2 野球男児の恋
るい先生、と。
五月の終わり頃、授業を終えて廊下へ出た足代先生を即座に呼び止めた男子生徒がいました。
足代先生よりも頭二つ分背が高く、肌はやや黒く焼けていて、いわゆる丸刈り坊主といった印象の強い男子生徒です。
自分が授業を担当するクラスの生徒だったために、足代先生は彼がどんな生徒であるかをちゃんと知っていますが、仮にどんな生徒であるかを知らないとしても、その雰囲気から何部であるかくらいは何となく察することが出来るでしょう。
彼、十島亮介は野球部でまさに主将を務めている男子高校生でした。
「十島か。どうした?」
「確か来月って吹部(吹奏楽部の略称)の定期演奏会ッスよね?」
確か来月って、という言い方をしたけれど、これは本当は来月に演奏会があることをちゃんと調べていた上での質問でした。
足代先生が肯定すると、亮介は更に問いかけます。
「ステージにはるい先生も乗りますか?」
「ああ」
「俺、絶対見に行くッスからね! 演奏会の最後は毎年、野球部による花束贈呈ってのがあるんですけど、今年はそれ、俺が行くことになったんで」
「ふうん、そうか」
それは嬉しいな。
表情を変えはしないものの、足代先生は亮介の言葉に対してそう返しました。その瞬間亮介はぱっと表情を明るくしました。
嬉しいと言われてとても嬉しそうな亮介の様子は、ごつい身体には似合わない子供っぽさがあります。
「あっ、るい先生」
再び廊下を歩き出そうとした足代先生を引き留めて、
「そのうさぎ……のペット? これって先生の手作りッスか?」
「いいや、貰いものだ。いろいろ持っているが、どれもこれも特注品だから世界にひとつしかない」
「へー、すげえ! 他にも色々なうさぎ持ってましたよね? 良かったら俺にひとつくださいよ」
へらへらした笑顔に隠された、ささやかな本音。しかし、
「……それは駄目だ」
亮介のお願いに、足代先生はゆっくりと首を振りました。
「こいつらは私のペットであり、私の大切なものなんだ。そう簡単にあげられるものではない」
◇ ◇ ◇
吹奏楽部の定期演奏会。
それは吹奏楽部にとって、家族や地域の人たちに演奏を聴いてもらう一年に一度きりの大切な舞台でした。だから今年も部員達は、この本番の為に一生懸命練習に励んでいます。
中でも、副部長を務めている女子生徒・白木愛実は特に、この舞台を大切にしていました。
「うちの野球部は、地区大会の初戦で負けてしまうような弱小チームなんだけどさ」
愛実の隣に座っておにぎりをほおばる男子生徒は言います。
「実際ここ数年、初戦で負けているんだけどさ」
「わたし達吹奏楽部が応援に駆けつければ勝てる?」
「勝てる。勝つ。だから絶対大会見に来て応援してくれよ」
まあそのためにはまずレギュラーにならないとな、と笑う彼の横顔を、愛実は真剣に見ていました。
「わたしも応援しに行くから、亮介も定期演奏会見に来てね。今回はソロがあるんだから」
「ソロ? あれか、一人で吹く奴か? それは見たいな」
でも部活があるからなあ、とその時は言っていましたが、彼はその定期演奏会に野球部代表として聴きに来ることが決まったのです。そう……花束贈呈で。
部活も違い、大学の志望校も違い、今年はクラスも違うこの二人。
最近何となく距離が遠くなっているけれど、愛実は彼の試合を、彼は愛実の演奏を見に行けるという事実が、二人の心をつなぎ止めてくれたような気が愛実にはしていたのです。
だから、愛実のこの定期演奏会にかける思いは尋常ではありません。
その思いは周りの部員達にも強い影響を与え、全体のやる気を引き上げることもあるのですが、一方で彼女は普段以上に気が荒く、ちょっとしたことでも腹を立ててしまう一面が度々ありました。
特に彼女を苛立たせたのは、吹奏楽のことはほぼ素人で、それでもってどこの誰よりもマイペースなあの先生です。
学年中の生徒の癒しになっているあの先生をもってしても、彼女のような気が短くせっかちな生徒が相手だといろいろ大変だったようです。
「ああっ、だめ!」
全体合奏のあと、楽器の片付けをしていた足代先生を引き留めたのは愛実でした。
「そこは持っちゃだめ。すごく壊れやすいところだから」
「そうか。それは失礼」
「もう楽器はじめて二ヶ月くらい経つんだから、いい加減覚えてよ」
容赦ない言葉で叱られてしまいました。いつもならここで終わりなのですが、今日の愛実は足代先生に、もう一つ言いたいことがあったのです。
「うさぎ先生って、五組には授業しに来ているの?」
「五組? 現代文を教えに行っているが……それがどうかしたか?」
「なんて言っていた?」
