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「それにしても、今日は主だった客船の到着は無いと聞いておりましたが」
「ええ、友人は少し変わり者なのですよ。貨物船で愛しの昆虫とハネムーン旅行です。長年昆虫に取り憑かれておりましてね、渡り歩いた国は五十を超えると思います」
「それはまた凄まじいですな」
「彼なら外国の珍しい植物の知識もかなりあると期待できますよ。お時間があれば紹介しますが、いかがです?」
「おお、それは願っても無いこと。是非に」
もちろん男爵はにこやかに頷いた。
そうして引き合わされた男は、なるほど随分と草臥れた出で立ちではあったが、整った顔立ちや知的な眼光、堂々とした立ち振る舞いがその印象を打ち消して育ちの良さを示していた。
常に旅に身を置いていたにしては細身で優男だったが、日に焼けた少年のような溌剌とした笑顔が印象的で、貧弱さよりも旺盛な活力を感じさせる壮年の紳士であった。
「久しぶりだな、ウィリー!」
「君は相変わらずだね。なんでも新種の甲虫を見つけたんだって?」
「ああ、見れば分かるがとても美しいんだ。あとで詳しく説明してやる。ところでそちらは?」
「君に是非紹介しようと思ってね。薬やその原料になる植物を中心に手広くやっているボーダル男爵だ。そして私の妻の父でもある」
「どうも初めまして! ミラン・ヴェルナです。ウィリーとは乗馬を通じて若い頃知り合って以来の友人です」
差し出された手をしっかりと握り返し、男爵も名乗る。
「お目にかかれて光栄です、フィリップ・ボーダルです」
「こちらこそ! それで早速で不躾なのですが、卿はエミー諸島から植物を取り寄せたりはできませんか?」
「エミー諸島ですか、少ないですが取引をしておりますな。詳しいお話をお聞きしましょう、お力になれるかもしれません」
「おお、ウィリーさすが我が友! いい人を紹介してくれた!」
ミラン・ヴェルナは裏表のなさそうな快活で気持ちの良い人物だった。昆虫の飼育に必要な植物を船旅の間に三分の一ほど枯らしてしまったようで、慌てていたところだという。
近々国王の代替わりがあるからと兄に帰国を促されたため、渋々の帰国のようだ。資金を出してくれている兄には逆らえないと苦笑した。
これから何年かは国内で持ち帰った昆虫の飼育と研究を続け、今までの成果を論文にまとめるとのことだ。
ボーダル商会の取引相手としては取るに足らない相手だ。わざわざ娘婿が引き合わせた理由を考える。
ヴェルナ。
その家名に心当たりはあったにはあった。
だが、まさかミランをマリアの相手にということではないだろう。確かに好人物ではあるが、貴族家の当主には向かない。あの家でマリアに似合いの年回りとなれば現当主の次男がいたが、だいぶ前にファレス公爵の分家に当たる伯爵家との婚姻が成立したはずだ。
昆虫の様子が気になるミランとは再会を約束して別れた後、二人は馬車で移動して港町の奥まった高台にある高級店の並ぶ通りに向かった。
そこにはボーダル商会の支店がある。店全体が温室のような作りになっていて、南方から取り寄せた色鮮やかな花々が咲き乱れていた。
最近の売れ筋の花などを話題にしながら裏口から入り、二階の応接室に移動した。
座り心地のよいソファに腰を落ち着けると、まずは葉巻を一服。
しばしの沈黙の後、伯爵はおもむろに口を開いた。
「キース・ヴェルナという名前を聞いたことは?」
その名前はヴェルナ侯爵家の血縁者としてというよりは、あまりにも有名な陛下の寵愛深きイングリット殿下に付随する情報として聞いたことがある。
男爵にとっては、その程度の存在であった。
「確か前侯爵の三男でしたかな」
「ええ。あのミランは次男ですよ。現ヴェルナ侯爵の弟です」
そこで一旦会話が途切れた。
伯爵の狙いがキース・ヴェルナということは分かった。彼が婚約したという話は聞いたことがない。年齢的にも二十代半ばだったはずだ。
血筋は畏れ多い程で、歴史のある家柄の嫡出子、経済的にも特に問題がない。彼がその年齢でも婚約していないというのは、男爵からすると故あってのことというよりも本人の意思のようにも思える。
そもそも、相手の血筋が良すぎるということは、それを理由に一顧だにされない可能性も高い。
「イングリット殿下のご子息とは……さすがに畏れ多い心地がしますな」
男爵は娘婿の意図を探るように表情を窺った。
「意外かもしれませんが、彼は尊き御一族からの寵愛が深い」
「ほう……それは初耳だ」
「私も最近になって確信に至ったばかりの結論ですよ。御一族が婿入り先を密かに探していることは?」
「いや、それも初耳ですな」
「彼本人の才覚は、おおよそ凡人。だからこそ血筋の尊さが仇になってなかなか話がまとまらないのです。ただし、妥協すればないことはない」
貴族同士の婚姻においては妥協できない点と、妥協できる点がある。妥協できない点は、多くの場合政治的な条件であったり、利権であったりと家の存続や繁栄に関するものが多い。対して妥協できる点とは、妥協した場合は結婚する当事者に負担を強いることが多い。つまり、極端に年齢が離れているだとか、悪い噂のある相手だとか、外見や性格に著しい欠点があるとか、そういったことである。その逃げ道として結婚後の愛人が黙認されている側面もある。
キース・ヴェルナの場合、家格、経済力、政治的な立ち位置、それらの条件を満たす婿取りをする家の候補は多くはないが、あるだろう。そもそも、王家からの打診であれば内心渋々であろうとも受け入れざるを得ない。既に婚約者が決まっていたとしても解消すれば良いだけの話だ。状況の変化によって婚約が解消されることは、珍しくもないのだから。
しかし、現実として彼の婿入り先は決まっていない。
権力を背景とした強引な手を使わず、妥協もしない婿入り先を探しているとするならば、なるほど。
「むぅ」
伯爵の言わんとするところに、男爵は思わず唸った。
それはかなり、強欲というものだ。
伯爵の言葉を信じるなら、彼は随分と過保護に守られてきたことになる。
おおっぴらに寵愛を受けているイングリット殿下と違い、彼は社交界でとても影が薄い。期待されていない捨て置かれた存在と世間は見ているが、意図してそのようにしているのであれば彼の身辺が平穏であることに重きを置いているのであろう。
彼自身が平穏に幸せに暮らせる結婚なら、最低条件さえ満たしていればよい、そういう思惑で婿入り先を探しているとしたら?
