1 うさぎ先生
犬派ですか? 猫派ですか?
一人の女子生徒がした定番の質問に、足代先生は答えました。
「もちろん、うさぎ派だ」
これが普通の先生の返事であったなら、先生は生徒達を笑わせるためにわざと言ったのだろうと思うでしょう。
しかし、生徒達はこの美人で優しい足代先生が、決して普通の先生ではないことを知っていました。
だって教壇に立つ足代先生の脇には、真っ白なうさぎのぬいぐるみが堂々と置いてあるのですから。
◇ ◇ ◇
ここは田んぼに囲まれ、のどかな雰囲気を帯びた公立高校。
桜が満開の四月を迎え、入学式や始業式と同時に新しい先生がたくさんやってきました。
その一人である足代るい先生は、今年教員に採用されたばかりの国語教師で、三年六組の副担任でしたが、生徒達と初めて対面したのは始業式から数日経った現代文の授業でのことでした。
そして先生がチャイムの音と同時に教室に入ってきたとき、生徒達は全員、先生を凝視せずにはいられなかったのです。
男子生徒がため息をつくほどの綺麗な顔で、黒髪はやや短めに切り揃えられていて、その美人に似合う可愛らしい服を着ている先生でした。しかし、その可愛らしい服の上から、何故か運動用の灰色のジャージを羽織っていたのです。
そして、生徒達は服装の次に、にわかには信じられないものを見てしまいました。全員の視線は先生の持っていたカバンに釘付けです。
カバンの中から顔をのぞかせていたもの……それは、学校では普通お目にかかれない、真っ白なうさぎのぬいぐるみ!
生徒達が言葉も発せない中、足代先生は無言で無表情で教壇にまで歩いてきて、カバンからそのうさぎを取り出して教卓に置き、生徒達に背を向けて白チョークで黒板に文字を書き始めました。
名前、足代るい
担当、現代文
好物、本とケーキ
と、三行に分けて綺麗な字で書き終えると足代先生は振り返り、生徒達に向かって初めて口を開きました。
表情一つ変えず、淡々と、堂々と生徒達に告げるのです。
「ちなみに、こいつは私のペットだ」
◇ ◇ ◇
鮮烈な先生デビューを果たした足代先生。この日から一週間くらいは、学年中が足代先生の話題で持ちきりでした。
この授業以来、毎日のように綺麗な服の上からジャージを羽織り、自分の授業には毎回のようにうさぎのぬいぐるみ(ペット)を連れてきました。
見かけも一際目立つ上にキャラも強烈なので、最初は生徒達も先生との距離感をうまく掴めずにいましたが、一ヶ月も経てば次第に足代先生の雰囲気に慣れていきました。
それどころか、生徒達にしつこく絡んだり一つの物事に深く粘着したりしないさっぱりした性格や、時折生徒達が拍子抜けする奇想天外な言動をするどこか抜けた所が、ストレスの多い受験生達にとってはとても良い印象を受けたのでしょう。
学校で一番の変わり者だったはずの足代先生は、いつの間にか学校で一番人気の先生となってしまいました。
そして、生徒達はいつからでしょうか、変わり者だけど可愛くて大好きなこの先生を、温かな親しみをもって『うさぎ先生』と呼ぶようになりました。
足代先生はにこりともしない徹底した無表情で、感情を基本表には出さない人で、それでも時折意外な一面を見せる人でした。
口調もさばさばしていて決して愛想が良いとは言えない人なので、一見とっつきにくそうな人に見えますが、ひとたび授業が始まると立派な国語教師に早変わりです。
「主人公の心情を別の生き物で表現するというのはよくあることだ」
現代文の授業でとある小説を取り上げているとき、足代先生は教壇に立ってこんな話をしました。
「『○○と言った時の主人公の心情を答えよ』みたいな問題が必ず出題されるが、○○だけに着目したところで、主人公の気持ちなんか分かるはずがないな。それに、口先では○○と言ったかもしれないが、本音は違うかも知れないじゃないか。例えばお前達、気を許した友達が相手なら『お前うざい』って冗談でへらへら笑いながら言えるかも知れないが、本当にうざいと思っている奴の面に向かって『お前うざい』なんて本音を冗談でも言えるか?」
