勉強は辛いです
人生が巻き戻って三日目の朝。
死界のあのひとに、不満がある。
《なんで一年しか戻ってないんだ》
と、怒りたい。
しかしそんな事の為だけに、今回の巻き戻りを棒に振るつもりもない。
十二歳にしてようやく、レイチェルという味方を付けた。ほんの少しの安堵と、死亡日を知った事による心の余裕ができた今、私は勉強をしなければいけない。
私が今どんなに足掻こうと、原因不明の死が訪れるまではたった一年。
知らない事だらけで、死因不明の今世で私が生き残れる確率は考えるまでもなく低い。
念のため言おうか。
死因不明なのは、王族は解剖してはいけないとかいう、余計な配慮のせいなのだ。
……そんな怒りは置いておこう。
怒ったところであのひとには伝わらない訳だし。
そういうわけで残された時間を有効に使う為に、私は勉強と敵仲間の区別に使う予定となった。
《全てを克服する》
恐らく、今世だけでは不可能だから。
「おはようございます、ルシ王女様」
ようやく気付いたのだけど、レイチェルのよく通る声だこと。
布団からそっと顔を出して話す。
「おはよう、レイチェル」
「早く起きてくださいね。今日はアーモンド先生がいらっしゃいますよ」
「わかったわ。そうそう、朝のお菓子を増やして頂戴」
「わかりましたよ」
レイチェルは笑う。
相変わらず勉強三昧。そうは言っても、クレアや他の令嬢達はこれが毎日なのだろうけど、慣れない辛さは彼女達にはわからないだろう。お菓子は増やしてもらわなければ、とてもやる気など起こらない。
《これ以上お菓子を増やすのは、多いよ。これが原因で死んだのだし》
一理ある。しかし私の生き甲斐を取り上げられたくなどないのだ。断じて。
そして予想が正しければ、私がここでどんなにお菓子を食べていようと死因は変わらない。
お母様に会うまであと四日。
なんと褒めてもらえるのだろうか。とても楽しみでたまらない。
「お目覚めですか?ルシ王女様」
巻き戻り四日目の朝が始まったようだ。
さきおととい、おととい、昨日と勉強ばかりして、そろそろ疲れが出てきた。
「お菓子を頂戴」
「朝一番にというのは、いただけませんね」
「そんな事言わないで。疲れてるのよ」
私の人生で、お菓子はやはり大事なのだ。
いつか自身で作ってみようか、とも思った事がある。
まあ王族以前に、貴族さえもあり得ないのだから、考える事も無駄だと言えば終わってしまうが。
『お菓子の食べ過ぎで、民の信頼を失った王女』
本にしたら、面白い題名と笑われそうだ。
これが私の一年後。
そして将来は全然違う。
『みんなから慕われる、聡い王女』
お母様のような。お父様のような。
誰からも期待される、あのひとのような性格の王女。
ずっと理想で終わるかもしれない。
だがなんとかなるのではないだろうか。
約束を守ってもらえるならまだ、巻き戻る機会があるのだから。
「おはようございますっ。ルシ王女様」
ベッドから出て、差し出された上着を羽織る。
「…さてと。今日は?」
「今日はアーモンド先生…だけですね」
レイチェルは少し考えて言う。
どうしようか、気になる。
「何かあるの?」
「いいえ、特に。ただ勉強だけでいいものかと」
意味がわからなかった。
勉強さえできていれば、クレアに勝てるはずなのだ。
お母様は喜んでくれるだろう。
期待に胸を膨らませると、落ち着いて朝が終わり、アーモンド先生の授業も終わり、いつの間にか五日目が過ぎていた。
「おはようございまーす!ルシ王女様っ」
「はぁあ、おはよう。レイチェル」
レイチェルはいつも元気だ。
少し羨ましいと思ってしまう。
「レイチェル、お菓子を頂戴?」
「それは仕度が終わって、朝ごはんを食べて、お勉強が終わってからですよ」
「レイチェル、それはあんまり意地悪だわ」
むすっとすると、レイチェルは慌てる。
「そうですね。朝ごはんに一緒にお出しします」
「よかったわ」
そうなのだ。
私のわがままはまだ治っていない。
気付けば自制をするような要領で、随分と治ってきてはいる。と思う。
しかしまだ後遺症のような、癖のような、私の根本を形作るものは治らない。
「今日の予定は?」
「アーモンド先生はいらっしゃいませんが、朝にはマリアンヌ先生がいらっしゃいますよ」
「朝だけ?」
「ええ。アーモンド先生は他にお仕事がありますので。ですが何故?」
そうだった、すっかり忘れていた。
アーモンド先生は毎週この日は来ない。
ご、ごまかそう。否、そんなにやましい事でもない。まあいいわよ、考えるのは面倒だし。
「いいえ、なんとなく忘れていたの。時間が経つのが早いような気がして」
「そうですね」
「午後は自由なの?」
「そうなりますがルシ王女様。どうかなさいましたか?」
「する事がないと思ったのよ」
勉強三昧の日々がもう五日も過ぎた。
それこそあっという間に。
「なるほど」
レイチェルがふと思い付いたように手を叩く。
「中庭にお散歩をしに行きましょうよ、ルシ王女様!」
「お、お散歩?」
レイチェルは満面の笑みで「はいっ!」と答えたが、私はその調子について行けず、遅れたように頷いた。
