第8話
マリーネさんは伯爵の執務室、図書室、大広間、浴室、洗濯場やリネン室などを案内してくれた後、厨房に連れてきてくれた。
厨房は、学校の教室4つくらいの広い空間にかまどや調理台、洗い場などが並んでいる。奥の方にはパントリーもあって、中を見せてもらうと様々な食材が納められていた。すごいすごい、色とりどりの野菜、果物、ハムやソーセージみたいな加工品、燻製、瓶詰などが棚に所狭しと並んでいる。
パントリーの中では、執事のツイルさんと料理長さんが野菜を手に今日の献立を考えているようだった。
「トリス、この娘が昨日サイアス様がお連れになったハナさんよ。ハナさん、こちらは料理長のトリス」
マリーネさんが紹介してくれたトリスさんは、30代後半くらい、オレンジがかった髪と優しい茶色の瞳の持ち主だった。
「美味しいサンドイッチ、ありがとうございました」
「お口に合ったようで、なによりです」
トリスさんは私の言葉に笑顔で答えてくれた。
ふと、トリスさんが手にしているニンジンみたいな野菜が目に入った。んっ、テーブルにはジャガイモやゴボウみたいのもある。これは、あれが作れるんじゃないか。あぁ、でも味噌なんてないだろうな。そう思ってパントリーの棚を見回した私の目に、ガラス瓶に入ったスープの素みたいな黒茶色の物体が飛び込んできた。
こっ、これは作るしかない!
「あの、私の世界の料理を作ってもいいですか」
私の言葉にツイルさんは眼鏡の中央をひとさし指で押し上げてこちらを見た。彼を最初に見た時、異世界にも眼鏡があることに驚いた。ちょっと厚めのレンズだけど、眼鏡はツイルさんのきつい顔の印象を緩和しているように思う。緑色のちょっと鋭い眼光は只者じゃない感じなんだよね。
「料理は何のために」
ツイルさんが睨むようにして聞いてくる。
「サイアス様に、お礼がしたくて」
私は、サイアスさんが私にしてくれている以上のことを返すことはできない。せめてものお礼に、昨日あれだけ興味をもって聞いてきた豚汁が作れるのなら作りたい。
「ハナさん、あなたは保護されて2日目ですよね」
「・・・・」
「未だ不審者のあなたが作った料理を、サイアス様にお出しすることはできません」
あぁ、正論だよね。でも、私も負けてはいられない。
「でも、サイアス様には本当に感謝しているんです。何かお返しがしたいんです。ここにあるもので昨日サイアス様が関心を持ってくれた豚汁が作れそうなんです。お願いします」
腰が折れそうなほど曲げて、お願いする。
「しかしですね・・・・」
「作らせてみたらどうだ。嬢ちゃんの世界の料理なんて、面白そうじゃないか。俺とお前とマリーネで監視してたら、変なものも入れられないだろう」
ツイルさんの言葉を遮ったのは、利用長のトリスさんだった。
「そうね。ずっと見てればいいんですもの」
マリーネさんも同調してくれる。
「しかしだな。昨日、サイアス様はトンジルとやらに関心を持ったわけではないだろう、どう考えても・・・・」
「ツイル。ハナさんに教えてもらいたいことがあるんでしょう」
マリーネさんがツイルさんの話を止めた。でも、ツイルさんの話も気になる。サイアスさんは昨日の夕食の時、豚汁についてあんなに聞いてきたのに興味ないのかな。熱心だったけどなぁ。
ツイルさんはマリーネさんの言葉にハッとした表情になった。なんだろう、眼鏡の奥の目がランランとしてちょっと怖い。私が執事のツイルさんに教えることなんて何もないんだけど。
「わかりました。交換条件です」
「交換条件?」
「えぇ、料理を許可するかわりに、あなたの体術を教えてください」
「えっ、空手? そんなんでいいの」
「いいです。この世界にはないもののようなので」
「わかりました。いつでもお教えします」
私の答えにツイルさんはとても嬉しそうな表情を浮かべた。執事なのに武術に興味があるんだ。
「ツイルはね。武術バカなの」
マリーネさんが、小声で教えてくれてクスリと笑った。
「ありがとう。マリーネさん」
私も小声で答えた。
早速、調理に取りかかる。豚がどういった生き物か、肉の食感とかを料理長に伝えてみると、パントリーの奥から何かの肉を持ってきてくれた。なんとなく豚肉に見えなくもない。野菜は似た物があるから色々入れてみよう。
