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5 ミッシャの危険に彼は立ち向かってみる

 大きな音を立てて扉が開いた。

 雨の音が、その間から飛び込んでくる。濡れた草の匂いが、漂ってくる。彼は磨いていた床から、顔を上げた。手にしていた雑巾が落ちる。彼は一人だった。雨降りだったから、工場からミッシャもお呼びがかかっている。彼は一人残されていた。

 適当に雑用をしながら、彼は付けっぱなしだったラジオが時々立てる音に、耳を澄ませていた。

 雑音の中にほんの微かに聞こえてくるニュースは、ひどく不安げな口調になっていた。交渉の経過。何っていう大佐だったのか、その名前がなかなか聞き取れない。

 そんなことで時間を潰しているはずだったのに。


「サッシャ… どうしたの、まだ仕事中だろ」


 はあはあ、と息づかいが彼の耳に飛び込む。

 立ち上がり、目をこらすと、彼女はずぶぬれだった。

 昨夜からの雨は、弱くなることもなく、ずっと降り続いていた。金色の巻き毛が、濡れてすっかりまっすぐになつて、彼女の顔のまわりにへばりついている。大きな、堅い布地の作業服が、すっかり水を吸い込んでその重みを倍にでもしていそうだった。

 そしてその腕が、水を飛ばしながら動いた。


「…ちょっと来て!」


 言うが早いが、サッシャは彼の手を引っ張って、飛び込んで来た扉を再び大きく開いた。

 だが彼女は、すぐに飛び出すことはできなかった。掴んでいたはずの手が、掴まれている。

 何すんのよ、と彼女は大きく腕を振り回そうとする。だがそれはできなかった。男の力は、思った以上に強かった。


「何よあんた、邪魔する気?」

「邪魔するも何も、一体何があったんだよ」

「説明している暇が無いのっ! あなた軍人だったんでしょ? 訓練受けてんでしょ? 手を貸してよっ!」

「だから、何が、あったんだよ! 落ち着けよっ!」


 振り下ろされる言葉に、彼女の動きが止まった。青い目が、大きく見開かれた。


「…ミッシャが…」

「ミッシャが、どうしたんだよ」

「いつものように、雨降り用の、布の乾燥広場のテントを張っていたのよ。あの子の仕事は、階上で大きな防水布を止めていくものだったわ」

「…そんな危険な」

「危険だろうがそうでなかろうが、必要だからするに決まってるじゃない! あの子はああ見えて身軽よ。それに仕事は丁寧だったから、重宝がられていたのよ! それにいつもだったら、命綱がちゃんと効いてるわよ!」


 いつもだったら。彼は手に込めた力を緩めた。


「…もしかして、サッシャ」

「切れたのよ! もう弱っていたから、どんだけ換えてくれ換えてくれって言ったか…あのケチ工場長! …ああそんな場合じゃないっ! いいえサンド、落ちた訳じゃないわ、落ちた訳じゃ。だけど、落ちるわ、このままじゃ!」


 それでようやく彼は、合点がいった。


「つまり、ミッシャは今、何処かで引っかかっているんだね? 命綱が切れて、高い所から、落ちて」

「そうよ! このままじゃ落ちる、っていうのに、誰も、助けるの、それ自体危険だって言って、誰もどうすることもできないのよ! あなた軍人だったんでしょ? そういう訓練受けてるでしょ? 助けてよ! 弟を!」


 顔中をくしゃくしゃにさせて、彼女は両手で彼の肩を揺さぶる。確かに、訓練は受けている… 様々な状況で生き残るための、訓練。学んだのは士官学校でだったが、そのコツを教えてくれたのは…


「…向こうにロープはあるの? 強度が…くらいの」

「え?」


 どうやら専門知識は無い。

 彼はいいよ、とうなづくと、履いていたサンダルから、家の中で見つけた、サイズの合いそうな靴に替えた。

 彼は奇妙に血が騒ぐ自分に気付いていた。その様子を見ながら、彼女はその時ようやく、ぶる、と身体を震わせた。初夏とは言え、濡れたまま走ってきたから、寒いのだろう。彼はその様子を見ると、そっと彼女の肩を抱いた。そして軽く背を叩くと、工場はどっち? と訊ねた。

