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6 「さよならサンドリヨン」

 にぶい感触が、背中全面に、かかった。そしてそれと同時に。


「ミッシャ! サンド!」


 サッシャは慌てて二人に駆け寄る。彼は軽く目を閉じて、自分の身体の損傷の度合いを推し量る。打撲は大したことはない… 何とか受け身が効いたらしい。だが。

 サッシャは弟に抱きついて思い切り揺さぶる。次に腕を見て、今度は青ざめる。そして。


「ちょ、ちょっとサンド…」


 彼女は息を呑んだ。下に敷いたクッションが、赤い染みを作っていた。ベルトに差し込んでいたはさみが、落下のショックで、彼の太股に深々と突き刺さっていた。


「…サンド…」

「大丈夫だよ、このくらいなら…」


 彼はやや頭がふらつくのを感じはしたが、そのままはさみをぐっと引き抜いた。傷まわりの布をそれで切り裂くと、大きく深呼吸をする。

 一瞬、血は強く吹き出したが、さすがに止まるのも速かった。


「そうじゃない。そうじゃないのよ…」

「…何だこいつは!」


 サッシャの背後から、声が飛んだ。何かが終わったのか、工場からぽろぽろと出てきた作業員の男の一人だった。彼女の顔色が変わる。何なんだろう、と彼は彼女にふと声をかける。


「サッシャ…?」


 すると彼女は、絞り出すような声で、こう言った。


「あなた本当に、馬鹿よ!」

「おいサッシャ… そいつ…」


 男は、早送りのムービーのように治っていく彼の傷を指さして、声をうわずらせていた。サッシャはきっ、と男を見据える。


「…何よ… 弟の命の恩人なのよ」

「こいつは、天使種だ!」


 彼女は反射的に飛び上がった。そして彼の手から素早くはさみを奪い取ると、黙りなさい、と工員の男につきつけた。


「サンド立って! 逃げて!」


 え、と彼は問い返す。


「…ニュースがさっきから言っているわ。交渉は、決裂したのよ!」


 傷は既に塞がっている。だが。

 その時、誰かが彼の手を引っ張った。ミッシャ、と彼は少年の名を呼んだ。少年は、ふらつく足取りで立ち上がる。そして使えない方の腕はだらりと垂れ下げたまま、彼の手を取った。


「逃げるのよ!」

「君は!」

「すぐ行くわ!」


 彼はぶるん、と頭を一回振ると、立ち上がった。治ったばかりの傷は、さすがに鈍い痛みを感じる。

 だがそれを気にしている余裕はなかった。ミッシャの赤くなった手のひらを掴むと、彼は走り出した。

 遠くで、サイレンが鳴っている。

 掴まえろ、と声がした。

 雨の中、彼は少年の手を引いて、走っていた。どんな近道をしたのか、濡れた髪から水を滴らせて、サッシャは、やがて彼に追いついた。そしてこっちよ、彼女の家の方向を指した。

 やや息切れがする。本調子ではないのを彼は感じる。いくら「優秀な兵士」の天使種とは言え、傷を治したばかりの状態の時に、いきなり走るのは辛いものだ。

 サイレンの音が空いっぱいに広がって聞こえる。どうしてこの音は、どんな場所でも奇妙なほどに不安を覚えさせるのだろう、と彼は思う。長く長く尾を引いて、よく響く低音が、鈍い色の空一面に走る。


