8.七万と三千
夜闇に白い魔素が漂っている。
どこぞのご家庭から漂ってきたものだろうか。付呪なる魔法技術の産物である火魔法の焜炉や魔力灯は、込められた魔法の出力に比例して魔素や精霊を放出する。可視化するほどの濃度は珍しいが、祭りという時期もあって生活魔法の需要が高まっているのだろう。
酩酊まではほど遠い量ではあったものの、アルコールによって体温が増している。ふーっと吐いた息が白く霞んで消えていくのを横目に、俺は石畳の街路を進んでいた。
同じように白い息を吐きながら、冷えた空気の中を歩くカタリナは鳶色のインバネスコートを羽織っている。以前、サリッサが着ていたものと意匠は全く同じだった。もしかするとベーカリーの制服なのかもしれない。
とすると、九天の騎士たちも同じものを持っているのか。ヴォルフガングのような巨漢が洒落たコートを着ている様を想像しようとして――挫折する。獣の毛皮あたりで身を包んでいる方がよほど似つかわしい。
ちら、と視線を動かしてカタリナの様子を窺う。
俯き加減で歩く赤毛の少女の表情は、特に変化がないように思えた。
人の顔をべたべたにして逃げていったサリッサに比べれば、よほど平静を保っているように見える。いや、そう見えるというだけで実際は異なるのかもしれない。元々、俺はサリッサやハリエットだけでなく、カタリナのことも良く理解しているとは言い難い。
田舎門番であるところの俺と皇都で生まれ育った騎士候の息女は、本来であれば住む世界が根本的に異なっている。今でこそ同じ街に住み、同じような目的のもとに行動を共にしてはいるが、何事もなければ全く異なる人生を過ごしているはずだった。
その隔たりは、俺の貧相な想像力では埋めがたいものだ。
再び白い息を吐き、冷えた、澄んだ空気を吸い込んで思考を切り替える。
剣帯から吊り下げた袋から目当ての品を取り出し、カタリナに向けて差し出した。
「これを」
赤い宝石のような見た目の立方体を、カタリナは目を瞬かせておずおずと受け取った。もしその両目が淡い光を宿していなければ、なんと説明したものか苦慮する羽目になったのだろうが、そんな必要はなさそうだ。
「これが例の火葬ですか。ずいぶんと……複雑な構造ですわね」
「どういうものか分かるか?」
叡智の福音であれば、と願わないではいられない。
なにせ、俺やサリッサにはただの綺麗な石にしか見えないのだ。人死にまで出して入手した代物なのだから、見合うだけの情報は得ておきたいところだった。
「見てみましょう」
夜風に紛れて消えてしまいそうなほど微かな声量でそう言うと、カタリナは片目を閉じて月明かりに立方体をかざした。
そうしてみると、俺にも見えるものがあった。薄っすらと透けた赤い石の中に細かい模様が縦横に走っているのだ。びっしりと。まるで集積回路のように。
「これは……魔法陣ですわね」
「魔法陣って、魔法に使う魔法陣か? 小さいな」
まともに魔術を学んだことがない俺には、ただの細かい模様にしか見えなかった。
魔法の構成要素は大まかに二つある。
詠唱文と魔法陣だ。文章と図で魔素に命令を与えて魔法を実現しているのだそうだが、魔術をざっくりとしか理解していない俺には、それ以上の事は分からない。
この詠唱文と魔法陣は、魔法の効果に比例して文章が長くなったり、紋様が大きくなるらしい。複雑で大きなことをやろうと思えば、それだけ魔素に与える命令の数も増えるからだ。
大魔法ともなれば、魔法陣がバカみたいにデカくなる。セントレアの外壁全周を占めていた忘却や、マリーが使う女神の神殿などがこれに当たる。
アズルやランセリアのような転移街にある転移門が巨大なのも同様の理由だ。ああいった巨大な付呪器具は、起動する度に専門の術師が長ったらしい式句を延々と唱えなければならないらしい。
