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登城すると、すぐに謁見の間の控え室に通された。
今朝別れた面々は既に揃っていて、見知らぬ顔は一つだけだった。デルフィーネ伯爵にしてはちょっと年齢が上な気がする。父上と話していたその人は、僕が入室するとすぐに「おお!」とかって芝居じみた仕草で喜びを表現した。
というか、マリア嬢はどこなんだろう。
あからさまにキョロキョロするわけにもいかず、僕はご老人ににこりと友好的な笑みを向けた。
「こちらはマリア嬢の祖父に当たられるボーダル男爵だ」
そう父上に紹介されて、僕は父親の伯爵ではなく祖父がこの場にいることに厄介ごとの気配を感じた。
「フィリップ・ボーダルです。この度は孫娘とのご縁を頂き、老い先短い身には望外の喜びでございます」
「キース・ヴェルナです。こちらこそ良い縁を結ばせて頂きました。誠意を持ってデルフィーナ伯爵家を盛り立て、ご令嬢の良き伴侶として努める所存です」
随分と腰の低い様子で手を差し出すボーダル男爵としっかり握手を交わす。
それでマリア嬢はどこ?
どう切り出して聞こうか笑顔で思案していると背後で扉が開く音がした。
「謁見の間へどうぞ」
侍従の声に、全員で謁見の間に向かう。
うん、それでマリア嬢はどこですか。まさか先に行ってるとかないよね?
「……マリア嬢はデビュー前よ」
そんな僕の心の声を聞きつけたのか、母上がこそっと耳打ちしてくれた。
なるほど、デビュー前のご令嬢には登城資格も陛下への拝謁資格もないね、うん……。
謁見は、僕の存在なんていてもいなくても良い感じでサクサク進んだ。
入り婿するにあったっての条件やら何やらを陛下の側近が読み上げ、ヴェルナ家の家長である兄上と、デルフィーナ伯爵家の代理であるボーダル男爵が署名して婚約が完了。
僕、この場にいる必要あったのかな。片膝をついて頭を下げた姿勢で待機するだけだよ。僕自身の署名さえ必要ないというこの他人事感。
あれ、なんだかすごい視線を感じる。陛下にすごく見つめられている気がする。
「アルマ子爵、前へ」
あ、やっぱり見られてたのか。
僕は頭を上げて側近の指示に従って陛下のお膝元まで近づく。
そこでもう一度片膝をついて頭を下げた。
「面を上げよ」
顔を上げても目は伏せたままでいるのが礼儀なんだけど、なんとなくそうしてはいけない気がして遠慮がちに陛下と目を合わせる。側近が何も言わないので、多分大丈夫。
久しぶりに間近で拝見する陛下は、前にお会いしたときよりも随分と皺が深くなられた。特に眉間の縦皺が。
ご心労の多いお立場だからなあ。
「……良き、か?」
気難しげな顔で小さく問いかける陛下に僕は内心首をかしげる。
ええと、もしかして婚約に異論はないのかと聞いて下さっているのかな?
