エピローグ
…壁にぶつかっていた。
視界のまぶしさに彼はくらりとする。反射的に手を出す。ざらついた石の壁。陽の光を吸い込んだ暖かい感触。濡れた手が触れると、指の形の跡がつき、すっとすぐにまた乾いていく。
頭の芯に、冷たく光る金属の玉が幾つも詰まって回転しているような、鈍い重さが駆け回っていた。額に手を当て、濡れてへばりついたままの髪をかきあげる。
「…あの、大丈夫ですか?」
え、と彼は顔を上げた。若い女性の声。
「ひどい顔色ですわ…」
「サッシャ…?」
え? と日傘を持った女性は声を立てた。
いや違う。次第に視界ははっきりしてくる。同じ金髪だけど、彼女じゃない。青い瞳ではない。ミッシャもいない。
「…すみません、大丈夫です」
「そうですか? ではせめて、その膝にどうぞ…」
女性はそう言ってにっこりと笑うと、白いハンカチを彼に渡した。彼がありがとう、と言うと、ゆったりとしたおじきを一つして、立ち去って行った。
彼はそのまま道路の端に座り込むと、「けがしたところ」にハンカチを巻いて、縛った。もう何処にも傷はない。破れた服が、今までのことを嘘ではないと告げるが、だがそれだけでしかない。
ひどく暑かった。強烈な日射しが、降り注いでいる。
石造りの道路には、色とりどりの髪の人々が、色とりどりの格好をして思い思いに歩いている。見たこともない格好、見たことのない建物。足取り。風に混ざる匂い。
…ここは何処だ。
彼の脳裏に、ようやくその問いが浮かんだ。
少なくとも、あのハンオクのオクラナ、ココラヤ共和同盟ではないのだ。雨は降っていない。雲一つない青空、焼け付くような暑さ。じわじわと照りつけるその熱が、確実に、ここが「そこ」ではないことを、彼に気付かせる。
また、か。
彼は自分が、また時間と空間を越えてしまったことに気付いた。自分の中の何か、が宿主である自分を生かすために、それは行われる。
あの時と同じように。そして。
司令。
彼は内心つぶやく。
あなたは俺の、この天使種としても特異な、この性質が欲しかったんですか。ただそれだけなんですか。
予想はできる。先の絨毯爆撃の理由は、同胞を殺したという言いがかりだったという。きっと、俺は、その殺された同胞の役を当てられていたのだろう。俺は死なないから。本当に危険になったら、俺は、飛べるから。
判っていたつもりだった。あの司令に最初に出会った時から、あの冷ややかな瞳に見据えられた時から、そうなるのは。魅せられて、望む役割を果たそうと決めたはずだった。そのために大切な友人すら裏切った。
だけど、それは、判ったつもりだけだった、と彼は思う。
そうすることが、何なのか、俺は、本当に知ってはいなかっんだ。
彼は唇を強く噛む。一瞬、血の味が広がるが、すぐにそれはふさがる。忙しそうな人の群が、挙動不審な若者には目もくれずに、急ぎ足で通り過ぎていく。ざわめき。遠くで何やら奇妙な音楽が聞こえる。穏やかで、平和な光景。
それがいつの何処であるかなんて、どちらでも良かった。
とにかく、この瞬間、サイレンは鳴らない。
彼はゆっくり顔を上げると、空を仰いだ。何処までも続く青。目に痛い程の日射し。
…司令。
彼は声にならない声でつぶやく。
やっぱり、あなたは、間違っている。そして俺も、間違っている。
少なくとも、あの二人を、あの二人を取り巻く世界を、ああいう風にする理由が、俺には判らない。
最初の爆撃がなかたら、あの二人の両親は死ななかった。ミッシャは声を無くすことはなかった。
サッシャは里の人々に白い目で見られることはなかった。
少なくとも、もう少し、生きやすくなっていたはずだ。
あの、何処までも、生きることに強気の彼女を。
俺のせいなのかもしれない。
俺のせいでもあるんだ。
俺というコマが現れることを想定したことだというなら。
無論、それだけではないことは彼にも判る。自分が全ての元凶だと考える程彼はうぬぼれてはいなかった。
だが。
彼の中に、思っても見なかった言葉が浮かぶ。
…俺は、あなたに、逆らえるだろうか。
殺さないでくれと、少なくとも生かしておいてくれ、とあの司令から子供達をかばった大佐のように。
それは、大佐がそうしたことより難しいのは目に見えている。あの司令の網の目は、時間と空間を越えて、張り巡らされている。司令にとって、彼の行動は、許容される変数のようなものなのだろう。
それでも。
耳にはまだ、二人の声が、絡み付いている。
ミッシャに助けてもらった礼を言ってなかった。
サッシャに本当の名前を告げていなかった
生きなくては。行かなければ。
何処へ?
