようになった。
「ちょっと亜仁衣、何、そのお弁当! 突然、クオリティー下がりすぎじゃない?」
臨曄は笑いをこらえながら、亜仁衣のお弁当を覗き込んでいる。
「う、うん……」
臨曄が笑うのも無理はない。藤井特製のお弁当は、白飯の上に適当にちぎった生野菜と黄身のやぶけた目玉焼きをドカンと乗せただけのものだったから。
食材がどうのではなく、その雑な見た目がなんとも言えなくクオリティーが低いのだ。特上のキース弁当と比べれば天地の差。把稚も、亜仁衣のお弁当を見て吹き出した。それから「ごめん」と謝ったけれど、こらえきれずにまた吹き出した。
臨曄と把稚は、この三年間、亜仁衣の特上キース弁当を見てきた。だから、そのあまりもの落差が可笑しいのだ。
亜仁衣は、藤井弁当を口にしてみた。
(う……。しょっぱい……)
白飯に塩をいっぱい振りかけている。なんでこんなことをするんだろう。
でも、亜仁衣は、自分の誕生日に藤井が一生懸命慣れない手で料理をしていた姿をちゃんと覚えている。だから、ふざけているわけじゃないことはわかっていた。その姿を思い出して、亜仁衣は思わずふふっと笑った。
そんなある日、斬新なお弁当が届けられた。それは、お昼時に亜仁衣がお弁当箱を開けた瞬間にわかった。なんと、お弁当の中身が空からっぽなのだ。
「ええ!?」
亜仁衣が変な声を上げたから、臨曄と把稚も空からのお弁当箱に気がついた。
「どうしちゃったの。今度はからっぽ?」と臨曄。そして把稚は、
「もしかして、他に気になることがあって気もそぞろ、だ・と・か?」
と言うと、叙鞍のいるベンチに目をやってニヤニヤした。
三人の視線に気がついた叙鞍は、笑顔で返した。
臨曄は、ひじで亜仁衣を小突いた。
「で、もう付き合ってるの?」
臨曄の図星発言には毎回ドキリとさせられる。亜仁衣は、しばらく押し黙ってから叙鞍を見つめ、無言でうなづいた。
「「えーーーー!!」」
臨曄と把稚が叫んだ。三人は、周りのお弁当派社員達の視線を集めた。
「と、とうとう……、亜仁衣が……」と把稚。
「亜仁衣に先越されたあ……」と臨曄。「でも……」
「「おめでとう~~!!」」とふたりは亜仁衣をはやし立てるように祝福した。
ふたりのバカ騒ぎに周囲の人々はきょとんとしていた。けれど、叙鞍だけは意味がわかったようで照れくさそうな顔をしている。それを見て、亜仁衣もなんだか恥ずかしくなった。ベンチを立ち上がると、
「お昼ご飯……。お昼ご飯、買ってこなきゃ。だから行くね!」
とその場を去ろうとした。
でもそのとき、とんでもないものが目に入った。それは、五メートルほど先の自動階段スペース。そこから出てきた藤井貴伊守の姿だ――!
(……うそ、なんで……!)
目の前にいる藤井貴伊守の見た目の男は、その服装や雰囲気からしてあの藤井だとすぐにわかった。
でも、藤井貴伊守の見た目の男がいるものだから、周囲はざわめきや時折混じる黄色い悲鳴で騒然となった。ざわめきの中、「藤井貴伊守……?」というささやきがいくつも聞こえてくる。
亜仁衣は、藤井に自分だと悟られぬよう、目の前に自分の手をかざすと顔をそむけた。そして、踵を返して上手にその場から引き返そうとした。
しかし、残念ながら藤井は亜仁衣に気がついてしまった。
「おい、おまえ!」
亜仁衣は、素知らぬ顔で歩き続けた。けれど、
「おい、亜仁衣!」
と藤井から言いわけのできない証拠発言を突きつけられた。
それが聞こえたのか、臨曄や把稚は目を丸くしている。叙鞍を見やると怪訝な顔つきだ。
亜仁衣は、しばらく無言で固まった。そして、諦めたように顔の前にかざした手を下ろすと、藤井に向き直った。それから勢い良く藤井に近寄ると、腕を引っ張って空中庭園の際――ガラス張りの壁――まで連れて行った。
「ちょっと。なんでここにいるの……!?」
小声の亜仁衣に対して藤井は、
「なんでって、今朝、空からの弁当を届けたのに気がついたからだよ」
と大きめの声で言った。亜仁衣は慌てて口の前に人差し指を立てると、声なく「シーッ!」と言った。
藤井の手には、今日持ってきたのとは別の亜仁衣のお弁当箱があった。亜仁衣は眉を寄せた。
「お弁当って、キースが届けてくれてたんじゃないの⁉ ……っていうか、なんで、藤井が会社の場所を知ってんのよ」
「それなら、おまえの母ちゃんに聞いた」
「ええ⁉ うちには、キースのこと内緒なのに……!」
「あ~。そういや、母ちゃん、すげえ驚いてたな」
「そういや……じゃないわよ!」