そう思い至ってちょっと嬉しくなってしまった僕は、思わずにやけてしまった。
陛下はとても尊い威厳のあるお方だけれど、僕にとっては祖父に等しい方だ。
同時に公式には陛下に謁見する栄誉を賜った回数は、今回を入れて三回しかないくらいに遠いお方だ。火種を作らないために、表立って陛下が僕に対して目を掛けていることをお示しになることはない。
だからこんなふうにこの場に立ち会っている人数が少なく、身内が半数以上であるとしても、直接公式の場でお言葉を賜るのは異例のことで。
「良き、でございます。有難くこのご縁を結ばせて頂きます」
両親と兄が認めていて、陛下も許可された縁なのだから、それはきっと僕にとって最良の縁なんだ。その上で僕の気持ちを確認して下さった陛下のお気持ちが嬉しくて、真摯な表情を作るのにとても苦労した。
謁見を終えると、僕は速やかに再び実家に連行された。
うん、知ってた。これからが本番なんだってことは。
どんな面倒な事情があるのか、覚悟して聞かないと。
母上を前にして、僕はちょっと緊張気味に紅茶に手を伸ばした。
一口、二口と飲みながら、芳香に気持ちを落ち着かせる。
僕がカップをソーサーに戻したのを見計らって、母上は口を開いた。
「キース、貴方とデルフィーネ伯爵令嬢との婚約は結婚直前まで秘密にしないとなりません」
「あー、はい。だからデルフィーネ伯爵がいらっしゃらなかったんですね」
「陛下もそれはご承知で、あの場にいたのは陛下自身が特に口が堅いと思し召していらっしゃる方々のみでしたから、一番気を付けねばならないのは貴方です。まったく、あんなに浮かれて……」
ええ!? そんなに分かりやすかったかな、恥ずかしい。
「んんっ、気を付けます」
そういえば、確かに謁見の間に人が少なかった。陛下にまで心配されるってどんな事情なんだ、怖い。
「デルフィーネ伯爵家は先代の時に事業に失敗して莫大な借金を作っているの。それを肩代わりしたのがボーダル男爵よ。その見返りに男爵の娘がデルフィーネ伯爵家に嫁いだの」
そういう理由での縁組は珍しいことじゃない。僕は先を促すように頷いた。
「男爵の娘が嫁いだのが先代の息子、現伯爵のウィリアム・デルフィーネ様ね。先代時代に事業が大失敗した原因は、欲をかきすぎたことかしら。手堅くやっていれば、うちよりずっと裕福で何の問題も無かったはずなの。先代伯爵が、というよりも、その世代の親族が強欲だったみたいね。堅実とは言えない危うい事業に投資したのは、親族の強欲な面々に押し切られた側面もあったらしいわ」
金銭欲かあ。権力欲よりはまだましかなあ、僕の立場からすると。
「借金を作った時の親族の手の平返しは、社交界で失笑を買うほどに見事だったわ。その時のことを忘れて、縁組で借金を作る前より裕福になったデルフィーネ伯爵家に親族は擦り寄ってきたのだけれど。そこは、ねえ?」
うん、嫌ですよね、そんな親族。
「現伯爵には娘一人しか夫人との間に子が出来ず、跡取りにしたのよ。そうなれば、強欲な親族が考えることは一つ」
わかります。乗っ取っちゃえ的な婿の押し売りですね。でも普通は格上から婿をもらうよね。デルフィーネ家の内情だったらかなり条件の良い婿がもらえると思うけど。血筋も実力も良い感じの。
「婿取りで一つ大きな問題になったのがね、男爵は平民から叙爵された成り上がりであることよ。伯爵夫人も元は平民でいらっしゃったの。そのせいで夫人は最低限の社交しかなされないのよ。やはり下に見られることも多いでしょうし。失敗を今か今かと待ち構え、いざ失敗すればそれはもう大喜びで醜聞を広めるのが社交界の一つの側面ですからね。私が伯爵夫人の立場だったらと思うとゾッとしますわ」
うんうん、血なんてみんな同じ赤色なのに、本当に面倒だよなあ。僕は血筋が良すぎて面倒だけど、その反対でも苦労するんだから。
でもそうか、と僕は今日城で挨拶したボーダル男爵の人好きのする笑顔を思い浮かべた。好々爺という感じだったけれど、莫大な借金を肩代わりできるほどの富豪となって叙爵されたのなら侮れない。
あれは営業用の笑顔なのかな。全然分からなかったなあ、さすがだ。
