12.霧中の兎③
朝特有の澄んだ空気が、さわさわと頬に触れて流れていく。
簡素な馬車に荷を括りつける自分の姿を遠くに眺めやりながら、俺は南平原の片隅に腰掛けている。崩れかけたセントレア外周の壁面にもたれかかってそうしていると、目の前に山積した様々な問題を、どこか遠い出来事のように俯瞰できる気がした。
あながち気のせいでもないだろう。実際、俺が身を置いているのは相対的に過去の世界だ。どれだけ願っても到達し得ない、遠い世界であるべき場所なのだから。
四日前の朝。つまり今日、この時。
俺と皇女ふたりはカタリナに見送られて皇都に向けて出発した。
あの時の俺は何も知らず、抱擁を交わす皇女と侍女を、ただ微笑ましく眺めたと記憶している。だが、豆粒ほどの大きさで今も見えるその光景には、その時の俺には思いもよらなかった別の意味が隠されていた。
全てを知っているわけでもなく、当事者でもない俺が、彼女らにそれを伝える日は来ないだろう。俺は、知ってしまった断片的な真実を墓まで持っていくつもりでいる。
そしてあの時、「子の幸せを祈らない親などいない」と言ったジャン・ルースも、恐らく同じ覚悟でいる筈だ。
だから、この話はここで終わりだ。誰に知られる事もなく、終わるのだ。
徐々に遠ざかっていく馬車と、その荷台に乗った皇女二人の姿を見送り、俺は立ち上がった。土と枯れ草の付いたマントをばさばさと払い、固くなった首と肩を回すと、すぐ傍らで壁にもたれかかって馬車を見ていたサリッサが、長く閉ざしていた口を開いた。
「もういいの?」
「いつまでもこうしちゃいられないからな」
「……そ。まあ、そりゃそうよね。どうせ、またすぐ会えるわけだし」
「ああ」
微風に髪をなびかせる槍の少女と笑い合い、俺達は街に向かって歩き出した。
最遅で明後日の晩。俺達はそれまでに全ての問題を解決し、アズルに到着していなくてはならない。時間は限られている。
「大きい方のサリッサはもう出発したのか?」
「大きい方って……ああ、それなら……ほら、ちょうどあそこにいるわ」
そう言ってサリッサが指で差し示した方向を見ると、馬車が走っていった道をなぞるように歩く人影があった。黒い槍と荷物を担ぎ、赤いインバネスコートを着た黒髪の少女が、まるで散歩にでも行くかのような軽い足取りで進んでいた。
呆れるしかない。まさか徒歩移動だとは思わなかった。アズルまでは馬で一日かかる距離だというのに。いや、初めて会った時も、この少女は徒歩で皇都方面からやってきたような気がする。
「どんだけ健脚なんだよ」
「山のひとつやふたつを越えるくらいでへばっちゃう方がヤワなのよ。あれくらいの距離なら休憩も要らないわね」
「世界広しといえどもお前だけだよ、それは」
「へえ? あんたの見識が浅いんじゃないの?」
ぺろっと舌を出して笑うサリッサ。
小生意気なその顔を見ていると、何となく気になったことがあった。
「そういえば、なんで俺達を追いかけたんだ? やっぱり二人が心配だったのか?」
「ん? あー、そうね……」
勝手に動機を推測して納得こそしてはいたが、あんな風に着の身着のまま出立したとは想像もしていなかった。
如何なる心理だったのかを確かめずにはいられなかったのだが、サリッサは少しだけ思案するような様子を見せた後、人指し指を唇にあて、小さく言った。
「内緒」
***
休業の札が掛けられたベーカリーの店内に、パン屋の制服ではない、本来の姿をした九天の騎士達の姿が並んでいた。平時であれば商品棚いっぱいに陳列される筈のパンは、今日に限っては一個も見当たらない。
騎士達の前に立つ店主の少女、カタリナも、普段とはまったく異なる服に身を包んでいる。ミラベルから借り受けた修道服だ。その上から僧衣を羽織り、幻術によって髪の色も銀に変じている。
初見では本人と並べていたので気が付かなかったが、別々にして見れば驚くほど良く似ていた。九天の騎士達は昨日も目にしているはずで、しかし、それでも一様に言葉を失っている。昨日は店の外で立ち仕事をしていたヴォルフガングなどに至っては初見なのか、口を半開きにして呆けている始末だった。