亜仁衣は大きめの声を出した自分に気がついて、両手で口を覆った。周囲を見渡すと、空中庭園のお弁当派社員達は、そのほぼ全員が亜仁衣と藤井に注目している。臨曄、把稚、そして叙鞍も――。亜仁衣は泣きそうになってきた。
「お願いだから……。会社では、他人のフリして」
そう言って、亜仁衣は何事も無かったかのように藤井から離れると、またベンチに座った。しかし、藤井は亜仁衣に近寄ってきた。そして、持ってきたお弁当を亜仁衣のひざの上にポンと置いた。
「安心しろ。今日のは、俺の作った弁当じゃない」
亜仁衣の隣りにいた臨曄と把稚の視線は、藤井と亜仁衣のお弁当との間を何度も行き来した。
「このお弁当箱。亜仁衣のだ……」と臨曄。
「で、目の前にいるのは、藤井貴伊守……の見た目の人?」と把稚。
「「ってことは……」」
臨曄と把稚は、声をそろえて目を見合わせると、
「「芸能人型アンドロイドと一緒に住んでるの!?」」
その声が響き渡ったあと、空中庭園は静寂に包まれた。あまりに静かで、枯葉が吸空口に向かって移動する音が聞こえてくる。
亜仁衣は頭の中が真っ白になった。身動きひとつできない。でも、周りの様子は、いやおうなしに亜仁衣の目に飛び込んできた。怪訝な顔つきの先輩社員や上司、そして叙鞍の視線が。
(うそ……どうしよう……)
そのとき、どこかの女性社員がクスリと一笑した。それが引き金となった。皆ながこらえていた笑いを爆発させた。
空中庭園は爆笑の渦に包まれた。
その笑い声の中、さまざまな中傷が聞こえてくる。
――芸能人型アンドロイド……。一緒に住んでるとか、ヤバイって!
――藤井貴伊守のアンドロイド!? ヤダ、笑えるんだけど。
――ちょっと……、夢見すぎじゃないの?
――ウケるわー。弁当持ってこさせるってお姫様気分?
空中庭園のお弁当派社員達は、お弁当そっちのけで亜仁衣を嘲笑っている。それは、亜仁衣がこの空中庭園で一度も向けられたことのない嘲りの目だ。
目の前で起きているあまりのことに、亜仁衣はそれが夢なのか現実なのかわからなくなってきた。
そして、やみくもにその場を離れようと力なく立ち上がると、膝の上のお弁当箱を落としてしまった。地面にお弁当箱の中身がばらまかれた。その中には、生エビや海ブドウが混じっている。それは、おそらく、キースの作ってくれたアート弁当だ。
周囲はまだ笑い続けている。あまりのことに放心した亜仁衣は、その場を一歩も動けなくなってしまった。
「わ……、笑うな!」
藤井は皆に向けて大声を上げた。
人々は、一瞬、静かになった。でも、また爆笑の渦に戻ってしまった。藤井は続けた。
「笑うな! 俺の何が恥ずかしい。かの藤井貴伊守だぞ!」
近くの人達がドッと笑った。藤井は、今度はその人達に向かって、
「おまえら……。いくらアンドロイドだって笑ってるのだとしても許せねえ」
と、いきり立った。近くにいた男性社員は笑い泣きをして、
「こいつ、何を馬鹿なこと言ってるんだ?」
と腹を抱えたから、藤井は怒りを爆発させた。
「ふざけるな!」
亜仁衣は、「やめて……」とつぶやいた。
でも、亜仁衣の訴えは、いきり立った藤井には聞こえない。藤井は、強引に亜仁衣の肩へ手を回すと「一緒に暮らしてて、何が悪い!」と叫んだ。
周囲は、またドッと笑った。
――藤井は、一体、何を言っているのだろう。いつも、とんでもないことをしでかす。けれど、今度ばかりは許せるレベルじゃない。
ふと、亜仁衣は自分を見つめるひとつの視線に気がついた。
叙鞍だ……。目が合うと、叙鞍は悲しそうな顔をして亜仁衣から目をそむけた。
亜仁衣は自分の肩に置かれた藤井の手に目を向けた。そして、もう一度、叙鞍を見ると、亜仁衣から目をそむけたままだ。
「やめて……」
亜仁衣は、小さくつぶやいた。そして、
「やめて!」
もう一度、大きな声でそう叫ぶと藤井を突き飛ばした。まだ、足の悪い藤井は簡単にバランスを崩して、その場に尻餅をついた。
「いてえ……」
周囲はまたドッと笑った。そのせいで、今までこらえていた臨曄と把パ稚ティも、とうとう笑い出してしまった。今や、空中庭園にいるすべての人々が、亜仁衣と藤井のことをあざ笑っている。
「……ふざけるな!」
藤井のその声は、爆笑の中、誰にも届かない。
「ふざけるな! おまえら……。こいつを……、亜仁衣を笑うんじゃねえ‼」
藤井はブチぎれた。
それから、藤井は最大級のとんでもないことをやらかした。近くにあった植木の枝を折ると、自らの腕を傷付けたのだ……!