「社交界ではね、デルフィーネ伯爵夫人が元平民ということは伯爵と同世代なら誰もが知っているの。それは丁度ご令嬢の婿になりうるお相手の親の世代なのよ。あと二、三代後なら誰も気にしなかっただろうけれど、婿入り先で自分の息子が義理とはいえ元平民を母として敬わなければいけないというのは、なかなかに許容するのが難しいことなの」
なるほど、と、マリア嬢に婚約者がいなかった事情が分かってきた。基本的に婿取りは上の家格から迎えるものだから、伯爵家であるデルフィーネ家としては同格の伯爵以上から迎えないと面子が立たない。でも、伯爵家以上となると、由緒正しいお家柄というのを誇りにしているのが普通だ。
矜持が高くていけ好かない同期の顔が頭に浮かんだ。エベリス侯爵の三男だけど、婿入り先の婚約者を洗練されてないとか家格が低いとかかなり見下しているんだよね。
婿入り先は子爵家だけど裕福だし、現子爵は優秀な方で陛下の覚えもめでたいのに。僕よりちょっとマシ程度な出来なんだから、随分と恵まれた婿入り先だぞ。
もちろん子爵や婚約者の前ではそつなく振舞っていて、僕らの前だけでの暴言だけど。騎士っていうのは次男三男が多いから、大いに反感を買っていた。
あいつだったら元平民を義母上と呼ぶなんて無理だろう。いや、案外平然と呼んでおいて隠れてって感じかも。あいつ隠してるけどお金大好きだから。
「貴方なら、大丈夫でしょう? 何しろ跡取り娘に婿入りしない限り自分の子供が平民になると知った時、あんなことを言ったくらいですし」
「え?」
「覚えていない?」
僕は懸命に記憶を探るけど、全然思い当たる節がない。というか、それを知ったのが何時だったのかすら覚えていない。
「あー……はい、覚えていません」
母上は呆れた様子でパタンと扇子を閉じ、ため息交じりに苦笑した
「私は未だに鮮明に思い出せるというのに。ねえ、ロウィー?」
「そうでございますね、なかなかに驚かされるご発言でございました」
うっ、これ恥ずかしい過去が暴かれる感じの流れだ。
僕は二人から目をそらして紅茶に手を伸ばした。
うん、爺やの淹れた紅茶は冷めても美味しいな!
「確か十歳だったわね。貴方言ったのよ。それなら僕のお嫁さんは平民の方が良いですね。だって両親とも貴族だったら我が子に平民の生き方を教えられません、それとも僕も今から平民になる修行をした方が良いのでしょうかって」
「うわあ……」
思わず呻いちゃったよ。確かに言った気がする。それで色々やらかしたのも思い出した。
貴族としての誇りや、領民に対する責任をきちんと教えてくれていた両親には誠に申し訳ない。少なくともそんなあっさり受け入れるなよとあの時の僕に言いたい。
「教育を間違えたかしらって、あの当時は悩んだわ」
可笑しそうに母上は僕を眺めているけれど、笑い話にしてくれたその寛大さに僕は感謝せねばならない。
王家の娘として溺愛された母上だけれど、その分厳しく躾けられて自らに課すことがとても多い。そのことを、息子として身近で見てきた僕は知っている。なのに息子がこんなで本当にごめんなさい。
「でも……そうね、貴方の言葉で少しだけ私の意識が変わったわ。ぼんやりで頼りないけれど、それでも貴方は私の自慢の息子よ」
あれ? 今僕、母上に褒められた?
いや、きっと幻聴だ。母上の採点はとても厳しいんだ、最高でも及第点しかもらった事がないんだぞ。
「貴方は予想外に授かった子で、望んで作った子ではないわ。でもそれは、喜びのある驚きだった。母になる喜びを諦めていた私に訪れた奇跡なの。様々な柵に縛られてはいても、貴方の幸せが母としての私の望みよ」
思いがけない母上の言葉に、僕は胸が苦しくなった。ちゃんと母上に愛されていることは感じていたけれど、こうして言葉にされると不覚にも目が潤んでしまう。いつも厳しい母上だから、余計なのだろうか。
それと同時に寂寥感を覚えたのは、それが巣立つ僕に対する激励なんじゃないかなって気付いたから。
「だからこそ、この婚約は結婚まで隠し通さないといけないわ」
……あれ? 急に話が分からなくなったぞ?