 彼の腕を解くと、こっちよ、と彼女は髪の乱れを直しながら、外へと駆け出した。



 ざわ、と十人ばかりが動いた。色素の薄いその一団が、彼を連れてきたサッシャの方に一斉に視線を移したのだ。


「…何やってたんだ、サッシャ、あんた…」

「ごめんなさい副長、あの子、まだ大丈夫?」


 副長と呼ばれた初老の男性は、うなづきながら、腕を上げた。サッシャは副長の指す場所を見て、ややほっとする。ああまだ大丈夫、とつぶやく声が、彼の耳にも飛び込んできた。


「…だけど時間の問題だ。一応連絡もしてみたんだ、管区の救助隊の支部に… だけど」

「それで! …あの、いくらでも、救助に費用かかるなら、あたしの給金から引いて下さい! お願いです!」

「いやそれはいいんだ。そうじゃなくてサッシャ、いないんだよ、誰も」


 いない?、と彼女の眉は大きく寄せられた。その間に彼は、辺りをふらりと見渡した。何か使えるものは…


「さっきから、ラジオの方の様子もおかしいんだ」

「何… まさか、救助隊が、非常態勢に入ってるってこと?」


 副長は苦々しげな顔でうなづいた。そしてその時やっと、黒い髪を揺らせている彼に気付いたようで、サッシャに訊ねた。


「彼は?」

「…彼は…サンドは、一応軍隊の訓練は受けてるわ」


 サッシャは曖昧に説明する。それ以上のことは、彼女にも言えない。そして彼女は、彼の方へと声を張り上げた。


「どう? やれる?」


 彼は防水布を取り付けていたロープを幾つか手にし、器用な手つきで短い部分を結び始めていた。身体は記憶している。教わった、サバイバルの方法。どんな場所でも、あるものを、最大限に使え、と。


「…そんなもので大丈夫なの?」

「大丈夫も何も」


 正直言えば、無駄口を叩いている気分ではなかった。彼はミッシャの引っかかっている場所を見上げる。少年は、工場の建物と建物の間で揺れていた。

 建物の一方に、雨天用の防水布が常備されている。片側は固定されていて、そこからつながる強いロープでもって、二階のベランダから少年は、一つ一つの指定された結び目を作っていくのが仕事だったのだ。

 ロープは長い。防水布は、この地の軍旗製作用の布地に特殊防水加工をしたもので、長期間使用が可能なものである。従って、非常に重い。その重い布を広範囲で支えるのだから、ロープ自体も、実に長く、強いものでなくてはならない。

 だが取り付けることにはそう力は要らない。それにはある種のこつがあり、それさえ会得してしまえば、力は必要ないのだ。ただ、そのベランダ自体が、狭く、人が歩くような場所ではなかった。そして、少年は、突然の強風で、あおられ、バランスを崩したのだという。

 命綱は切れたが、運良くロープを腕に絡めていたから、そのまま落ちてしまうことはなかった。だが絡まったロープが、少年自身の力だけでは、解くことができなくなっていた。

 下でクッションを用意して、飛び降りろと言われても、強いロープを解くことも切ることもできず、無理だった。少年は、腕を強く締め付けられたまま、空中に揺れていた。

 高いな、と彼はつぶやく。

 工場の「二階」のベランダは、普通のビルの五階に相当する。少年が揺れているのは、だいたい四階くらいの高さだ。

 軍や救助隊の特殊緩衝材仕様のブーツを履いているなら、何とか飛び降りることも可能かもしれないが、あいにく足につけているのは、ただの革靴だ。底もあまりしっかりしていない上に、すべりやすい。

 ち、と微かな声を漏らすと、彼は再び少年の状態を推し量る。ぐったりと目を閉じている。

 気を失っているのか? だったらその方が都合がいい、と彼は思った。

 だが助けるなら助けるで、早くしないと、少年の腕も心配だった。助かったはいいが、強い力で締め付けられ続けている腕が駄目になりかねない。


「ナイフを貸してくれないか? サッシャ」

「…これでいいかしら」


 彼女は作業服のポケットから、やや大きめのはさみを取り出した。彼はそれを受け取ると、ベルトに差し込んだ。

 そしてつなぎにつないだロープを手にする。彼はその端を輪にして、ミッシャをかろうじて落とさずにいるロープが留められている突端を見上げた。

 ふと見ると、サッシャは両手で口を押さえている。その手が震えている。ああ不安なんだな、と彼はまぶしそうに目を細めた。

 大丈夫、と言えたらどんなに楽だろう? 彼はサッシャに背を向けると、ロープの端を空に向かって投げた。三回目に、輪はその鍵状の突端に上手く引っかかった。彼は、壁を登り始めた。