九天の騎士は、単独行動をしているらしい毒蛇、相変わらず治療中であるクリストファと、戦線を離脱したジャンを除いた六人だ。カタリナの隣に控えるサリッサと、こいつだけは逆にパン屋で働いているところを見たことがないウィルフレッドに、その隣で縮こまっているハリエット。なぜか印象の薄い二人組の騎士、バルトーとアウロラ。そして、まだ呆けている筋肉達磨のヴォルフガング。
あと、アウェー感に溢れる俺も、店の隅っこで前日の売れ残りだというカレーパンを齧っている。カタリナも数に入れれば、なんとか八人。
今回はこのメンバーが戦力の全てとなる。
「既にお話したとおり、残念ながら我々もカレーパンを売っている場合ではなくなりました。両殿下は既に街を離れられましたが、この間に、セントレアに潜伏していると思われる敵対勢力《夜の者》を撃破しなくてなりません」
「んー、まあ、皇女様たちに味方するかはともかくとしても……異端者が相手じゃ、仕方ないやねえ。あいつら、何するか分かったもんじゃないし」
アウロラがカラカラと笑い、ボブカットを揺らした。容姿端麗な細身の女性騎士だが、無骨な鋼鉄の甲冑を纏っている。
彼女の相方であるらしい、人の良さそうな印象の青年騎士バルトーもお揃いの甲冑だ。彼は糸のように細まった目をカタリナに向け、整然とした口調で言った。
「既に水星天騎士団に被害が出ていると聞いています。あちらも独自に対応を始めているようですが……如何しますか、お嬢?」
お嬢ときたもんだ。
呼ばれたカタリナはさして気にする風でもなく、バルトーに向かって鷹揚に頷いた。
「彼らとも連携して動きましょう。ウィルフレッドさん、あなたは水星天騎士団の出でしたね。手間を掛けますが、副団長殿に繋ぎをお願いできますか」
「は、はい!」
日頃の五割増しで雰囲気がある――既に貫禄すらを見せつつあるカタリナに飲まれているのか、若き騎士ウィルフレッドは気圧された様子で頷いた。
意外にも異界のものと遜色なく、ちゃんとカレーパンをしていたカレーパンを食べ切って包み紙を丸めた俺は、カタリナへ向けて目配せをした。整った眉を僅かに持ち上げた彼女は、居並ぶ騎士達に向けて声を張った。
「やや人海戦術気味で申し訳ありませんが、まずは街の中を隅々まで洗いましょう。街の南部及び西部と、東部及び北部の二手に分かれて索敵を実施します。前者はアウロラさん、バルトーさん、ヴォルフガングさんでお願いします。残りのメンバーで東部と北部を洗いましょう」
「ほほーう、人選の意図を説明して頂けますかなー?」
アウロラ女史がニヤリと笑みを浮かべた。同性の年下にちょっと意地悪でもしてやろうというのか、単に面白がっているのか。
いずれにせよカタリナは動じなかった。もう慣れているのかもしれない。笑みを浮かべて返答を待つアウロラの顔を見やり、ニッコリと笑って言った。
「相性です」
途端、アウロラの細い顎がガクンと落ち、顔色が真っ青になった。
「お……横暴だよ、お嬢……! だったらなんであたしとハゲが一緒なのさ……!?」
ハゲ。
バルトー氏の頭髪は、見たところフサフサである。該当する人物は一人しかいない。
全員の視線がヴォルフガングに集中した。
より具体的には、見事に剃髪された彼の頭部にだ。上半身裸で筋肉を曝け出した巨漢は、巨躯に見合わず繊細なようだった。茹でたタコのように真っ赤になった。
「ば、馬鹿者! これはスキンヘッドと言うのだ!」
「ハッ! ちょっと薄くなってきたから全部剃ってるんだろ!? 知ってんだぞ!」
「……で、出鱈目を言うでないわ!」
ぎゃーぎゃーと言い合う相方と筋肉達磨の間に立つバルトーは「まあまあ」とか「落ち着いて」とか言いながら二人を宥めようとするが、焼け石に水だ。掴み合いになりかかった頃合で、カタリナはニッコリ笑顔を崩さずに言った。
「安心してください。半分は冗談ですよ」