藤井の腕から血が流れ出した。
きゃあ……!
どこからともなく悲鳴が上がった。空中庭園は静寂に包まれた。
――血……。
――あの人、アンドロイドじゃない……ってこと!?
その声を聞いて放心していた亜仁衣は、やっと腕から血を流す藤井に気がついた。亜仁衣はハッと息を飲んだ。
――本物の藤井貴伊守!?
――本物!?
皆がささやく。
周囲の藤井を見る目がみるみるうちに変わっていく。
それは良い方向にではなかった。人々は、人の秘密に食いつくハイエナのような目つきをしている。
亜仁衣が、その視線に恐怖を覚えた瞬間、カメラのシャッター音がひとつ鳴り響いた。
――藤井を撮った!?
この時代のカメラは超小型デバイスだ。肉眼では良く見えない。けれどシャッター音だけはする。それに続いて、いくつものシャッター音が鳴り響き始めた。フラッシュをたく人が多くて眩しい。おかげで、まともに前が見られない。
――逃げなきゃ……!
亜仁衣は、藤井の腕を引っ張ると自動階段に向かって逃げた。
「何すんだ!」
「逃げよ……!」
ふたりが空中庭園から姿を消そうとしたそのとき、藤井の目の前にいた男がシャッターを切った。藤井は捨て台詞を吐いた。
「俺の見た目はタダじゃねえ! 勝手に撮るな!」
ふたりは、総合オフィスビルを出るとひた走った。足の悪い藤井は速くは走れない。けれど、何かにかられるように亜仁衣が走るから、藤井のほうもそれにつられた。
普段オフィス街を走る人間などいない。だから、ふたりの姿はよく目立っていた。お昼時だから、ビジネスマン達が出歩いている。
「あれ? 藤井貴伊守?」
そんな声がふたりの通り過ぎたあとから聞こえてくる。
足を引きずりながら走っていた藤井は立ち止まった。
「なんで……、走らなきゃならないんだよ! 誰も追いかけてきてないだろ」
亜仁衣は足を止めて振り返った。確かに誰も追って来てはいない。
「わかんない……。でも、なんか、まずい気がする……!」
「大丈夫だ。あんぐらいのことで何も起きないだろ」
結果、ふたりが亜仁衣の自宅マンションにたどりつくと、エントランス付近は大勢の人でごった返していた。自宅前の監視映像を確認すると、人がひしめき合っている。写真を撮っているのだろう。フラッシュが頻繁に光る。
この分ではマンションに入ることは適わない。遠巻きに様子を見守るしかない。
「大丈夫だ。あんぐらいのことで何も起きないだろ……」
亜仁衣がつぶやいた。それは、藤井がさっき言い放った言葉だ。
「悪かった……。前言撤回する」
そう言って藤井が亜仁衣の肩にポンっと手を置いたから、亜仁衣は身をよじって、それをのけた。そして、エントランスにたかる大勢の人々をまっすぐ見据えた。
「今日、私の人生は死んだ……。でも、藤井の人生も死んだみたいだね」
「かもな。だって、あれ、たぶん……マスコミだからな」
「マス……コミ!?」
『マスコミ』という言葉に、ふたりは我に返った。そして、続きの会話を口にできなくなってしまった。
そのとき、亜仁衣の超小型デバイスに電話が入った。キースからだ。