「来るのよ、連中が」

「アンジェラスの軍勢が?」

「そうよ」


 サッシャはうなづいた。


「そう、ラジオが告げたのか?」

「いいえ。まだそれは告げられていないわ。だけど、彼等は来るのよ」

「どういう意味?」


 彼の足が止まった。突然のことに、手を掴まれたままのミッシャはつまづきそうになる。慌てて彼はその身体を支えた。

 雨が、音を立てる。


「…俺は、ずっと疑問に思っていたけど…」

「あたしが… あたし達が、あなたを天使種と知っていながら助けたこと?」

「そうだ」


 彼は大きくうなづいた。サッシャは口を開きかけた。

 だが、次の言葉を待つ余裕はなかった。

 背後に、気配がする。同じ色合いの集団が、家庭に常備されている凶器を手に手に、近づいてくる。

 はさみも、パスタを打つ棒も、何だって、いざと言うときには凶器となるのだ。


「…行くわよ!」


 サッシャは弟の手を彼から奪い取ると、走り出した。彼もまた、その後を追う。彼女の足は速かった。そして、彼以上に、自分の家の周りをよく知っていた。

 そして彼女の足は、ごくごく当たり前のことのように、あの林へと向かっていた。

 濡れた草をかき分けて、草を踏んで、草がちぎれて。

 ざわざわと草が互いの身体を触れ合わせる音。水のにおいや、濡れた遠くの舗装のにおい、林の木々のにおいに混じって、青臭いにおいが広がる。

 サイレンの音が、止まる。数秒。そしてまた鳴る。

 十秒鳴って、三秒止まる。十秒鳴って、三秒止まる。

 サッシャはふらりと顔を空に上げる。つられるように彼も見上げた。何処にも、青いところなどない、鈍い、低い雲がいっぱいにかかった空を。

 サイレンの音に混じって、何か別の低い音が、聞こえてくる。腹の底から、うねるような音が、不安を呼び起こす。

 そしてサッシャはいきなり声を張り上げた。


「来るのよ! いい加減に逃げたらどお!?」

「やっぱり、お前はそうだったんだな! あいつらの」

「そう思うなら思えばいいわ!」


 あいつらの。


 彼は思う。


 あいつらの、何だったというんだ。


 彼の躊躇など全く容赦もせず、サッシャはまた、彼の腕をぐっと引いた。


 …林の中に逃げ込むつもりか。


 彼はまた彼女の後について走り出した。


「あの女!」

「やめろ! お前も迷いたいか!」


 背後で声が聞こえる。木々がざわざわと、上の方で巻き起こっている風に揺れている。葉のすき間から、雨の雫が落ちる。

 林はそう大きくはないが、中が迷路のようになっていることは、どうやらこの里の人間はよく知っていることらしい。

 彼女は弟の手を引き、するすると木々の間をすり抜ける。ついていくのが彼には精一杯だった。やがて雨の粒は細かくなり、ゆっくりと降りてきた。あたりの景色がやや白く霞む。

 サイレンは鳴り響いている。

 そして景色が開けた。


 

「何でここの木々が倒れているのか、あなた判る?」


 サッシャはこぬか雨のふりしきる中、くるりと彼の方を向いた。青い瞳が、じっと彼を見据えている。こんな天気の中でも、変わらぬ色で。

 同じ瞳の少年は、この間と同じように、倒れた木の上に座ると、空を見上げている。だが、この間とは違い、その瞳の先に何をじっと見つめているように彼には思えた。

 何なんだろう。


「判らないよ…」


 サッシャの問いかけに彼は答えを言いかける。確かに草も生えない、この場所は変だった。

 入り込むと迷う「林」。森ではないのだ。何故「林」で迷う必要があるのか?

 だがだからと言って、それが何故か、なんて想像もできない。

 いや、一つだけある。彼女が、自分に、問うのだから。


「…十年前の、絨毯爆撃?」

「そうよ」


 答えは彼女の口からするりと飛び出した。


「その時に、一機の爆撃機が、ここに落ちたの。この辺りだけが急激な熱変化でやられたのよ」

「だけど周りは」

「その後すぐに、別の一機がやってきて、消したのよ。それは、消火剤だけ蒔くと、すぐにまた別の目標へ向かって行ったのだけど」


 嫌な予感が、彼の中に広がり始めていた。それは、サッシャと言葉を交わした最初から、自分の中にうっすらと浮かんでいたものだった。


「君たちは、その時、ここに居た…?」

「そうよ。うちの辺りも爆撃機がぽろぽろと爆弾を落としていくから、あたしはこの子を背負って走ったのよ」


 まだ十歳かそこらの少女が、三つの弟を背負って走る。サイレンの鳴る中、時には身を伏せて。汗まみれになって。時にはすり傷を作ったりして。そんな光景が、彼の中によぎった。


「さすがにこんなところまで爆弾を落とすとは思わなかったのよ。だけど、その代わり、飛行機が降ってきたわ。そして、その中のひとも」

「パイロットは…」


 生きていたのか、という答えを彼は飲み込んだ。


「そうよ、生きていたわ。多少のケガなら、すぐに治るのがあなた達でしょ?」

「好きでそう生まれついた訳じゃない」

「そりゃあそうよ。だけど、そんな台詞は、あたしの前で言って欲しくはないわ!」


 サッシャの声は、彼の胸に鋭く突き刺さった。


「皆、生きたかったのよ。あたしの両親も含めてね」

「…」

「でもそこに居る兵士一人一人を恨んだって仕方ないわ。皆生きたいんだもの。立場が違っただけよ。だけど、皆、生きたいからそうやって何とかしているのよ。どんな卑怯なことしたって、生き延びたいから、生きてくことを選んだから、そうしているのよ。今どんなに苦しくても、もしかしたら、明日は、少しでも変わるかもしれない、と思ってるのよ。ううん、思わなくちゃ、やっていけないのよ!」


