謁見の間にて
…昨日の既視感。
いつもより早く起きたせいで、今朝はとても長かった。するとそればかりが思い出された。
考えるたびに胸が苦しくなるが、昨日のようなクレアへの恨みは起こらない。
あの記憶の正体はわかっている。
六歳。つまりクレアが産まれた後。クレアは昨日座っていた木陰にいた。そういえば侍女もそこに居た。
お母様が草に寝そべり、汚くなると言うと、今日はいいのだと笑った。私も隣で寝そべった。
お父様もそれを許し、笑っていた。
あれは、きっと───私の誕生日。
自分の姿も知らず、派閥が分かれる前の時期。
最期を知った今、あの光景は世界一平和な、幸せな王族の鏡だと思う。
私の部屋から謁見の間までは、昨日の道のりの半分くらいとまあまあ遠い。
しかし少し早く出てスキップをしながら進むと、ドレスに合わせたヒールでも不思議と足は痛くならない。
「ご機嫌がよろしゅうございますね、ルシ王女様」
歩く途中で声をかけられた。女官長だ。
感じが悪いから好きではないが、厳しい人なだけで悪い人ではないとも噂されている。
既に何人もすれ違ったが、彼女だけが声をかけてきた。元々が早い出だから少し世間話をしようかと、立ち止まる。
「ええ、お母様とお父様に会えるんですもの」
「本当にそれだけですか?」
女官長だけに限らない。この国の人達はなぜかとても勘がいい。今までは何も言わなかったが、誤魔化すのは白々しい行動ではなかったかと、死界で後悔した。
《正直に話そうか》
それがいい。そうしよう。
「お母様達には内緒ね?…実は昨日、とても怖い夢を見たのよ。だから」
人差し指を立てて、小声で話す。
あの走馬灯が、実は夢の中の出来事だったと解釈してしまえば、あながち嘘でもない。
まあ走りながら夢を見れるなどと、そんなはずもないのだが。
そんな簡単な考えを巡らせていると、女官長が興味津々に顔を伺う。
「それはちなみにどんな内容の…?」
何を話そうかと迷っていると、レイチェルが私にだけ見えるように手で制し、前へ出て、一礼した。
「おはようございます。女官長様」
「おはよう、レイチェル。…一介の世話係がルシ王女様の最高侍女とは出世したものね」
「お褒め頂き、ありがとうございます。女官長様について回っていた頃が懐かしいです」
レイチェルは大人しく笑う。
そういえばいつか、自分の恩師は女官長なのだと自慢していたのを思い出した。
《女官長を味方にできないだろうか》
そんな考えが突然に浮かんだ。
いい事は連鎖するのかもしれない。
「ルシ王女様、そろそろ行かないと遅れてしまうかもしれませんよ?」
レイチェルが言う。
「そうね、早く行きましょう。では女官長、またね」
「それでは、ルシ王女様」
手を振ると女官長が優雅に一礼するのが見える。
私もいつか、あんな優雅なお辞儀ができはしないだろうかと思いつつ、早歩きで進む。
その後ろで女官長は少し笑った。
そして見えない所で周りに増えていた女官や執事を散らす。彼らは少し驚いて見せるが、女官長はさすがだと囁きを残して去る。
女官長は持ち場を順に周り、まず昼食と夕食の指示を出した。
謁見の間には既に、女官と執事が何人か集まっていた。
普段はもう私より早くに来ているクレアよりも、先に来れたのが嬉しかった。
待っている時間が待ち遠しくて、でも楽しくて、レイチェルと話していた。
するとクレアが来た。
水色のドレスに青いカチューシャ。金髪のカールの少しかかった髪は肩で降ろされている。
最後に見た八歳とは思えない落ち着きは、七歳から持っていたとわかった。
自分のピンクのドレスに、銀のティアラの姿が、少し恥ずかしく思えだが、ストレートの黒髪は、お母様似で気に入っている。
そんな事を思っていると、ドアが開いた。
周りの女官や執事の動きから、お母様とお父様が来たと悟り姿勢を正す。
ゆっくりとした足音と共に、重厚な雰囲気が漂う。
二人が横を通る。
それだけでも安心できた。二人の子供で良かったと思えた。
その後を侍女と執事、計十六名が付いて行く。
侍女や執事は全員が優秀で、しっかりしている。
そんな彼らを、お母様達はまとめ上げるのだ。
国民達からも、他国の者達からもその姿は尊敬の射だ。
二人が正面の席に座る。
お母様の手招きに合わせ、私とクレアが前に出る。
私が先に頭を下げ、挨拶を始める。
お辞儀はマリアンヌ先生のおかげで、見違えるように成長したはずだ。
何よりその様子を見て欲しい。
「おはようございます。お父様、お母様。本日もご機嫌麗しゅう…」
「肩苦しい挨拶はいいわ」
顔を上げた私は、驚きが残っているのだろう。
そんな姿を知ってか知らずか、今度はクレアが前に出てお辞儀をする。
「おはようございましゅ。お父しゃま、お母しゃま。本日も、ご機嫌麗しゅう…。」
満面の笑顔でクレアはしきたりから外れ、お父様とお母様の方へ走る。そして、お父様とお母様に飛びつく。
「クレアは…、私は上手に挨拶できていましたか?」
「ええとっても」
「クレアは可愛いな」
そう言って、お父様はクレアを抱きかかえる。
私があの頃にはもうクレアが居て、私は姉として厳しくされたのに…。
めまいがした。いや駄目だ。こんな事では。
《ならば、私はお母様の方へ》
[羨ましい?なぜ?]