 サッシャを一応安心させるために、ロープの端を自分に巻き付けてはいたが、正直言って、それは命綱にはならなかった。長さが、合わないのだ。落ちたら、確実にケガはする。


 ―――ケガする程度で済むだろうが。


 彼は内心つぶやきながら、ざらざらとした淡い小豆色の壁を登る。

 それ自体は、そう難しいことではないのだ。時々ちらちらと下のサッシャと上のミッシャに目をやる。ずっと彼女の動きは止まったままだった。

 動いたのは周りの方だった。

 何かあったのだろうか、と彼はいきなり建物の中に飛び込んで行った工員達を見て思う。その場にはやがて、サッシャと、副長と呼ばれていた男と、あと数名の女性が残ったきりだった。

 ず、と一瞬足がすべる。壁が軽く粉を吹く。サッシャが息を呑む音まで聞こえてきそうだった。

 やりにくい、とはさすがに彼は思った。だがどんな環境でも、その場の最善を尽くさなくてはならない。そうしなくては生き残れなかったのだから。


 …生き残りたかった?


 ふと彼は、何か頭の中に光のようなものがよぎったのを感じた。


 俺は、生き残りたかったのか?


 少年が、片手だけを空に突き出したような姿で、宙に浮いている。彼は手を伸ばした。なかなか届かない。筋がつりそうなくらいに腕を一杯に伸ばしても、少年には届かない。彼は顔をしかめる。

 ふと、友人の言葉が頭の中をよぎった。


 君は奇妙だよ。全てを捨ててしまいたいような顔をしてるのに、そんなことは、上手くこなしてる。俺と同じ戦場で一緒にやっていける。普通の奴なら十回くらい軽く死んでるさ。


 明るい声。天上から降り注ぐような、金色のトランペットのような。


 別に生き残らなくてもいいんだって言ってる割には、君は、君の無意識は、何とかして生き残ろうとしているんだ。


 そんなことないよ、とその時彼は答えた。やりすごしてるだけだ。とりあえずだ。その時何か考えている訳ではない。

 だけど。

 どうしてそんなこと考えるのかなあ、とあのレプリカントのやや舌足らずの声がよみがえる。


 そんなややこしいこと、お前俺とやりあった時考えていた?

 違うだろ。お前その時何も考えていなかったじゃない。お前は俺と剣を交わした時、ただもう生きようとしていたじゃない。何でそうゆう自分の方が、本当だって思えない訳?


 彼はミッシャをつないでいるロープに手を伸ばした。指先がかすめる。少しロープが揺れる。

 彼は眉を寄せると、唇を噛んだ。く、と声が漏れる。そして届いたロープを少し軽く押してみた。

 反動が、来た。彼はロープを強く握った。

 だがその後が問題だった。ロープは捉えた。だがそのロープからどうやって少年を離せばいい? 彼はミッシャにできるだけ傷一つつけたくはなかった。


 優しいねえ。


 舌足らずの声が聞こえる。


 でも、それでいいんじゃない?


 ああそうかもな。確かにそうだ。だったら、どうすればいい?


「…ミッシャ」


 彼は、少年の名を呼んだ。返事はない。気を失っている。だけどそれでは、どうにもならない。彼はロープを強く引っ張りながら、声を張り上げた。


「ミッシャ!」


 少年は弾かれたように目を開けた。揺れる感覚と、「自分の名前」の効果は大きかったらしい。だがすぐに、吊られている腕に走る痛みに少年は顔を歪めた。そして自分の名を呼んだ相手にゆっくりと視線を移し…

 少年の瞳は大きく見開かれた。

 綺麗な青だ、と彼は思った。晴れた日の、空の青だ。

 これを、落としてはいけないのだ。


「…ミッシャよく聞いて。俺は君をつないでるロープを切りたいんだ」


 少年はうなづいた。


「だからよく聞いて。空いている方の手で、こっちのロープを掴むんだ」


 もうその時点では、引っ張ったせいか、少年の身体はずいぶんと彼の方に近づいていた。

 ミッシャは再びうなづくと、自分の手に絡んでいるロープの上に、手を伸ばした。しっかりと掴む。ロープと共に辺りに垂れ下がる重い布に足を思い切りぶつけた。

 堅い、ざらついた重い布。蹴りつけたら、反動がかかる。少年の身体は前後に揺れた。彼は反射的に、壁につけた足を横に走らせた。


 !