まあ私は言うけどな、うざいから。そんな足代先生の言葉に生徒達は軽く吹き出して笑いました。
緊張感がうっすら漂っていた場が少し和んだところで、足代先生の話は続きます。
「そんなわけで、主人公の心情を表しているのは○○そのものではなく、○○と言った時の周囲の環境だ。主人公のやることなすことが理解できないといった話もたびたび聞くが、無理に主人公に感情移入する必要もなければわざわざ理解してやる必要もない。そんなことをしなくとも○○の前後数行にちゃんと書いてあるさ。台詞を言う主人公の挙動不審な動きだとか、主人公を取り巻く重い空気だとか、その時のペットの様子だとか、な」
足代先生はそう言って、ちらりと教卓のぬいぐるみを見ました。
普段は真っ白でくりくりの目で耳がピンと立っている、可愛らしいうさぎを持ってくるのに、今日は何故か真っ青で目も耳もだらりと垂れた、ちょっと不細工なうさぎでした。
すると足代先生は、少し悲しそうに静かに話すのです。
「こいつも私の心境をとても明確に表しているな。……行きつけのロールケーキ屋のアウトレットでいつも安くて美味いケーキを買っているのに、昨日は店に並ぶのが遅くなって一つも買えなかったから、私はとても悲しい。よって私の今日のおやつはコーヒーのみだ」
淡々と無表情で言葉を紡ぐ足代先生の姿を見ていて、生徒達の方も何だかブルーな気持ちになってしまっていますが、分かりやすくて間に挟む小話も面白く、必要なときは生徒達の分からないまたは知りたいポイントを確実にとらえた、生徒達からは大変評判の良い授業をしました。
授業が終わってからも、勉強熱心な生徒からの質問にはていねいかつ的確に答えてあげていました。
国語教師としての活躍を見せる一方で、足代先生は吹奏楽部でも顧問を務めていました。
第二顧問だったので指揮を振ったり全体に指導を施したりはあまりしないのですが、演奏が思うように上達せず落ち込んでいる部員を励ましたり、部活動における日頃のストレスが溜まった部員の愚痴を聞いてあげたりと、部員達の間でも信頼の厚い先生になっていました。
ただ、普段の授業は元より、部活動となると一層足代先生は変わった言動を起こしました。
「私は『音の洪水』の中に居るのが好きだ」
近くにいた男子生徒に、足代先生はふとそんなことを言いました。
「はあ……、『音の洪水』ですか?」
「宇宙のような静寂な空間の中に籠もって読書をするのも趣深くて好きだが、一つの小さな部屋で部員全員がそれぞれ違う音を出していると、音が部屋の中で飽和してひとつの不協和音のようになるだろう? 中にはそれをただの騒音だと嫌う奴も居るだろうが、私は鬱陶しいどころか安心するな」
「そうですか? こんなにうるさかったら読書なんて出来っこないでしょう」
「無音の部屋に一人の人間を閉じ込めると、やがて精神に異常をきたしてその人間は狂い死ぬって話を聞いたことはないか? 何の音もない空間に取り残されることほどの恐怖はない、自分の居場所に絶え間なく音が鳴り響いていることで、自分の存在がここにあるという証になる。だからこの音楽室でお前達の音を聞くと落ち着くよ」
いつもの足代先生と比べるとやや熱く語ってはいましたが、その話を聞き終えた男子生徒は、はあ、と曖昧な返事をすることしかできませんでした。
常人にはなかなか理解できない、変わり者の一言では片付かないほどの不思議な感覚を、どうやら彼女は有していたようです。
そんな足代先生独特の雰囲気は、自然と生徒達の心を惹きつけていきました。
そしてついに、先生としてだけではなく女性としても、一人の純粋な男子高校生の心をぐっと惹きつけてしまったようなんですが……。