ダンスレッスン、出なくてはだめですか?
知っている状況と同じ事をすることで、殻を被るような。得体の知れない───もう知れているけど───恐怖心から守ってくれるような、淡い期待を込めていた。
《あまんじて受けよう》
と、口では言うけれど、そんな勇気は持ち合わせていない。そんなような前回の巻き戻り。そして今回の巻き戻り。
私は弱いのかもしれない。だけど何をしたって、短い日数では変わらないのだ。お母様もお父様も、また愛してくれる事はない。
それなら、無理にでも気づかないフリをする方がずっとずっと、気が楽になるはずだ。
巻き戻り二回目の二十七日目。
写し書はまあまあ順調に進んでいる。レイチェルのおかげで。
書き出されたのは現在五冊目の中盤まで。
ルシが読み切っているのは九冊目の前半まで。私は未だに大きな遅れをとり続けている。
《なのに!今日はダンスレッスンもある!》
前は行けなかったけど、今回は行かなくちゃいけないのだと思うと、ますます気が重くなる。
けれど机に置かれた紙が私に証拠を見せる。
「はあー」
「ルシ王女様、早めに参りましょう。ダンスの練習は今日からなのですから、ご挨拶もしなければっ」
なんというか、私よりレイチェルの方が忙しそうに慌てている。悪い気はしないのだけど。
「はあー」
やっぱり、気が重い。
「ルシ王女様っ!」
とレイチェルは引っ張るように声をかけ、長い長い廊下を先導して歩いていく。
長い長い廊下は、重い体から重い足へと変化させて、嫌な気分にさせる。
「ルシ王女様、足元にお気をつけてください」
出入り口の扉を開け、外からレイチェルが声をかける。
《まさかダンスの練習って、別館なの?》
音楽をかけるのだから、うるさくなる。
考えてみれば当たり前なのだが、ますます嫌な要因だ。
そういえば、嫌だ嫌だと思っているが、元より辞めるつもりはないのだ。
「めんどう…はぁ、まあ」
仕方なく、右足を外へ出した。
無言で歩くのは悲しいとでも思ったのだろう。
ルシもそんな事を考え始めた頃、寒くはありませんか?、暑くはありませんか?とレイチェルが聞いてくるので、
「そうでもないわ。だけど秋の始めとはいえ、いつまでも外に居たくはないかな」
と返した。
するとすぐに別館が見えてきた。
「あといくつ先?」
「えっ?ああ、ここですよ」
「ここなの?隣じゃない」
「そうですよ?」
レイチェルは突然に、可笑しそうに笑った。
レイチェルの案内した部屋には、既に別の人が居た。大人と、クレア。
部屋の入り口で足元がふらつき、レイチェルが咄嗟に支える。
《聞いてないわよ、お母様!お父様!前の私!》
悪態をついても意味なんてない。あの大人だって、家庭教師。クレアと比べられないようにしないと。
しかし早速、あの大人と目が合ってしまった。不安そうに、不審そうにしている。
《動じない、動じない…》
そう、まずは笑顔でご挨拶。
「ご機嫌よう、えっと……?」
「お初にお目にかかります、ルシ第一王女様。ベオネッタ・デイレコットと申します」
「どうぞよろしく、デイレコット先生」
デイレコット先生はまた一礼をした。
クレアとも目が合ったが、視線を外された。するとクレアはデイレコット先生に微笑み、デイレコット先生の方も微笑み返した。
ルシはあたふたとレイチェルを見ると、目を見開いていたレイチェルが微笑み、視線に気づいたデイレコット先生はルシにも微笑んだ。
無言の時間。音楽さえない。
だけどなに?デイレコット先生は、もうクレア一派についているの?