――という魔法理論で考えると、ごく小さな魔法陣で構成されているらしい火葬は、効果が小さい魔法であるということになる。拍子抜けだ。
「確かに小さいですが、見た目どおりのものではないようです。工夫が施されていますわね。平易な言葉で表すと……三次元回路といったところでしょうか」
「お、おう……全然平易じゃないぞ」
福音の力なのだろうが、回路などという単語がウッドランド人から飛び出すこと自体が驚きだ。苦い顔をする俺を一瞥し、カタリナは立方体を掌で弄びながら言った。
「適当な大きさの紙を思い浮かべてください。その紙に魔法陣を描くとすると、紙の大きさより大きな魔法陣は描けませんわよね?」
「そりゃそうだろう」
「だから、もっと大きな魔法陣を描くためには、もっと大きな紙を使ったり……縦や横に紙を継ぎ足したりしなければいけません。それが従来の発想……つまり、既存の大魔法です。でも、この宝石は違った発想で作られていますわ」
顎先を指先でなぞり、俺は首肯した。
合点がいった。平面的に広げるのが既存の大魔法であるなら、三次元とは即ち。
「紙を重ねたのか」
平面的、二次元的に表現された情報よりも、立体的、三次元的に表現された情報の方が、情報量としては当然多くなる。
「そのようです。加えて、魔法陣を構成する紋様ひとつひとつも微細化、効率化されていますわ。これを通常の魔法陣に換算すると、転移門の大きさを恐らく超えます」
「嘘だろ」
空恐ろしくなる話をさらりと告げ、カタリナは赤の立方体を握り締めた。
「効果については……破壊魔法だという話からすると妙な術式に見えますが……少し時間をください。きちんと分析してみます」
「手間掛けさせて悪いな」
「いいえ。術式の構成を知り得ても、その意図までもは見通せないというのは……神の力という割には詰めが甘いというか……もどかしいですわ」
「なかなかに融通が利かないんだ。福音ってやつは」
毒づいてみたはものの、福音に対して以前ほどの嫌悪感は沸かなかった。
これはいったいどうしたことか、と軽く自問してみるも、今ひとつ原因に心当たりがない。およそ全ての戦闘能力を剣の福音に依存している自身の在り方は、やはり、どうあっても肯定できないものに思えるのだが――到底、否定し切れるものでもない。
慣れや、諦めなのかとも考えるが、それにしても千年は遅過ぎるというものだ。
「やっぱり、少し変わりましたわね」
歩を進めながらかけられた言葉に顔を上げると、カタリナが立派なお下げを指でいじりながらこちらを見ていた。
「俺が?」
「以前のアキトなら、ここまではっきりと誰かを頼るなんてしなかったように思います。良い意味でも、悪い意味でも」
「そうかな」
「そうですよ。心なしか顔色もいいようですし」
拗ねたような、咎めるような、口調。
俺自身のことはともかく、そういうカタリナも少し様子が変だ。月明かりの下で青白く見える顔が、やや強張った表情を浮かべているように感じられる。
「前はいつも眉間に皺が寄っていて、どこか遠くばかりを見ているような……そんな雰囲気でしたが、今は少し違います。目の前のものをきちんと見ているというか、ちゃんとここに居るというか……言葉にするのが難しいですわね」
「それじゃまるで俺の足が地に着いてなかったみたいじゃないか」
「違って?」
「……違わないけども」
俯きがちの上目遣いで放たれたカタリナの問いに、俺は正直に応じた。
名もない村で一夜を明かした際、マリーにも言われたことだ。俺は周りが見えていなかったように思う。過去にばかり目を向けていて、現在をどこか軽んじていたのだ。今にだって大事なものが沢山あるくせに。
「泣き言ばかりほざくのは、もうやめたんだ」
自分にも言い聞かせるように心中を吐露する。