 彼は凍り付いたように、その場に立ちすくんだ。


「そのパイロットは、あたし達を見つけたわ。そして自分が何をしているのか、その時やっと気付いたようね。階級は、大佐だったわ。名乗ったのよ。タニエル大佐だって。自分たちにセカンドネームは無いって。脅えるあたし達に近づくと、身につけていたバゲッジの中から携帯食料をくれたわ。ずいぶんと甘かった。あのひとだって、ずいぶんと疲れていたのに」


 サッシャは堰を切ったように話す。ミッシャは空を見上げたまま、じっと動かなかった。


「そのまま、あたし達は一緒に野宿をしたわ。動いたら危険だ、とあのひとは言ったのよ。おかしなものよね。実際その時は、だまして殺されると思っていたわ。だけどお腹は空いていたし、夜は寒かったから、一緒に居たのよ。ミッシャに上着を掛けてくれたわ。何ってお人好し」


 奇妙にその口調が楽しそうなのに、彼はふと気付いた。


「だけど翌日、あのひとの上官が、やってきたのよ。連れ戻しに来たのよ」

「聞いてもいいか? サッシャ」

「どうぞ」

「その上官、というのは、君があのタペストリに描いていた天使か? 黒い髪の」

「見たのね」


 彼女は唇に薄い笑いを浮かべた。


「見られたら願い事がかなわなくなるって言ったじゃない」

「どうなんだ」


 彼は重ねて問う。彼女は大きくうなづいた。そうよ、とその口は動いた。


「綺麗な人だったわ。その上官は。あのひとはその人を『総司令』と呼んでいたわ。かなり偉い人のようだった。その人は、あたし達を始末するように、と大佐に命じたわ」


 彼は息を呑む。あなたという人は。


「まあ当然よね。大佐が乗っていたのは新型の小型機だった。子供と言っても見られたのなら容赦はしないんでしょ。当然よね。戦争なんだから。それがそうゆう人の仕事なんだから。ところがあのひとはどこまでも大馬鹿だった」

「そのタニエル大佐が」

「そうよ」


 彼女はにっこりと微笑む。水滴が、金色の髪から落ちる。


「あたしはずっと待っていたのよ」


 少年は、空を見続けている。


「大佐は、どういう訳か、あたし達をかばったわ。殺したくない、ってその総司令に食い下がった。そしたら総司令ってひとは、彼に言ったわ。その子供は使えるのか、って。あの綺麗な顔で」


 彼には予想がつく。ああそうだ、あのひとなら言いかねないだろう。長い黒い髪、変わることのない、あの凍り付いたような表情で、きっと。


「何っていうかと思った。大佐はあたし達の方を見て、答えを探したわ。だけどなかなか見つからなかった。そりゃあそうでしょう。こんな田舎の惑星の子供二人に何ができて?」

「だけど、君達は生きてきた…」

「そうよ。生きてきたわ。できることなどないかもしれない、だけど、って大佐は食い下がったのよ。…そしたら総司令ってひとは、大佐に言ったわ。アンテナならよかろう、と」

「アンテナ」

「最初は何のことだか判らなかったのよ。だけど、そのうちに、ミッシャが喋れなくなったことに気付いたわ。そしてあの子が奇妙なくらいに、あちこちを見て歩くようになったこと。この林が迷路のようになったこと」

「まさかそれは…」


 かつて自分達の軍は、同胞を互いにアンテナ代わりにしていた。

 それはアンジェラスの人間の持つ特殊な能力のせいだった。普通の人間では… 

 だがあの人ならありうる、と彼は確信する。

 あの、遠い未来を知っているひとは。


「…総司令というひとは、何が起こったか判らないこの子に、アンジェラスの軍の、この地における『目』の役割をさせたのよ。そしてあたしにも」

「君にも?」

「十年以内に、自分達の軍の人間が落ちてくるだろうから、それが空へ帰るまで、かくまってやってほしい、と。あたしは一も二もなくうなづいたわ」

「…それじゃ、君は、俺が落ちてくるのは、知っていたんだな」

「そうよ」


 息が止まるか、と彼は思った。ここにもまた、あの時と同じように、網が張られていたのか。時間と空間を越えて。


「落ちていた兵士を拾ってきたのは…」

「さすがにどれが天使種かなんて判らないじゃない。だから手当たり次第にそうしなくちゃならなかったわ。…まだ小さくて人の世話になってる時には、納屋でかくまったりもしたわ」