「キース!? 今、どこにいるの!?」
亜仁衣と藤井のふたりは、キースが用意してくれたというホテルの一室にたどりついた。
キースのほうはというと、亜仁衣の自宅マンションに大勢の人が押し寄せたのに気がついて、すぐ非常口のほうから逃げ出したという。藤井さんの正体が世間に知れた。すぐにそう察して。さすが、キースの頭脳は優秀なアンドロイドAIだ。けれど、ホテルの部屋を用意したという電話が入ったきり、今はまったくの行方知れずだ。
藤井は、ホテルの一室に入るとすぐに空間TVのスイッチを入れた。すると、画面いっぱいに藤井貴伊守の顔が映し出された。
「ひゃあっ!」
思わず亜仁衣は叫んだ。藤井貴伊守が画面いっぱいに映っている理由。それは、ワイドショーが藤井貴伊守について取り扱っているからのようだ。画面テロップには〝藤井貴伊守 スキャンダル!?〟と表記されている。
次に、亜仁衣の自宅マンションらしき場所に、記者が押し寄せている様子が映し出された。マンションとその周辺は、そのほとんどが映像処理でボカされている。でも、住んでいる当人が見れば、すぐに、それが自分達のマンションだとわかる。
画面テロップには、新しく〝藤井貴伊守 アンドロイドの疑い!〟と表示された。
亜仁衣は目をひんむいた。
「やばい……やばいよ……。バレてるじゃん……!」
藤井の顔を見ると、ひきつった顔のまま固まっている。
続いての空間TVは、巷のインタビュー映像に移った。女性の中年会社員が「本物の藤井貴伊守を見た」だの「藤井貴伊守はアンドロイドに違いない」などと話している。顔がボカし処理されているけれど、その人は亜仁衣の勤める総合オフィスビルの空中庭園でよく見かける人に違いなかった。
亜仁衣は脱力した。
「なんで……。なんでなのよ」
「何がだ」
「今まで、誰に笑われても藤井は平気そうな顔してたのに。なんで、あんなことしたの……!」
「こいつだよ」
藤井は空間TV画面を指差した。そこには、インタビューを受けていた中年女性会社員がまだ映っていた。
「あの会社の奴らのおまえへの態度に腹が立った。仲間を笑うような奴らはロクでもない。俺は許せない。それだけだ」
「仲間……。あの空中庭園にいた人達って、ほとんど他の会社の人達だよ。全然知らない人。私と同じ会社の人は、ほんの少ししかいなかった」
「えっ、マジかよ……」
それから、亜仁衣と藤井は、空間TV画面を見つめながら、しばし立ち尽くした。亜仁衣は、何かがこみあげてきた。
「なんで……。なんで、あんな後先考えないこと!」
突然、亜仁衣がキレたから、藤井は、
「腹が立っちまったんだから仕方ないだろ!」
と勢いよくベッドに身を投げると「あーーー!」と叫んで頭をかきむしった。
そこへ、番組MCの気になるコメントが聞こえてきた。
「昔、藤井さんが駆け出しの女優と結婚間近に破局になったという噂があるのですが、その際に女優は引退して、藤井さんも一時、身を隠していたといいます」
(女優――!? 身を隠す――!?)