 手もとのロープがぎし、と音を立てた。ミッシャの手が、彼の手の上にあった。

 だがまだそれだけでは安心できない。まだ向こう側のロープは絡まったままだし、少年の体力も心配だった。


「しっかり掴んでいて。絶対に放さないで」


 彼は囁き、ミッシャに自分のロープを任せると、吊られた布のロープにと飛び移った。

 少年の息を呑む音が聞こえる。まだこの方が近い。彼はベルトに挟んだはさみを取り出した。それはひどく大きく、何度もきちんと研がれたような色をしていた。彼は布の厚く重なっている部分に足を絡めると、ロープごしに少年の手を拘束している一本に近づいた。


 …これはまずい。


 少年の手の色は、ひどい色になっていた。締め付けられているだけではない。自身の体重までかけて、結構な時間、宙に揺られていたのだ。放っておくと、使い物にならなくなる。

 彼は布を挟んでいる股に力を入れると、両手を放した。そして片手でロープを掴むと、はさみに入れた手に力を込めた。

 親指の付け根が痛い。繊維一本一本が非常に強いのだ。一度には無理だ。彼ははさみを、ナイフのように持ち替えて、凄まじい勢いでロープを擦り切り始めた。細かい繊維が一本一本切れていく。汗が背中を伝っているのが判る。額から流れているのがわかる。何も考えている暇はないのだ。

 少年はその間、じっと彼のその姿を見つめていた。

 それでも次第に、ロープに切れ目は入っていった。汗ばんだ彼の顔に、長い前髪が貼り付く。

 やがて、繊維の切れる速さが増していった。

 ある時点から、それは連鎖反応のように、ぷちぷちと音を立てるかのように、切れ始めるのだ。確かに強い繊維だが、その一本一本で少年の身体を支えられる訳ではない。

 彼は顔を上げ、ミッシャの方を確かめた。そしてはっとして再び少年の名を呼んだ。ミッシャもまた、弾かれたように体勢を立て直す。だが、片手でそれをするのは難しい。そして吊られている訳ではない分、今度は力が要る。吊られていた手にも痛みが戻ってくるだろう。


 急がなければ。


 彼ははさみを握りしめる。ぷちぷち、と繊維が切れる。繊維の一本一本が立ち上がる。

 そして最後の数本となった時だった。突然、腕がそこから滑り落ちた。

 数本の繊維では、支え切れない。

 ぐらり、とミッシャの身体が揺れた。吊られていた腕が突然重力に従ったので、バランスを崩したのだ。少年は目と口を大きく開けた。彼は手を伸ばした。ミッシャも手を伸ばした。

 ロープを握っていた手が、赤く、見える。

 手が、離れていく。

 だが彼は次の瞬間、迷わなかった。淡い小豆色の壁を思い切り蹴りつけて、彼もまた、宙に舞った。


 どうしても。


 彼は両手を伸ばす。


 俺はあの瞳を、永遠に閉ざさせたくないんだ。


 サッシャの叫び声が耳に飛び込む。

 だが、その声が、途中で合唱になっているのに彼は気付いた。よく似た、だけど、もっと、細い、遠い声。

 彼は少年の足を掴んだ。手を掴んだ。そのまま抱きしめる格好になる。体勢は?

 下でサッシャがベッドの四倍くらいの大きさのクッションを引きずっている。


 どうしたんだろう。誰も彼女の手伝いをしないのだろうか?


 奇妙に冷静な考えが頭をよぎる。

 そしてその時、声が、何処から来るのか、彼はやっと気がついた。


 あの子の声は、精神的なものなのよ。


 サッシャの言葉がよぎる。彼は、少年の頭を胸に抱え込んだ。


 …君は、生き残りたいんだよ。


 懐かしい声。

 それでいいじゃないの。

 同じ姿が、繰り返し繰り返し、頭の中によぎる。

 そして。

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