問題は味噌。ガラス瓶に入ったスープの素みたいなものは白っぽいのから、さっき見た黒茶色の物まで数種類ならんでいた。香りを嗅いで、ちょっと味見して一番味噌に近いと感じたのは、黒茶色の物だった。木の実をペースに色んな物を入れているらしい。パンにつけるのが一般的らしいけど、これにしてみるか。
肉と野菜を炒めて水を入れて、ペーストを入れて、溶けたところで味見する。んーっ、まぁまぁかな? ほんとの味噌じゃないから仕方ないよなぁ。
調理をしている間ツイルさん、マリーネさん、トリスさんは何度かびっくりした顔をしていた。味見を勧めたけど「サイアス様のためのスープですから」と断られてしまった。
「お帰りなさいませ。サイアス様」
お屋敷に帰ってきたサイアスさんを、使用人のみんなと一緒に出迎えた。
「ハナ、体調はいいのですか」
サイアスさんは、慌てて馬から降りてきて、少し屈んで私の顔を覗き込みほっとした表情を浮かべた。心配してくれていたのがわかって、心が少し温まる。
「大丈夫です。サイアス様がセインさんに往診を頼んでくれたって聞きました。ありがとうござます」
「良くなってよかった」
「身体は大丈夫なんです。気持ちがね」
私はサイアスさんの言葉に曖昧に微笑んだ。
「でもセインさんと話して色々吹っ切れました。サイアス様にはご迷惑をおかけしますが、ここで頑張っていきたいと思います」
「迷惑なんかじゃない」
サイアスさんは私の頭をクシャと撫でた。不意打ちの優しさについ目が潤んだ。でも、泣かない。帰るまでは、泣かないと決めた。
「今日は、サイアス様にお礼の豚汁を作ってみました」
顔を上げサイアスさんを見ると、一瞬驚いたような表情を浮かべた。そうでしょう、そうでしょう。びっくりするよね。
「味噌があったのか」
「似たようなのが。ちょっと風味は違うけど。まぁ、食べてみて下さいよ」
私はウキウキとサイアスさんの背中を押しながら食堂に向かった。喜んでもらえるといいな。
「・・・・これを飲めと」
サイアスさんは緑色になったごった煮のような豚汁風スープを凝視している。
「はい」
「味見は?」
「しましたけど」
「そうか・・・・」
サイアスさんは、なんだかすごい思いつめたような顔で豚汁にスプーンを入れた。きっと、初めて食べる異世界の料理に感激しているんだろう。よかった、喜んでもらえて。だって昨日あんなに豚汁の作り方を聞いてたんだものね。早速食べられるなんて思ってもみなかったんだろうな。
おっ、一気に口に入れた。あっ、目尻に涙が浮かんでる。美味しいんだ、びっくりするほど美味しいんだ。よかった。
「ツイル・・・・。水を」
傍に控えていたツイルさんは苦笑いを浮かべて、サイアスさんに水を渡してる。あれっ、美味しくないのかな。
「サイアス様。どうですか」
不安になって聞いてみる。
「見習い騎士の時代を思い出した。野営の時に変わったものを作り続ける同期がいたんだ」
サイアスさんは、むせながら涙目で話す。変わった物? 味見した時は美味しかったんだけどな。私は再度味を確認すべく厨房に向かって駆けた。
スープをすくって味見してみる。少し味が濃いか? でも美味しいじゃないか。サイアスさんは変わった物って言ったけど、まずいとは言わなかったもんね。多分、悪くはないってことだと思う。
その頃、食堂では
「よく耐えましたね。サイアス様」
ツイルが空になった杯に追加の水を注ぐ。
「せっかく、作ってくれたのに吐き出すわけにはいくまい」
「ハナさんにはペーストって説明したけど、スープに使えると思ってましたからね。小魚のオイル付けがすりつぶして入ってるから、少し魚臭かったかしら」
マリーネも傍らで苦笑する。
「味見したと言っていたな・・・・」
「はい」
ツイルの肩が震えている。
「ハナは味音痴だな」
私が思わず漏らすとマリーネとツイルが同時に吹き出した。私も声を上げて笑った。こんなに笑ったのは久しぶりだった。
ハナさんは、1度もまともに料理したことがありません。味噌以前の問題です(笑)