3.祖父の逆説③
ルース・ベーカリーの構造は至ってシンプルだ。三階建ての小型アパルトマンの一階部分が丸ごと店舗になっており、奥側に工房がある。
二階より上は従業員の居住スペースになっていて、六部屋ある居室に従業員――つまりはパン屋にまで身をやつした九天の騎士達、ほぼ全員が暮らしている。部屋数が足りていないらしいので、男衆が何人かで相部屋になっているのだそうだ。
余談だが、店内には厳格かつ平和的なカースト制度が存在し、うら若き女性陣が権力を欲しい侭にしているらしい。恐ろしいパン屋である。
現在は九天のうちの「ほぼ全員」であって、「全員」ではない。
以前の戦いで負傷した二名が入院しているからだ。
調理担当の男手を欠いている状態で収穫祭用の出店を出したツケは、店舗側に押し寄せている。結果として、三角巾を巻いたジャック・オー・ランタンであるところの俺は、厨房でカレーパンを揚げていた。こんなことをやっている場合ではないのだが、下手に身動きが取れない状況であるのも確かだ。
「未来を変えること自体は簡単だと思いますわ」
コンロにかけられた寸胴鍋の中身をかき混ぜながらカタリナが言った。
俺にとっては過去の話なので、未来と言われるといまひとつピンとこないが、カタリナにとっては未来の話になる。
ややこしい。
「そうなの?」
問いかけるサリッサは山積みの生カレーパンに衣を付けている。
つい最近まで料理とは無縁の職業に就いていたとは思えない、危なげない手つきだ。
「ええ。手っ取り早く未来を変えたいなら、あなた達が現在のあなた達に話をすればいいだけです。とても混乱はするでしょうけど、確実ですわ」
「あ……そっか! そうよね! なんで気が付かなかったんだろ!」
カレーパンからパン粉をはたき落とすサリッサの顔が、またもぱあっと明るくなる。
俺は深い溜息をついた。
「カタリナ。お前、分かってて言ってるだろ」
「まあ、なんとなくは」
非難の視線を浴びた赤毛の少女は、そっぽを向いて気まずそうに笑う。
置いて行かれたサリッサは俺とカタリナを見比べ、ぷうっと頬を膨らませた。
「……どういうこと?」
「そんなに簡単な話じゃないんだ。そうだな……仮に、この日の俺を捕まえて、未来にはこういう事があるから気を付けるように……ってな感じで警告をしたとしようか」
「うん」
フライ鍋に視線を落としながら話を続ける。
「すると聡明な俺のことだ。未来に何が起こるか分かってる状態で失敗するわけがない。華麗にアズルの街を守り抜き、誰も死なないように事を運ぶだろう。めでたしめでたし。なんなら何か賭けたっていい」
「華麗に、ね」
「どこからそんな自信が出てくるのやら」
多分に呆れを滲ませる声が二重にかかるが、気にしない。
小気味良い音をたてて揚がるカレーパンをフライ返しで小突きながら、俺は言った。
「ところが、それじゃ終わらない」
「どうして? 万事解決じゃないの」
「むしろ万事解決するから困るんだ。俺とサリッサが経験した過去はどこにもなくなるってことだからな。なら、俺達はいったいどこから来たんだって話になっちまうだろ?」
「あ……え? あ、あれ? たしかに辻褄が合わないような……」
頭上に巨大な疑問符を浮かべたかのような顔で、サリッサは首を捻る。
「もしかすると、俺とサリッサが往還門で過去に移動させられるって状況そのものすらなくなるかもしれない。そうなるといよいよ矛盾してくる。未来の情報を持ってる俺達が居なきゃ、未来は変わらないはずなんだから」
「いわゆる、時間の逆説ですわね。未来の情報を過去で利用すると、矛盾が生まれてしまうという」
鍋をかき混ぜる手は止めないまま、カタリナが決定的な言葉を口にした。
さすがは叡智の福音といったところか。空想や思考実験とは縁のない現界の出身者には、全く馴染みのない知識だろうに。
「正直、そこまでダイレクトに過去だか未来だかを変えたら何が起きるか、さっぱり予想がつかない。俺達の記憶が改変されるのか、あるいは存在が消えてなくなるのか……どうなるにせよ迂闊には動けないってわけだ」
「宇宙が爆発するだなんて説もあるくらいですしね」
「さ、さすがにそれはないと思うが……いや、分からないか。もう何が起きても不思議じゃない」
もちろん何も起きない可能性も十分にある。
だが、確かめようがない。
何が起きるか分からない以上、実験もままならない。
「でも……このままじゃ……」
「……そうだな」
油の中から揚がったカレーパンを救出しつつ、考える。
何の意味もなくカレーパンを揚げているわけではない。足りない頭で考えをまとめている最中なのだ。
人より随分と長く生きてはいるものの、こんな状況に陥ったのはさすがに初めてだ。すぐには指針を打ち出せない。
危機なのか好機なのかはさて置き、時間移動などという奇跡は何度もあるものでもないに違いない。俺一人の問題ならどうとでも踏ん切りがつくが、人命がかかっている。下手を打って失敗したら取り返しがつかなくなる。
「原因」があって「結果」がある。
この順序を守りつつ、結果だけを変えるためには――どうすればいいのだろうか。
***
どうすればいいのだろうか。
カレーパンの調理はとうに終わり、昼下がり。数時間が経っても答えは出なかった。実効性があるのか疑わしいプランか、もしくはリスクのあるプランしか思い浮かばない。
いや、答えがあるのかも疑問だ。俺如きが簡単に解決できるのなら、矛盾などと呼ばれはすまい。
だが、それでも挑まなければならない。時間も限られている。
「うーむ」
秋晴れの空を見上げて唸る。
外を歩けば何か思い付くかもしれない、などと考え、しかし詰め所の方面に行くのもまずいだろうと思い、気付けば、あまり足を運ばない街の東側に来てしまっていた。
セントレアはどこへ行っても特に何かがあるわけでもない田舎街だが、東部に広がる牧歌的な風景の中に、周囲から浮いた建物がある。いまや騎士団と皇女が駐留する場所となってしまった、小さな教会だ。
ミラベルに相談する、というのもひとつの手ではある。
おそらく彼女も俺の話を信じてくれるだろう。
ある程度は協力もしてくれるように思える。俺の自惚れでなければ。
歩いているうちに位置がズレたジャック・オー・ランタンを被り直し、教会の方を見た。白い塗装がところどころ剥げた古い木造の教会の周囲に、浅葱色の天幕がいくつか設置されている。相変わらず野営地そのものといった物々しい様相だ。商店街の辺りが収穫祭で賑わっているのと比べると、温度差が凄まじい。
天幕では水星天騎士団の何割かが寝泊りしていると聞いている。残りはまだ南の平原に設営した陣地に居るらしいが、そっちもじきにこちらへ移設するそうだ。
彼らも大変だな。
教会の傍に立っている歩哨の姿を遠くから眺めつつそんなことを思っていると、不意に血相を変えた別の騎士が教会から飛び出してきた。歩哨に声を掛けるや否や、そのまま天幕の方へ走っていく。
歩哨をやっていた騎士も、ひどく狼狽した様子でその後を追っていった。
どうも様子がおかしい。
五日前の今日、特別に何か事件があった記憶はない。
なにか騒ぎがあればミラベルが教えてくれそうなものだが、心当たりはなかった。
確かめてみるか。
俺はまたもズレたジャック・オー・ランタンの位置を正すと、ゆっくりと頭のカボチャを左右に振りながら、教会へと向けて歩を進めた。