「駄目ねえ、察しなさいな、これくらい」
「す、すみません」
困惑が顔に出てしまった僕に、早速駄目出しがくる。
いやでも、本気で分からない。
結婚まで婚約を隠し通すことが幸せに通じるってどういうこと?
普通は婚約したら賑々しくお祝いなんかして、お披露目するよね?
しばらく考えを巡らせたけど分からない。
沈黙が辛いです、母上解説をお願いします!
僕の無言の訴えが通じたのか、母上はポンと一つ閉じた扇子で手を打って僕を咎めるように睨んだ。
察しが悪い息子でごめんなさい。
「血筋を気にしないなんていう家は伯爵家以上の家柄でも少ないけれどあるのよ。そういう家にとってはとても魅力的な婿入り先ね。
だからデルフィーネの一族から婿は選ぶと盛んに広めていた人たちがいたの。半分に薄まったデルフィーネの血を濃くするために、という理由をつけてね。
もちろん伯爵はご息女の婚約者を一族からは選ばないわ。けれど、はっきりと拒絶もできないのよ。それをしたら、強引な手に出かねないから」
あー。それかあ。既成事実は噂だけでも女性にとっては致命的だから。
確かにマリア嬢の状況からすると、察して当然ぐらいの危険性だった。
うわあ、恥ずかしいな、もう。
親族だと出入り自由とまではいかないだろうけれど、交流自体は避けることができない部分もある。当主と血の繋がった兄弟姉妹や、叔父叔母といった近親者は元々がデルフィーネ家で生まれ育ったわけだし、使用人との繋がりもあるだろう。
身近な使用人に裏切られる可能性をいつでも考慮しなければならないとしたら、気が休まらないだろうな。
「平民の血を薄めて誇り高きデルフィーネの血筋を取り戻すという親族たちの主張はね、王族の血を濃く引く貴方を拒絶できないわ。一族の誇り云々も、王族の血を入れる誉れには一蹴されてしまうものだもの」
そうか、僕の無駄に良い血筋が役に立つのか。
同じ血筋を利用することでも、野心がらみじゃなければ誇らしい気分になる。
思ってもみなかったことに僕の気持ちは高揚した。
我ながら単純だなあ。
「貴方は顔に出やすいから心配なのよ」
今は身内の母上と爺やしかいないからですよ!
僕は内心で言い訳しつつ、慌てて顔を引き締めた。
声に出したら、その油断が命取りだと説教されることは分かっています、はい。
「デビューが済めば成人と見なされてすぐにも結婚できるわ。だから親族たちが動き出す前に、デビュー直後に結婚するのよ。それまでは強引な手に出ないようにこの婚約は決してデルフィーネの親族には知られてはならないの」
まだ会ってはいないけれど、すでにマリア嬢は僕の婚約者だ。
自分の婚約者を守ることは、男として何をおいても遂行すべきことだ、うん。
マリア嬢を守る騎士として、僕は堅く口を閉ざすぞ!
そして欲にまみれた親族連中から姫を颯爽と救い出すんだ。
姫を救い出すのは僕じゃなくて、僕の血筋だけどね!
……ああ、やっぱり結構浮かれているな、僕。
しっかりしろ、マリア嬢にとっては一生に関わる大問題だ。彼女の置かれた立場の辛さを考えたら、僕なんか吹けば飛ぶようなお気楽野郎だ。不謹慎にも何をワクワクしているんだよ、自重しろ。
「私たちができるお膳立てはそこまでよ。その先は、貴方達二人次第。それを忘れないようにね」
釘を刺すように母上に言われた言葉に、僕は神妙に頷いた。