「うん? 誰が」
亮介、と。
少しだけ声を潜めて、愛実は男子生徒の名前を口にしました。その名前は、人の名前を覚えるのが苦手な足代先生でも思い出す名前でした。
「亮介? ……十島亮介か」
「先生になんか言っていなかった?」
そうだな、と足代先生は珍しく返答するのに時間が掛かりました。
というのも、足代先生が亮介に話しかけられたのはあの五月の終わり頃の一度きりではありません。
あの後も亮介は度々、授業で分からなかったことを質問してきたり、うさぎのことについて話題を振ってきたり、足代先生自身の趣味を聞き出してきたりと、授業終わりや放課後に話しかけてくるのです。
そのとき亮介がどんな気持ちで話しかけてくるのかまでは分かっていませんでしたが、彼女と亮介の間柄についてはおおよそ知っていたので、
「楽しみにしていたよ」
ソロ、と。
少しも声の調子を変えることなく、足代先生は答えました。
「とても楽しみにしていたよ」
「そ、そう」
「精が出るじゃないか。期待されることは幸せなことだ。誰かから期待されることは幸せなことであり、その向けていた期待に答えてもらえることも幸せなことだ。幸せを二人で共有できる」
相変わらず無表情ではありましたが、その言葉は足代先生の心の奥底から出てきたものでした。
しかし、その言葉はどうやら愛実には届きませんでした。なぜなら彼女は、その『幸せの法則』が今、自分と亮介との間で本当に成立しているのかどうかで思い悩んでいたのです。
亮介の心が自分から離れてしまっているように思えて。
◇ ◇ ◇
「うさぎ先生、うさぎのどういうところが好きなんですか?」
昼休みも足代先生の人気は絶えず、職員室前の廊下では足代先生と二人の女子生徒がうさぎについて話していました。
その時足代先生の手には、いつもの真っ白なうさぎのぬいぐるみがありました。
「どういうところと言われても、色々あり過ぎてだな」
「じゃあ何で犬とか猫とかじゃなくてうさぎが好きなの?」
「まず、こいつには肉球がない」
ぬいぐるみだから無い訳じゃあない。
足代先生は語ります。
「犬猫と違って足もこのふわふわの毛で覆われているんだ。そこがぬいぐるみチックで、この世に生きる動物であるにもかかわらず、存在に現実味がない」
そしてもう一つ。
「今現代文の授業で取り上げている小説にも書いてあるだろう」
「うさぎは寂しいと死んじゃうってやつ?」
「こんな話信じているんですか?」
「寂しいから死ぬのかは定かじゃあないが、確かにうさぎは脆い。うさぎは昔から人間の狩りの対象にされてきたし、こいつを襲う動物も多い。日本の昔話でもうさぎは大抵愚か者扱いだ。どこへ行っても敵だらけ、まあ寂しくなるのも無理はないだろう」
一方で、うさぎは敵から逃れるときの足がとても速いので、動きの速いものの象徴として使われることもあるようです。
「逃げ足が速いと言ったら聞こえが悪いが、逃げ足が速いと言うことは敵に気づくのも早いから速いのだと個人的に思っている」
「早いから速い?」
「見た目こそ可愛らしいがその目はとても鋭い……こいつの視野の広さをわたしは尊敬しているし、わたしもそうでありたい」
へーえ、と二人の女子生徒は感心して足代先生の話を聞いています。
まだまだうさぎの魅力はたくさんあるようで、足代先生は無表情のまま、しかしやや熱のこもった声で語っていました。
すると、その廊下をとある男子生徒が通りすがりました。亮介です。
昼休みになっても雑談している姿を見て、昼食はもう食べたのだろうか、食べる時間が無くなってしまうのではないか、と他人事ながらも心配しました。
一方で、るい先生は誰とでもああなんだな、と静かに悟りました。
「そんなの当たり前だろ? 先生なんだから誰とでも喋るって」
亮介の隣を歩いていた彼の友達は、亮介のことを笑います。
「先生なんだから誰にでも優しいし、質問されれば答えるし。生徒はみんな大切だって。お前何今更なことを言っているんだよ」
「……そりゃそうだよな」
「自分一人だけに色々喋ったり気を遣ったりしてくれるのは彼女くらいだろ。つーかお前彼女いるだろ」
「……そうだよな」
「お前、そんなにうさぎ先生が好きなのかよ」
友達の何気ない言葉に、亮介は返事をしませんでした。からかわれたからではありません。
亮介はそれほど、うさぎ先生が好きなのです。好きになってしまったのです。
その『好き』の程度は、先生が好きというよりは、足代るいが好きなのだ、好きになってしまったのだと言える位に重いものでした。
野球男児・十島亮介。
彼は、不覚にも恋をしてしまったのです。