王家からの打診で凡庸な彼を渋々受け入れ、お飾りのように“丁重に”婿として遇されるような家へはやれない、そう思っているとしたら?
極端な話、家としては跡取り娘の血を引く子であれば良いので、必ずしも婿の種である必要はない。愛人の子を我が子として育てねばならない貴族夫人がいるように、血の繋がらない子を我が子と呼ばねばならないお飾りの婿も十分にあり得る話なのだ。そしてそれは決して公にはならない。何故なら、疑いようもなく別人の胎から生まれる愛人の子とは違い、婿の場合は種の出自がどんなに疑わしくても断定はできないからである。
また、それを原因にした離縁もない。男性にとってはとてつもない不名誉であり、出て行くのは浮気された婿の方であるために何一つ婿側に良いことが無いのである。家と家の約束である以上、体面が保たれる限りは個人的な心情など黙殺されても問題にならないのだ。
だから好条件を求めるのではなく当事者の幸福を優先するというのは、一見欲がないように見えて王族や高位の貴族生まれついたものが持つ望みとしては非常に贅沢だ。
彼のような立場と能力であれば、婚姻政策の駒として問答無用で人生の全てを決められてしまうか、無用な騒動を起こさないよう飼い殺しにされるかどちらかだろう。
個人の幸福は犠牲にしても家を繁栄させる、あるいは国を繁栄させるのが彼らが誕生した瞬間から背負わされている義務だからだ。
もちろん、イングリット殿下のようにあからさまな寵愛があった場合、血筋ゆえに火種になる可能性はそこそこあるだろう。それを嫌ってのことだとも考えられる。殿下と違って、彼は男であり王位継承権を持つ。
だが、その可能性自体は継承権の順位から言っても常識的に考えて低い。国王陛下は有能な方だ、孫同然に可愛がっていたとしても判断を誤るとは思えない。それは王弟殿下もだ。
大問題に発展する可能性がそれほど高くないにも関わらず、これほど神経質に守っている。
あるいは、イングリット殿下の最初の結婚について王家の方々には何かしらの後悔があるのやも知れない。
いずれにせよ、キース・ヴェルナが随分と厳重に箱入り息子にされていることは間違いないだろう。
考え込んだ男爵の様子をしばらく窺っていた伯爵は、徐に身を乗り出した。
「近々彼の王位継承権の順位が格段に上がります。そうなれば自然と彼は注目を集めるようになるでしょうね。そういう理由での縁組を、御一族は望まない。あちらにも我々同様に時間がないのですよ」
そしていつもより低く、囁くような声音で続ける。
「我々は中央の権力になど畏れ多くて興味など持ちようもないですが、血筋の尊さには大変興味がある。そうでしょう、義父上」
義父上などと呼ばれたのは初めてだ。
男爵はニヤリと笑って、娘婿の本気を受け止めた。
「尊き血筋を求め敬い、しかしそれを権力を得るためには利用せず、イングリット殿下の実子を迎えるに十分な経済力と家格がある、か。なるほど、マリアに似合いの御仁だ」
是が非でも、この話をまとめよう。
そのための手がかりは娘婿が用意してくれた。
ここから先は自分の仕事、貴族にまで成り上がった手腕の見せ所だと、男爵は密かに闘志に火をつけた。
需要と供給、その原則に従えば決して難しい“商談”ではない。
「私は表立っては動けません。煩いのが飛び回っていますから」
「いかにも。そこはご友人を紹介して頂いた儂の出番でしょうな」
「そろそろ抑えるのが難しくなりますから、話が整ったらすぐにも次の手を打ちます」
話は終わったと伯爵が席を立ち、男爵もそれに倣った。通りまで見送りに出る。
「ミランは、」
馬車に乗り込む別れ際、思い出したように振り向いて言いかけた言葉を伯爵は飲み込む。わずかばかり逡巡したあと、軽く頭を振った。
「……いや、何でもありません。彼らは古き良き貴族だ」
「心得ておりますとも」
金では動かされない、だからこそマリアに必要なのだ。
最後に再び堅い握手をして、お互いに頷いたのだった。