微妙な顔をして停止する二人の騎士。
訪れた静寂の中、「半分なんだ……」というサリッサの呟きが微かに響いた。弛緩した空気を払うように咳払いをしたカタリナは、表情を固く改めて告げた。
「真面目な話をすると、敵は武器が通用し難い相手であるようですので……万が一、戦いになった時に備えて、それぞれに魔術師を配しておこうという判断です」
魔術師――つまり魔法を主体として戦闘を行うのは、この中ではヴォルフガングとハリエットだけだ。カタリナも魔術師と言えるだろうが、体質の問題で魔法が使えない。
逆に言えば、夜の者に対しては魔法が決定打になり得ると俺は考えている。九天レベルの使い手であれば、優位に戦いを進めることが可能であるはずだ。
「……へーえ、誰の入れ知恵だかねえ」
先程までの子供じみたやり取りとは打って変わった、冷たい笑みを浮かべたアウロラが俺を見た。俺は取り合わず、肩をすくめるに留めた。
一部を除いた九天の騎士達にとっては、俺は未だ不倶戴天の仇敵のままである。別に好かれようとも思っていないので、それは一向に構わない。ただの協力関係で十分だ。
役割分担と方針の大まかな確認が済むと、南部を担当する騎士三人は軽口を叩きながら出発していった。
収穫祭で人がごった返しているため、異様に目立つ格好をしている騎士達が街を歩いていても、混乱を招くほどの不自然はないだろう。巨漢と双騎士を見送った俺は、店内に残された四人に向き直った。
「本当に大丈夫なのか、あいつらは」
「喧嘩するほど仲が良いって、よく言うでしょ。あの二人は大体あんな感じだから、特に心配は要らないわ」
言いながら、サリッサもトコトコと歩いて店を出て行った。
そういうもんかね、と呟いて頭を掻いていると、小走りに近寄ってきたハリエットが物凄い勢いで頭を下げてきた。
「きっ、昨日はありがとうございました! あの後、ウィルフレッドさんと北の宿を訪ねてみたんですが、あんまり怪しい人は見つからなくて……!」
「……あー、そうか。役に立たなくてすまなかった」
「いえいえそんな!」
強い語調で言い、大きな帽子の下で両手を振るハリエット。その、妙に可愛らしい仕草に思わず苦く笑ってしまい、サリッサの後を追って店を出ようとしていたカタリナに冷ややかな視線を注がれてしまった。
まだご機嫌斜めな様子だ。危うく顔に出そうになる落胆を押し留めつつ、俺はハリエットに向かって右手を差し出した。
「不本意だろうけど、今日のところは協力して頑張ろうぜ」
握手をするつもりで差し出した手は、しかし、握り返されることはなかった。
とんがり帽子の下に覗くハリエットの口元は、穏やかな表情を浮かべて止まっている。よほど嫌われているのか、と少しだけ傷心する俺だったが、やがて黒手袋に包まれたハリエットの左手が持ち上がった。
俺は、僅かに放心した。
「こちらこそよろしくお願いします」
「……あ、ああ」
おずおずと握手を交わしたハリエットが、またも小走りに店を後にする背中を眺めやり、どっしりとした木製のドアが音を立てて閉まるまで、俺は思惟に耽っていた。
最後に残ったウィルフレッドが目の前に深刻そうな表情を浮かべた顔を近付けるまで、まったく気付かないほどだった。
「門番、ちょっと気になっていることがあるんだ」
「言ってみろ」
「どうも……気のせいかな。サリッサが昨日より小さく見えるんだ。おかしいな。これも、なにかの幻惑魔法なのかな」
――説明してないのかよ!
俺は思わず頭を抱え、盛大な溜息をついた。
誰も何も言わないので、本人がうまく説明しているものだと思っていたが、サリッサの性格を考慮すれば、面倒くさがってそのまま忘れているという線が濃厚だ。
「……本人に聞け」
「ええっ? 昨日の今日で話しかけるのはちょっと気まずいよ」
「知らん。本人に聞け」
この連中には付き合いきれん。
図太いのか繊細なのかよく分からないウィルフレッドを押しのけ、俺はふらふらと歩いてドアの方へ向かった。