カタリナが驚いたような顔をした。何事かを言い掛けるが、先んじて言葉を続けた。
「もちろん、後悔が綺麗さっぱりなくなったわけじゃないさ。今だって往還門で千年前に戻れたらどんなに良いだろうと思うよ」
「アキト、それは……!」
カタリナが弾かれたように顔を上げた。
皆まで言われずとも分かっている。仮に千年前に戻れたとしても、時間の逆説が起こる危険性は今の比ではない。僅か五日前に干渉するのとは訳が違う。
この現界が現在の形になっている、おおよそ全ての原因が千年前にあるのだ。そこへ干渉すると、この世界は大きく変貌することになるだろう。
しかし。
我知らず握り締めた篭手の鉄板が、みしりと音を立てた。
「往還門による時間遡行が五日間だと仮定すれば、およそ七万三千回。たかが七万三千回同じことを繰り返せば、戻れるんだ。全部やり直せる。過ちの全て、何もかもを。こんなに魅力的な話もないだろ」
「た、たかが……って……」
まるで常軌を逸したものを見るかのようなカタリナの眼差しに、俺はいつのまにか自分の語調が荒くなっていたのを自覚した。惑いを振り払うべく頭を振り、抱えていた鉄兜を再び被る。それから、胸に詰まった何かを吐き出すように、ちゃんと諦め切れるように、言った。
「どうしても会いたい人だって居る。でも、それは叶わない。叶えちゃいけない。戻るのでもなく、止まるのでもなく、前に進む為に。泣き言なんて言っていられない」
という言葉すらも、やはり泣き言なのかもしれない。
反省しつつ、兜のバイザーを下げる。夜の闇に加え、兜越しにもなると視界不良が著しい。殆ど見えなくなったカタリナの姿が、ちらちらとスリットの向こうで動いた。
「やっぱり変わりましたよ。アキトは」
ぎこちない笑顔と共に放たれたその言葉が、やけに寂しそうな響きを伴っていたように感じたのは俺の気のせいだろうか。
パン屋の手前、数百メートルといったところで立ち止まった俺には、確認するような暇は与えられなかった。
深夜と言えそうな今の時間には、祭りの中心である商店街にも人の姿がない。
宿を兼ね、人が集中している酒場の喧騒も遥か遠い。もぬけの殻になった屋台などが立ち並ぶ街路は、ただただ静まり返っている。
幸いだった。
陰行で魔力を抑えても、気配と殺気とを殺しても、風の中に残る微かな魔力の痕跡が俺には分かる。兜の中で顔をしかめつつ、無言で腰の愛剣の柄を握った。
何故、という疑問はあるが、考えていても答えは出ないだろう。
「何者です?」
「さあ。騎士って訳じゃなさそうだ」
俺の様子から事態に勘付いたらしいカタリナに、端的に応答する。
騎士といえば、少数の例外を除けば、正面から堂々と戦いを挑んでくる手合いが殆どだ。名誉やら誇りやらが何にも勝るといった価値観、或いは自らの力への自負がそうさせるのだろうが、分かりやすいといえば分かりやすい。
少なくとも、じっと闇の中で息を殺し、静かに獲物へ狙いを定める――というやり口は、まったく騎士らしからぬものだ。
その推測通り、並ぶ屋台の影からゆらりと身を持ち上げた三つの人影は、シルエットだけ見ても甲冑を着込んだ騎士とはおよそかけ離れていた。
武器らしい武器も持っている様子はなく、上から下まで漆黒の装束を纏っている。視認性を下げる工夫なのだろうが、その点だけ見ても真っ当な連中でないのは明らかだ。
黒ずくめ達が何かしらを語ってくれると期待したのだが、期待に反して三つの人影は全くの同時に三方向へ跳んだ。退散するのかと思いきや、屋台や詰まれた木箱を足場にして迂回するように迫ってくる。
「一人受け持ちます!」
「冗談じゃない! 魔法は絶対使うなよ!」
とんでもない事を言い出す、魔法が使えない魔術師――カタリナに怒鳴り返し、
闇に躍る人影に向け、俺は長剣を抜き放った。