その方がデイレコット先生にはメリットがある。いや、そうでない方が不自然かもしれない。
そうすると、本当に女官長やレイチェルは大切な存在なのだと思った。
睨むような怯えるような視線をしていたルシは、デイレコット先生と目が合って、例の笑いを見せた。
またぎこちなくなってはいないよね。
心の中でそうでない事を願い、ダンスの練習が始まる。
「まずは基礎です」
「キソ?なんのですか?」
「クレア、だめよ」
優しく首を振る。
「平気ですよ、ルシ王女様。クレア王女様、ダンスにおける基礎とは、ダンスの練習を出来る体を……」
ここでも差があるのよね。
そう。
まあ、クレアの一派なら…
と意識の変わっていく精神を、勉強に置き留めて、それからの練習に集中した。
他の内容はよく考えずに、ただ集中していた。
そして丸一日のダンスの練習は終わったのだった。
翌日。
「おはよう、レイチェル」
「わっ!おはようございます、ルシ王女様。早いですね」
「うん。昨日は、よく眠れなくて」
「そうですか…。昨日のは、とても驚きましたよね」
レイチェルは心配そうに、ずっと顔を下に向けて話している。
でもそうだ。たしかに昨日の事は、驚く話だった。全然聞いていない。あの後レイチェルにも確認したが、やはり知らなかったそうだ。
「ええ。でもあんまり考えてはいられないわ」
と、また始まった動悸のようなものを、手を当てて抑えた。
「さて、今はどこまで書き終わってるの?」
なんとか笑って、レイチェルの後ろに積み上がった本を顎で示した。
「五冊目の中盤です。昨日とほとんど変わっていませんが」
「私もよ!」
ルシが本を手に取ると、レイチェルは机に座って、五冊目を開き、写し書の作業へ入ろうとする。
「ほら、あと少し!」
「では頑張りましょう」
本を取ると、お腹に痛みが走った。その代わり、動悸は収まったようだ。その痛みには顔を歪めたが、なんとかレイチェルを心配させずに済んだ。
そして本を読む、と痛みは意識の外へと出て行き、落ち着いてきた。
《最後の一冊!》
その期待に心が踊っていた事も、痛みの緩和に影響しているかもしれない。
「ルシ王女様、もうそろそろ」
まだまだ序盤の内に、レイチェルが呼びかけてきた。
「うん…」
「もう。…………ルシ王女様っ!」
上の空で返事をしていると、次にレイチェルの声が降ってきたときは、既に着替えの準備までしていた。
「わあっ!レイチェルっ!」
「アーモンド先生の授業のある日ですよ?」
「そっか、今日はアーモンド先生ね……あっ!予習してないっ!」
「あら、それは大変ですね。でも今からやる時間はありませんから、これまでのおさらいをしたらどうでしょう」
「レイチェル…」
「はい?」
「それ、とてもいい名案ね!」
「ふふふっ。さて、急いでください。遅れはしませんが、早くは着けませんよ」
「そうなったら、大変だわっ」
そして色々支度をして、アーモンド先生の居る部屋へ行く。少し急ぎ足で。
着いた!
「御機嫌よう、ロイ・アーモンド先生」
「おはようございます。ルシ王女」
「アーモンド先生。あの、今日はおさらいにしませんか?」
予習はせずとも、復習の復習の復習…。
勉強になるのかなとは思うけど、そんな日もいいんじゃないだろうか。
「いいですよ。たまには」
「本当ですか?よかった!」
たまには。でも、よかった。
レイチェルの方をそっと見た。
目があうと、レイチェルは笑ってくれた。
ほら大丈夫。私にはレイチェルがいる。
驚きの手紙が来たのは、その日の日が暮れた後だった。
本を横に読まずに置きながら、教科書を開いて今日する予定だった部分を予習する。
するとドアをノックする音が聞こえた。
「どなたですか?」
レイチェルが聞くと、ノックは止まった。
《誰だろう。人なんて滅多に来ないのに。女官長だろうか。でも何の用だろう》
とにかく、返事を待った。
「女官長サフィナ・キャングレフでございます」
「まあ女官長!入ってちょうだい」
「失礼します」
女官長がドアを開けて入ってくる。
「何かありましたか?」
「それが…」
「もしかして、チョコレートクッキーを持ってきてくれたの?あっ」
遮ってしまった。
あー、[性格!!!]の文字を思い出す。
だが女官長はなんとも思っていないようだった。
「それもありますが、その」
「何?」
「あっ!カロライズ様ですか?」
「そう。それもそうなのですがね?」
「何かあったの?」
「その…はぁ」
ため息と一緒に下がった頭をあげると、女官長は何かが吹っ切れたように、いつもの表情に戻った。
「カロライズは、ルシ王女様にはお会いしたいと言っているのですが、初めから直接会うのでは嫌なそうなのです」
「では私に会いたくはないということですか?」
「ルシ王女様っ!?それを言っては…」
何か不味いことを言っただろうか?