亜仁衣が背後の藤井を振り返ると、藤井はなぜかバスルームに向かおうとしている。
「待て藤井!」
亜仁衣が呼び止めると、藤井は駆け足でバスルームに入っていった。
すぐにシャワーの音が聞こえてきた。藤井がお風呂に入っている間、空間TVでは映像フィリップによって、藤井と女優とが破局した際の話が詳しく述べられた。女優の名は『仮名N』と語られている。亜仁衣はベッドの上に座った。
(N……? 確か、前に藤井は女優の『乃亜』って人と噂になってたっけ……)
藤井と女優Nは別れさせられたとか――。
女優が事務所の意向で引退させられたとか――。
仕事を失った女優が別れを切り出したとか――。
そんな昔の噂について様々なコメンテーターが語る。でも、結局、誰もその真相は知らないという話だ。
(もしかして……)
そこで、藤井がバスルームから出てきたから、亜仁衣は思うところの疑問をぶつけた。
「破局が理由?」
「え……?」
「アンドロイドと交代したの」
藤井はタオルを頭にかぶったまま、亜仁衣の質問に無言で答えた。押し黙ったまま空間TV画面を見据えている。
続いて、空間TVの画面テロップは〝藤井貴伊守 過去に一時引退の噂〟に切り替わり、婚約していた元女優が一体誰なのかについて語っている。
亜仁衣は、藤井の顔をじっと見つめた。目線に気がついた藤井はため息をついた。
「わかったよ。そう、そうだ。破局が原因! 結婚しようとしたら、相手が事務所に干されてよ。それで都会が嫌になったとかなんとか言って、あいつ姿を消しちゃったんだよ。なんのあいさつもなく。んで、連絡取れなくなって自然消滅」
藤井は、頭にかぶったタオルでガサツに髪をふきながら、亜仁衣の座る隣りのベッドに乱暴に腰を下ろした。
「それで、自暴自棄になって、代わりにアンドロイドに働かせたってわけ?」
亜仁衣の質問に、藤井は一瞬動きを止めた。でも、
「まあ、だいたい、そんなもんだ……」
と言って、また髪をふきだした。
でも、空間TVから、ある女性の声が聞こえてくると、藤井の手はまた止まった。
「貴伊守~元気ぃ~! 私は今、幸せだよ~」
藤井は、頭のタオルをバッとはぐと、目を丸くして空間TVの映像にかじりついた。
映っていたのは、これまた顔にボカしの入った女性だ。その女性の右側には〝藤井貴伊守の元婚約者とされる女性〟とのテロップがある。女性は、インターネットワーク網上で噂になっていた元女優の『乃亜』に雰囲気が良く似ている。
顔のボカされた女性は、インタビューアーのいじわるな質問――「交際のせいで、引退に追い込まれたことについて、どう思いますか?」――に、こう答えた。
「むしろ、芸能界を引退できてよかった。今は、結婚もして幸せだから! 貴伊守ありがとう」
「はぁ!?」
藤井は変な声で反応した。そして、口をあけたまま凄い形相で固まっている。
それから、空間TVの『乃亜』らしき女性は、インタビューアーが聞いていもいないことまでベラベラと話しだした。藤井貴伊守と別れたあと、すぐに結婚したこと。小さな子供が3人いること。それから、最近、高速クルーザーを買ったことまで――。
そこまで聞いた藤井は、さっきまでと打って変わって、明らかに脱力している。
「マジか……。この四年間、何だったんだ……」
そのあとの藤井の様子を見ると、もう空間TVから出ている声は、まったく耳に入っていないかのようだった。藤井は、空間TVの画面を見ているけれど見ていないような、焦点の合っていない目をしている。
亜仁衣は、これまで一度も見たことのない藤井の様子を見て、藤井はこの『乃亜』にかなり執着していたんだと悟った。そして、さっきの藤井の言葉を思い返した。
――この四年間、何だったんだ……。
(もしかして……)
「もしかして藤井……。この元婚約者の人のことを、ずっと探してたとか?」
亜仁衣の問いに藤井は答えない。
「アンドロイドと入れ替わったのも……、まさか、そのためとか⁉」
その問いにも藤井は答えない。藤井は相当ショックを受けているようだ。亜仁衣は、それ以上、何も聞けなくなってしまった。
それから、亜仁衣は、いろんな放送局にチャンネルを合わせた。すると、ほとんどのワイドショーで藤井貴伊守のスキャンダルが扱われていた。そして、どのチャンネルにも、『乃亜』らしき元婚約者のインタビュー映像が出てくる。飽き飽きするほどに、何回も同じ映像を流す。藤井は、それを見るたびに寂しそうな顔をした。そして、あの減らず口の藤井が一切しゃべらなくなってしまった。
それを見ていたら、亜仁衣は、とんでもなく藤井が可哀想になってきた。自分だって、人を心配しているような状況でもないというのに。
そうだ。今の状況とんでもなかったんだ。私だけじゃなくて藤井も。このあと、どうしよう――。
亜仁衣がそう気がつくと、ちょうどキースから電話が入ってきた。連絡内容は、ホテル近くにある河川のどこそこまで来いというものだった。
電話は手短かに切られた。おかげで、そのあとの予定ついては、何ひとつ聞くことができなかった。でも、あの優秀なAIを持つアンドロイドのキースがすることだ。きっと、素晴らしい方法に違いない。亜仁衣はそう思って、ただキースの優秀な頭脳を信じることにした。
とうとう大騒動になってしまいました。
この先、どうなることやら。