 そこまでして、と彼は思う。


「きょうだいでやって行けるようになってからは、も少し楽になったけど…そんなことをしているうちに、里の中では、あたしに関して、結構な噂が立つようになったわ」


 あの隣の中年女が、眉をひそめたような。


「でもあなたが一番その中では綺麗さんだったわ」

「だからサンドリヨンと?」


 ふらり、と彼女は首をかしげる。


「見つけたなら、もう居るのは限られた時間にしかならないわ。十二時の鐘が鳴るのはもうじきよ。でも確信はなかった。何たって、あのひと達は、落ちてくる同胞が、どんな姿なのか一言も言わなかった。ただタニエル大佐も司令というひとも、髪は黒かった。目も黒かった。だから、落ちてた男、特に黒髪黒目のひとは、大事にしたのよ」

「じゃ君が、タペストリを作っていたのは」

「そうよ」


 彼女は大きくうなづいた。


「その時を、忘れちゃいけない、と思ったのよ。その後がどうなったっていい。何とかして、やっていく。だけど、確かに、あの時あたし達は、あの大佐がかばってくれなかったら、確実に死んでいたわ。あの司令というひとが怖かった。怖かったから、余計に、忘れてはならない、と思ったのよ」


 ああ、と彼はうなづいた。確かに。


「それで、君の願いはかなったの? 天使種の俺は、君達に助けられた。君達の役目は終わる。君は会いたいひとに会えるの?」

「会えるわ」


 彼女は満面に笑みを浮かべた。


「ラジオが伝えてくれたわ。あのひとがやってくる」


 ふとぴくん、とミッシャの顔が動いた。それまでも空に視線を向けてはいたが、その方向が、変わった。


「来るの?」


 姉の問いに、少年はうなづいた。サイレンの音に混じって、低い、地を這うような音が遠くに聞こえる。この音は。


「…爆撃機?」


 次第に近づいてくる音。やがてそのヴォリュームはサイレンの音を追い越した。遠くで、何かが爆発した音が聞こえる。彼女は弟を引き寄せる。


「…何故…」

「こうなるのが判っていたって聞きたい?」


 確かにそうだった。彼はそれを聞きたかった。


「…君の言うことは矛盾してる」

「矛盾してないわ」


 彼女はきっぱりと言う。


「里の他の人が死ぬのはいいのか?」

「いいとは思っていないわよ」


 首を横に振る。だが目は座っていた。


「だけどそれは、彼等の問題だわ。あたし達はあたし達で生きるためにそうしてきたのよ。そして彼等は彼等で、そういうあたし達に不審をもっていたわ」

「ミッシャがいじめられていたというのは」

「子供は敏感よね」


 そう言いつつも、姉は弟の肩をぎゅっと抱きしめている。


「だけどサンド、ミッシャはアンジェラスの軍に『つながって』いるわ。ずっと。命じられたことをしなかったら、死んでいたわ。裏切った瞬間、この子がこの里の人間に口を開いた瞬間、この子は殺される。『目』であるのが生きてく条件だったのよ」


 皆生きるためにだったら、何でもするのだ、と。彼は彼女のその言葉の中の強い意識に思わず立ちくらみがした。


「だからあたしはずっと待っていたわ。あなたが来るのを、その瞬間をね」

「だけど解放されるとは限らないだろう」

「そんなこと」


 彼女は言い放つ。


「その時が来なくては判らないわ」


 頭上に、飛行機の音が、近づいてくる。爆発の音がそれに絡む。なのに、彼の目には、サッシャもミッシャもひどく冷静に見えた。


「さよならサンドリヨン」


 サッシャの口が、そう動いた、気がした。

 彼女の背後の木々が、低い音とともに、巻き起こる風に、ざっと揺れた。彼女の金色の髪が、大きく舞い上がった。

 ばりばりと、光が、目の前に落ちてくる…

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