カロライズの事は残念だけど、派閥の関係もあるし。
でも、…あれ?
「…?」
レイチェルと女官長は二人とも驚いているが、少し違う表情の気がする。
「いいえ!まさか、違いますよ。あのですね、カロライズがこないだ家へ戻って、篭って医学書を書きたいと言い出したのです」
《医学書っ!》
すごい事をするのだな、と一語に感嘆してしまう。
「それで勉強から離れたくないけれど、お金は必要という事で、ルシ王女様の教師という事でなら受けたいと言い出したのです」
「なるほど…。カロライズ様らしいですね。知る限りですが」
「全くよね、あの頑固者ったら。守銭奴なんだから」
「ふ、ふーーん。それで?それでどうして女官長は、あんなに言いにくそうだったの?」
「それは…」
「それは家庭教師や私達を含む、国に仕える者共は、王族の方々が選ぶのです。大きく国の募集や推薦などで。つまり…」
レイチェルまで言いにくそうにする。
しかし、そんなに重要な事だろうか。
「なるほど。私が推薦すればいいのよね?まだわからないけど、多分私から言ってカロライズの承認があれば大丈夫だと思うわ。でも、なんて言おう」
「本当ですか?よかった」
女官長は、とても嬉しそうにする。
全く。そんな大切な事なら前回にも言ってくれればよかったのに。
「多分、国に貢献したいといえばなんとかなると思います。推薦と言っても、人事の大臣に手紙を送れば良いのですから」
「ええ。自己推薦でもありませんし、ましてルシ王女様のご意向で、推薦者は一応名のあるカロライズです。通らない事はないでしょう」
「そうだ。人事についてなんですが…」
昨日のダンスの練習や、についての事を話した。
「ああ、なるほど。人を変更できるかはわかりかねますが、彼女も比較的優れた技術者のはずです。そして二人雇えるかはわかりませんが、時間を分けて練習する分には無理な事は…おそらく、ないでしょう」
「そう…!」
自然と声が明るくなるのがわかる。
クレアと顔を合わせずに済むのか。よかった。
「では早速、人事の大臣へ手紙を書いてみるわね」
胸が弾んで机から便箋とペンを取り出した。
「どう書けばいいかしら」
「ああ。私は苦手なので…」
「では私が伝えますから、どうぞ書いていってください」
「わかったわ」
こうしてカロライズの登用。のダンスの勉強の時間の変更、または二人を雇う事。
その提案の内容を含む手紙を、人事の大臣宛に書いた。
初めて書く手紙だが、女官長が内容を教えてくれている。業務に関する事なのに、何故かとても難しい文字が並んでいる。
でも、これでカロライズに会えると思うと胸が弾む。
「カロライズとは、いつ会えるのかしらね?」
「そうでした。どのくらいでしょう」
二人で顔を見合わす。
「優先順位が高いにしても、手紙の採決に二週間から一ヶ月。カロライズへ話が通り、可否が出て一週間程度。加えて書類の手続き……。えっと少なく見積もって、ひと月。長く見積もって三ヶ月です」
「うっ。どちらにせよ、案外長いのね」
「はい」
女官長は悩みなく、すぱっと言った。
でもそうか。ひと月なら後十ヶ月。三ヶ月なら後八ヶ月。それしか残されていない。
本にカロライズ。
その後に私はいるだろうか。
少し不安になってしまった。
 




