4 九回裏
梅雨も明け、空が青く澄み渡っている夏の日。
とうとう高校野球の地区大会、初戦の日が訪れました。
野球部員とその母親たち、応援に駆けつけた一般生徒、そして楽器を携えて総出動した吹奏楽部員。野球場のスタンドにはたくさんの生徒の姿がありました。
吹奏楽部の顧問である足代先生は楽器は持ってきませんでしたが、代わりに大きな旗を持ってきました。
旗には太くて大きな黒い字で、激励の言葉が綴られています。
『主将・十島、意地を見せろ』と。
「一番。ファースト、中西」
とうとう、試合が始まりました。アナウンス声と同時に、吹奏楽部による熱い演奏が始まります。
およそ六十人が息いっぱいで鳴らす音は、場外にまで音が届くほどによく響きました。
ここ数年はこの初戦で負けて夏を終えているのです。だから今年こそは絶対に勝ってやる、そんな強い意志が、試合中でのプレーに大きく反映しました。
全力で走り、全力で投げ、全力で叫ぶ、魂のこもったプレー……、
「熱は確かに伝わってくるんだけどなあ……」
ぼそりと誰か呟いたように、野球部たちは真剣にプレーはしていましたし、練習の成果が出ていることは確かでした。
しかし、六回表の時点で結果は〇対三、なかなかに苦しい展開が彼らには待っていました。
「あの相手チーム結構強いらしいよ」
大会前日、楽器を積み込んでいる最中のことです。
「去年の地区では三回戦まで進んだって。別の大会でも準優勝とか」
確かに、相手チームは実力に伴うとても安定したプレーをしていました。
送りバントや盗塁は確実にこなし、守備は硬く、何より打つべき時にはきっちり打ってくるチームでした。
一方こちらのチームは、盗塁を試みても相手側のキャッチャーに見事さされてしまったり、ぽろりと球をこぼしてエラーを起こしたりと、ミスの目立つところがいくつかあります。
何より、あと一本のヒットで点が入るといった場面で、そのヒットが出ないままスリーアウトになってしまうところが何度かありました。
野球に関してほぼ素人である生徒たちの目でもうすうす分かるほどに、彼らはあまり循環をしていなかったのです。
「自分たちだけが一生懸命にやっているわけではない」
観客席からマウンドを静かに見下ろす足代先生は、
「自分たちが一生懸命練習しているのなら、相手も一生懸命練習しているに決まっている。場所は遠く離れていても同じ空の下で生きているんだ、お互いのその懸命さは空気を通じて伝わってくる」
野球に限った話ではない、と足代先生は言いました。確かにそれもあるのだとはみんなが思いました。
しかし同時に、なんらかのチームの悪循環に原因はあるのだとも心の中でだけで思いました。
三番バッターが長打のヒットを打ち、六回表ツーアウト三塁。点を入れるチャンスがめぐってきたところで、次のバッターは亮介。
「四番。サード、十島」
主将の登場に、生徒中の期待が集まります。もちろん足代先生と愛実も、彼の活躍を期待していました。
しかし。
「ストライク。スリーアウトチェンジ」
審判の声に、生徒達は落胆の息をつきます。スタンドの雰囲気が伝わったのでしょうか、ベンチへ帰って行く長身の背中がなんだか小さく感じました。
二回表でも、同じようなチャンスがあったにも関わらず彼は三振に終わっていました。
素人の生徒達でも感じたこと……それは、亮介の不調でした。
しっかりしろ。そんな発破をかけてやりたい気分でいっぱいだったのは愛実です。
楽器から口を離して座席に座ると、しばらくの間、じっとバッターボックスを見つめていました。
「わたし達吹奏楽部が応援に駆けつければ勝てる?」
「勝てる。勝つ。だから絶対大会見に来て応援してくれよ」
春先のこんな会話が鮮明に頭の中に浮かび上がってきます。
そうだよ。わたし達が応援すれば勝てるって言ったじゃん。主将のあんたがそんなんでどうするんだ。
やる気が空回りしているのか、緊張して肩に力が入っているのか。しっかりしろ。
それに、亮介のことを見ているのはわたしだけじゃないんだよ。
「野球もなのかな……」
不意に、足代先生は独り言のように小さく呟きました。
先日の彼のテストと今日の様子を見たことから感じることがあったようです。
「今はまだ調子が出ていない。だがあと三回あるのだから、一度は打順が回ってくる。その間に果たして調子は上がるのだろうか……」
それは、テストの結果から見て分かることでした。
たとえば現代文。点数的には平均より気持ち上くらいでしたが(普段は赤点すれすれの点を取る生徒のためこれでも伸びた方ですが)、どうも後半の読解力を問われる難題や記述問題よりも、前半の記号問題や文法問題の方が多く点数を落としているのです。
さらに全教科で比較すると、その日の朝一番の科目よりも二科目目や三科目目の方が、五日間あるテストの一日目の教科よりも最終日の教科の方が、テストのできが良いのです。
つまり足代先生の推測では、亮介ははじめは力を十分に発揮できないが、中盤になってから調子が上がり始めるタイプなのではないかと。
「スリーアウトチェンジ」
六回裏が終わり、七回表を迎えようとしています。
足代先生と愛実は離れた座席に座っていたため何ひとつ会話をしませんでしたが、それでも二人が願っていることは同じでした。
◇ ◇ ◇
試合にこれといった大きな変化もないまま、〇対三のままで九回表がやってきました。
最後まであきらめてはいけない。そんな思いと野球部の勝利を願い、生徒達は全力で応援をしました。
その思いが届いたのか、ワンアウトのところで二番バッターが粘り強さを見せ、ついにバットで飛んできた球を打ち一塁へと塁を進めました。
三番バッターはフォアボール、一塁と二塁にランナーがいるという大きなチャンスを得たのです。
二番バッター、三番バッターときたら、その次に出番が回ってくるのは、当然あの亮介でした。
「亮介、がんばれ!」
思わず愛実が叫びました。それにつられて周りも吹奏楽部員も叫びはじめ、亮介コールが野球場に響き渡ります。
すると、バッターボックスに入る直前、亮介がちらりとスタンドの方を見上げました。
そこで亮介の視界にとらえたのは、自分に思いを寄せてくれている女子生徒の姿ではありません。
生徒達が立ち上がってコールを続けている中で、ただ一人だけ、座ったまま何も言わずじっとマウンドを見つめている、自分が思いを寄せているひとりの高校教師が、彼の視界に入ったのです。
バッターボックスに入り、亮介は構えました。
音の洪水のように、声援があふれかえっている中で、彼と彼女だけは静かでした。
マウンドとスタンドの距離はこんなにも遠く離れているのに、その静かな空間を二人で共有しているような錯覚に見舞われました。
目の前のピッチャーに集中しているはずなのに、そのピッチャーが腕を振り下ろした瞬間、亮介はこんなことを考えていました。
俺がるい先生に向けている好意と、るい先生が俺に向けている好意は違う。同じ空間を共有することは出来ても、同じ幸せを共有することは出来ない。
……るい先生と俺との間に、『幸せの法則』は成り立たない、と。