5 告白
音楽室の鍵を掛け、職員室に向かおうと歩き出した足代先生の前に現れたのは、教室で最終の下校時刻になるまで自習をしていた亮介でした。
「自習していたのか」
「うす」
「良いことだ。課外も色々取っているそうじゃないか」
足代先生はそう言って亮介をねぎらいます。亮介は野球部を引退し、受験勉強に明け暮れた生活を送っているようでした。
勉強は得意じゃないけれど、何とか私立の大学に合格できたらいいなあとその時の亮介は考えていました。
「県大会、でるんスね」
「ああ。去年は地区大会銀賞で終わったらしいからな、上の大会に行けて良かったよ」
「三年生も出るんスよね? 受験とかあるだろうにこんな長くまで部活やっているなんて大変ッスね」
俺ももうちょっと部活やりたかったッスけどね、と。
特に声の調子を変えるでもなく亮介は言いました。
◇ ◇ ◇
九回表、ワンアウト一塁二塁。
亮介が思いきり振ったバットの真ん中よりやや上の方に、ボールはしっかりと当たって遙か彼方まで飛んでいきました。一人のランナーがホームに帰り、それは一点を返すタイムリーヒットとなったのです。
最後の最後で亮介が見せた粘りに生徒達は歓喜の声を上げましたが、反撃もそこまで。
一対三のままでゲームセット、野球部は初戦敗退という形で夏を終えました。
「悔しいか」
「そりゃあ悔しいッスよ」
「ならその悔しさを受験に全てぶつけろ。他の教科のことは知らないが、現代文では小説の内容を速く正しく理解することに長けている。一生懸命勉強すれば国語の成績は終盤で伸びる……九回表くらいまでにはな」
うまいこと言うッスねえ、と亮介は笑いました。
少し笑ってから、亮介は不意に真面目な表情に一変させます。
「あの……」
「うん?」
「何でだと思いますか」
「何がだ?」
「何で小説の内容理解が得意なんだと思いますか? 俺……」
理由までは分からない。足代先生がそう答えると、亮介は打ち明けました。
それは今まで誰にも話したことがない、自分の過去。
「俺、中学の時は美術部だったんスよ」
「……」
「もちろん野球はやっていましたよ、地元のクラブで。でも部活は美術部でした」
「……そうか」
全く予想していなかったカミングアウトに、さすがの足代先生でもどんな反応をしたらいいのか分かりません。野球男児の亮介が美術部?
「つっても、別に絵を描くのが好きだったわけじゃないンスよ。週二しかない部活だったから楽かなってだけで。全然活動してないし緩かったけど、それはそれで楽しかったッス。ゲーム機をこっそり持ち出したり、美術室の黒板いっぱいに落書きをしたり……友達と図書室に行って本を読んだり」
図書室。その言葉を聞いて足代先生は素直に驚きました。
「十島……読書、好きなのか」
「最初はそうでもなかったんスけど、だんだん楽しくなって来て。最初はライトノベルから読み始めて、読書にはまりだしたら純文学とか夏目漱石辺りの名作とか、図書室の本全部読破するくらいの勢いで読んでいました。想像つかないでしょう?」
「ああ。意外だったな」
「でも高校に入ってからはめっきり読まなくなりましたね。部活も忙しいし、こんなごついやつが本好きとか、笑われるッスよ」
でも。
今年に入ってから、足代先生と出会って。
中学時代の読書に明け暮れた生活を思い出して、足代先生から自分と同じにおいを感じて。
すでに彼女がいるにも関わらず、いつからか惹かれるようになって。
この先生と静かで安らぎのある空間を共有してみたいと、幸せを共有してみたいと、亮介は次第にそう思うようになったのです。
足代先生が『幸せの法則』を見つけたのは自身が高校の時でしたし、その話を亮介にしたことは一度もありませんでしたが、亮介はすでにこの法則を中学で見つけていました。
「るい先生」
亮介は、足代先生にお願いをしました。
足代先生が自覚していたかどうかは定かではありませんが、足代先生のことを足代先生でもうさぎ先生でもなく、『るい先生』と下の名前で呼んでいるのは、学校中を探しても彼だけでした。
「もし俺が第一志望の大学に合格したら、るい先生の持っているうさぎを一ついただけませんか」
今まで誰もしたことのないお願いに、足代先生はしばらくの間黙りました。
「……駄目、ッスか」
「良いよ」
ただし、と。
「前にも言っただろうが、これはわたしにとって大切なものなんだ。一つ残らず。それを一つ貰う約束をしようというのならば、それなりの大学を目指せ」
その返事に満足したのか、亮介は笑いました。
きっと自分なりの良い大学に入ってみせる、胸を張って高校を卒業してみせる、そんな心意気が、彼の笑顔からは感じ取れました。
◇ ◇ ◇
最後に。
亮介は問いかけました。それもまた、今まで誰もしたことのない、絶対にしてはいけない質問を。
そんな質問を投げかけた瞬間、亮介の恋はあっさりと砕かれるわけです。
「あの白いうさぎは誰に貰ったんですか?」
一呼吸おいて、足代先生は答えました。
無表情のまま、しかし、少しだけ目を細めて。
「私の……大切な人からだ」