何処とも判らない。だが、あの時司令からなだれ込んできた遠い未来の記憶の中、自分は確かに、またあの司令と出会うことがある筈なのだ。
その時には。
その時までは。何をしてでも。
…彼はゆっくりと立ち上がった。
*
「反応が消えました」
スクリーンに視線を落としていたタニエル大佐は口にした。
「なるほど、飛んだか。貴官の今回の予想はほぼ正確だったな」
「…恐縮です。次の地点を走査致しますか?」
「いいや」
総司令は手を軽く振った。
「その必要はない。ご苦労だった」
珍しく彼の上官は、機嫌が良さそうだった。表情は変わらない。だが言葉の端
に、奇妙に楽しそうなものが感じられた。
タニエル大佐は立ち上がった。そしてそのまま、扉へ向かおうとしていた総司令に向かい、声を張り上げた。
「閣下、例の件ですが」
総司令の足が止まる。何だ、と短い問いが部屋の中に走る。
「貴官の辞職願のことか」
「はい」
「この作戦が終了次第の自主退役」
「受理していただけますか」
強烈な圧迫感が、彼の胸に感じられる。だが彼はこらえた。ここで妥協してはいけないのだ。どうしても。
総司令の目が軽く伏せられる。
「よかろう。今この瞬間をもって貴官をその任務から解く」
重々しい声が、部屋の中に響いた。
途端に、彼は自分を包んでいた重苦しい圧迫感が、霧散していくのを感じた。
総司令はそのまま扉を開けると、振り返ることもなく部屋から出て行った。
扉が閉まると、大佐は肩から階級章を取り外した。何やらひどく、肩が軽くなったような気がしていた。
*
お帰りなさい、と自室を開けたら声がした。一つははっきりした女性の声であり、もう一つは、まだ不明瞭な少年の声だった。少年は、片方の手を包帯で覆っている。
ああ、と答えながら大佐は、自分を待っていた二人の前をすり抜けると、クローゼットから大きなカバンを二つ取り出した。そしてその一つを彼女に手渡した。
「…何のつもり?」
青い目が、大佐を真っ直ぐ見据えた。
「昼間、当座に必要なものを買ってきたかい?」
「ええ」
「じゃそれをこれに詰めて、持っていけばいい」
「それはありがたいわ。だけどそっちは何?」
自分に与えられたものより一回り大きいカバンを彼女は指す。
「これは俺の分なんだよ」
「大佐」
「もう大佐じゃあないんだ」
四つの青い目が、大きく見開かれた。どういう意味よ、と強い声が彼に降り注ぐ。
「退役したんだ。もう軍人としての権利も何もない」
「じゃ、これからどうするつもりなの?」
彼女は眉を大きく寄せる。
「さあ。まだ決めていない。だけど一人だったらまあ、何とでもして生きていけるさ。それなりに長い間生きてる分は」
「じょうだんじゃないわよ!」
彼女の声に、大佐の予定は遮られた。
「一人って… あたし達はどうするつもり?あの時、焼け野原になった里から連れ出しておいて…」
「君達は自由だ。『協力者』だった分、軍から当分の間暮らせる程度の謝礼は支払われるだろう。当軍が占拠した区域、何処に住むのも自由だ」
「だったら、あたし達も連れていってよ」
「サッシャ?」
横で少年も、うなづきながら彼を見上げている。
「あたし達は、ううんあたしはね、ずっと、あなたを待っていたのよ」
彼の顔にふっと笑みが浮かぶ。だが、それは一瞬だった。彼は駄目だよ、と首を横に振る。
「どうして駄目なのよ。あたし達が一緒じゃ、邪魔なの?」
「いやそんなことはない。俺だって、君達のことをずっとこの十年の間考えてきた。定点に居るミッシャからデータを取る時にも、そうでない時に君の青い瞳を思い出すこともあった」
「だったらどうして?それとも、誰か、あなたの横には居るの?」
「いや…」
そんな余裕はなかったのだ。
あの司令の元で働くこの十年は。仕事とは言え、この二人の様子をずっと気にかけていることは、彼にとって、ほとんど唯一の安らぎだったとも言える。
だが。
「君の気持ちはうれしい。だけど、俺は、天使種だ」
「生きていく時間が違うっていうの? それがどうしたの? 今、そして手に届く範囲の未来に、あたし達は…あたしは、あなたと居たいのよ?」
サッシャは途中ですりかえる。
横で聞いているミッシャの方が、照れて顔を真っ赤にしている。姉はそこまで言うと、にっこりと笑った。
「…心配しなくても、それで一緒に居るのが苦しくなったなら、あなたの言う通り、勝手に何処へでも行くわよ。何したって、生きてはいけるわ。とりあえずの、今よ。どう?」
彼は十年前にはほんの少女だった女性をまぶしそうに眺めた。
そうだ。あの時も、弟を背負った彼女のそのこぼれ落ちる程の生気に、死なせたくないと思ったんだ。
「どお?」
彼女は繰り返す。
大佐は黙って、二人をまとめて抱きしめた。
*
総司令は執務室に戻ると、机の上に畳まれた布地を大きく広げた。
漆黒の空間に、ほんのわずかの色の差の黒い髪を長く、地を這う程に伸ばした大きな白い翼の天使が、長剣で何かを指し示している。
彼はしばらくそれを眺めていたが、やがてその白い指が、卓上の通信機を押す。何も伝える訳ではなかったが、彼付きの下士官が、一分としないうちに執務室の扉を叩いた。
「お呼びでしょうか」
「これをこの部屋の何処かに飾るがいい」
「何処か…」
「お前にまかせる。最後のオクラナの軍旗だ」
「は…」
下士官は先日壊滅させた惑星の名を聞いてびっと身構える。そしておそるおそる、受け取ったタペストリの陰から上官の様子を伺った。
だが総司令の白い顔からは、何の表情も読みとれなかった。