小走りでお母様とお父様の方へ進む。
割れた思考をひとまとめに戻す。
そして椅子の前で足を止める。
「私はどうでしたか?」
「お辞儀が…。そうねもう少し。…でもいいわ」
素っ気なくされるのが嫌と思った。
もっと話していたかった。
「教えてください。私、頑張っているのです。礼儀作法も頑張っているのです。できない所は直して、お母様やお父様のようになりたいのです」
嘘じゃない。完全に本心だった。
それをお父様は少し笑ってかわす。
お母様は少し困ったように続ける。
「そう?正直に言うと、スカートを広げすぎ。そして首と背中が一直線じゃないから美しくないわ。あと、膝を曲げすぎ。一番駄目なのは声ね。地声すぎだわ。…覚えきれたかしら。でもやりきらないと駄目ね。他国へ行ったら失礼にあたるわよ?」
「は、はい」
自信がなかったが、来週までに頑張るつもりだ。
《来週…?なぜ?》
〔私だって頑張ってるのに。褒めてよ、お母様〕
[勉強をしなかったから?でもこんな仕打ちって]
【わがままな王女…。私なんて大っ嫌いだ】
私は本能で、クレアと私の差について以外の事を考えたがった。
そしてあっさりと見つけた。
一昨年までは毎日だったこの時間だが、戦争前にそんなに時間は取れない。だからこそ、練習時間が増えたと思えばなんとか納得できる。
時間が経てば経つほど、長く思えて、声が重なる。
自分の心が意識を嗤う。
「私、礼儀作法のお勉強で褒められたの」
「おークレア、それはすごいなぁ」
痛み出した胸を抑え、作り笑顔を見せる。
でも遅い。
その笑顔までもが引き攣るのを感じた。
「おはよう、ルシ。最近勉強を頑張っているようだね、アーモンドから聞いたよ」
お父様の声が意識を戻した。
「はい、お父様。特に歴史を頑張っています!礼儀作法のお勉強も頑張っているんです!」
「そうか」
あれ?
《そっけない》
それだけ?
私は駄目なの?
やっぱりクレアなの?
変なところに意識が行きそうだった。
ルシ第一王女としての人生に、戻るべきではなかったのかもしれない。
諦めが芽生えた。
何も知らないからこそ、生きられたのかもしれない。
《これを絶望というのか。》
冷め切った心が、冷めたフリをする心が、呟く。
意識を避難するように。
何分経っただろうか。
避難していた心が平常心を装い、あたりを見る。
長く思えた時間は実はとても短かったようで、お母様がクレアと一言話し、お父様がクレアの頭を二回撫でたところだった。
笑顔を作り直し、貼り付けるというならない作業に挑戦してみる。
「そうそう、ルシ」
「はい、お母様」
「いい話だよ」
お父様も話に加わる。
二人の変わり様に、怪しさを見つけた。
なんだろう。
きっと私は好奇心の目をしているのだろう。
作り笑顔は苦手だと気付いた。
なんとでもなれ。心で唱え、聞く。
「なんですか?」
「お見合いだ」
「……」
「おみあい?」
驚きに固まった私に代わり、クレアが聞き返す。
「そうだ」
頭を疑問詞が埋めつくす。
お見合いなんて聞いていないっ。
十三歳になってもなかったのに!
《お母様やお父様と離れるの?》
そんな。そんなのって。
「嫌なら言ってくれ」
「お断りします!ルシは、嫌です。絶対に」
「まあまあ」
大声を出したせいだろうか。
お父様もお母様も驚いている。
「ルシ、まあそう言わず…な?」
だって嫌だもん。
これをわがままというのなら、納得がいく。
それからわがまま王女と言われても構わない。
本当にそのくらい、お父様とお母様と離れるのは嫌だ。
「国の為と思って」
政略結婚ですか。
ああ、はい。なら答えは決まっています。
お二人は恋愛結婚でしょう?
これは酷くはないですか?
「お嫁に行くのは嫌です」
「大人になれば、気が変わるものよ。それとルシ。これはもう決定事項なのよ」
「さっきは嫌なら言えばいいと、いったいらっしゃしましたよね」
「ええ。嫌なら言ってもいいわ。でもお見合いはして頂戴」
これは屁理屈だと思う。
お母様は続ける。
「ダンスパーティーなのよ、お見合いとはいえそこまで固くはないの。まだルシはパーティーに出席した事がないでしょう、練習と思えばいいわ」
「……」
「名簿はおって送るからちゃんと全員分覚えるように。わかったかい、ルシ?」
「………はい…」
「クレアも出席するようにね」
「はいっ!」
難しい問題ですね。だって私には無理だもの。
それにしてもクレアは自信満々ね。
少し心が緩んだ気がした。
そして思った。
《過去に戻って別のことをすれば、たとえそれが些細な事でも、未来の結果は変わってくるのだと》
お母様は私の表情を読み取ったようだ。
「そんなに驚かなくても。来年の十二月の予定だから、まあダンスくらいは覚えておきなさい」
なるほど。
それなら私には関係のない事だ。
だって私が死ぬのは九月で、ダンスパーティには行けないようだから。