本心ではないが、まあ久々に走り回りたくもなっていた頃だ。
「…勉強三昧は午後はお休み…」
「その前に、礼儀作法のお勉強ですよ?ルシ王女様」
声が漏れていたようだ。
顔を隠すように頷く。
そこからの時間は今まで以上に早かった。
アーモンド先生のお勉強と違い、マリアンヌ先生に指摘されて動く礼儀作法の勉強は、眠くはならない。
どちらかといえば、肩や足が痛くなる。
何故なら、指先までもの神経を意図して動かす。…らしい。
肩が痛いのをレイチェルに言うと、そう返ってきた。
レイチェルが勉強部屋へ迎えに来て、マリアンヌ先生は時間が終わった事を知る。
そして王宮を発つ。
これが日々。今までもそう。
しかし今日は少しだけ違う。私のなかなか出向く事のない、 “ 庭 ” へ行くのだ。
いわば探検。
ドレスを丈の短い、ワンピースに着替え、金でできた髪飾りを髪を縛った所から外す。
「さてと。中庭に行きましょうか」
ひと通りの仕事を終えたレイチェルが、木でできたカゴを持って私の部屋へ来る。
「本は持って行きますか?」
「本っ!勉強もつまらないのに、とてもじゃないわ。退屈しちゃうわよ」
「駄目ですよ。ほら、お菓子もありますし」
「うーーん…、なんの本?」
「物語です」
「なら持って行きましょう」
「では出発です」
部屋を出て、大広間へ。
そこを外へ出て別館…。
気付くのが遅かったが、中庭は遠かったようだ。
足が痛くなってきた頃、ようやく中庭が見えた。
どうやら別館に着いたようだ。
「もう少しですね」
「うん。でも足が痛いわ」
「頑張ってください、ルシ王女様」
ドアを開くと、中庭が見える。
《綺麗な空気》
第一印象。
「丘の上まで競争ね!」
レイチェルと私はワンピースで走る。
そう、まるで姉妹みたいに。不思議な感覚だった。
私とクレアはこんな事をした事があっただろうか。
そして私は気付く。胸の虚しさと頭の記憶に。
《───既視…感?》
草の匂い。
お母様の横顔。
お父様の笑い声。
暖かい陽の光。
走馬灯にも思えたそれは、幻のように鮮明で、五感が働く。
これは確か私がまだ六歳くらいの思い出。今まで全然思い出せなかった。思い出そうともしなかった。
「はっ」
息がつまる。足が痛い、胸が苦しい。
どうしよう、私はなんて酷いんだ。
《クレアに死んで欲しい》
この気持ちは嘘じゃない。
否定しようとも思えない。
あんまり懐かしすぎた。
どうしよう。今となってはクレアの物となったそれが…。諦めもある。
だけど昔のように笑いかけて欲しかった。
《クレアにでなく私に。》
そう考えてしまったらもう、自分でも止められないくらいに、クレアを恨めしく思ってしまった。
「ルシ王女様ー!はやくきてくだーい」
糸が、ぷつっと切れた気がした。
今までが耳鳴りだったように思えた。
胸だけが痛い。お母様に会いたかった。
安らぎを求める子供のように。ただただ単純に。
懸命に大人だと息を吸い続けた自分が馬鹿に思えた。
居心地の悪い考えを振り落とすように、大きく深呼吸した。
「大人との競争は無理だったんだわ」
私は笑っていたようだ。そして、私はむすっとして疲れた足をまた走らせ、丘の上で息切れをしているレイチェルに声をかける。
「お疲れ様」
「いいえ、大丈夫です。ルシ王女様こそ、無理はしないでくださいね」
「わかってるわよ」
木陰に座って二人で笑って、持ってきた本を少し読んで、大量のお菓子を食べた。楽しい時はすぐだと言うけど本当だとお菓子を食べていて思った。
「本を読んでいる時食べた、チョコレートクッキーが一番美味しかったわ」
「ふふふ、良かったです。私が焼いたので」
「レイチェル、すごいわ!」
帰り道はこんな話題で盛り上がった。するとあの道のりが異様に短く思えて、不思議だった。
こうして六日目は精神・肉体共に疲れて、終わった。
もうすぐお母様に会えると思うと、胸の苦しさも楽になって、ゆっくり寝むれた。
「ご機嫌いかがですか?ルシ王女様!」
寝坊するわけがない。
にやつきを抑え、布団から出る。
「今日はお母様に会えるんだわ!」
「ええ、ルシ王女様っ!ついにですね」
「とっても嬉しい」
「そのようですね。…ですがルシ王女様。なぜそんなに嬉しいのですか?今まで、こんなに期待していた所は見たことがないです」
「そ、そう?」
どうはぐらかそう。
謁見は毎週の出来事だから、今までは慣れてきていたが、それでも貴重な時間だった。
だが死んでからの再会や、昨日の胸騒ぎからの精神状態では格別なものになるのは当たり前の事だろう。
とはいえ、それらを話せるはずもない。するとどうするか。
……そうだ!色々伏せて素直に話そう。
「成長を見てもらいたかったのよ。ほら、こんなに勉強したのは初めてじゃない?」
「たしかにそうですね。では今日は思いっきり着飾りましょうか」
「ええ!そうして頂戴!」
とても乗り気だった。
お辞儀もまあまあ出来るようになった。
髪を結ってもらう間、鏡の奥の少女から笑いが止まらなかった。