ex.最下位の騎士
1/11.5
九天の騎士ウィルフレッド・ツヴァイヘンデルには確固たる後ろ盾がない。
彼は孤児だ。
魔素を操る素養を持つ孤児が偶然に見出されたからといって、どこの平民の子とも知れない凡才を率先して自らの騎士団に召し抱えようという貴族はいない。
であるからして、皇国も彼には最低限の学費と生活費だけを支給し、辺境の貴族嫡子などが通う低級の騎士学校へと放り込んだ。もしも使い物になればそれでよし。そうでなければ用はない、ということだ。
見目が秀麗ではあったので騎士学校では女子の人気こそあったものの、彼自身は孤児院時代に出会った少女に夢中だったので、脇目も振らずに修練に励んだ。
少女も騎士として見出され、ウィルフレッドと同じ騎士学校に通い始めたのも彼を後押しした。学び舎で顔を合わせても冷たくあしらわれる程度の扱いだったが、ウィルフレッドはまったくめげなかった。
なぜならば、彼は自分が幸運だと信じていたからだ。孤児上がりが騎士になり、恋をしていた少女と再会する。なんという僥倖だろうか。まるで英雄譚のようではないか。
であれば、もはや二人は結ばれるのが運命に違いない。などと、無邪気に信じていた。
いつか立派な騎士となり、貴族の位を得てあの少女に結婚を申し込む。それが彼の描く明るい未来の青写真であった。
そんな彼の不幸は、優れた剣才までもは持ち合わせていなかったという、ただ一点に尽きる。飛び級を重ねて騎士学校を卒業、皇国軍の正騎士、皇子麾下の月天騎士団へと出世していった天才の少女とは異なり、彼はいつまで経っても騎士学校で木剣を振っていた。平々凡々な剣の腕前に加え、馬鹿正直過ぎる性格が戦いには不向きであったからだ。
やっとのことで彼が修了試験を終えた頃、幼馴染の少女は皇国で最高位に近い騎士になっていた。
ウィルフレッドが口に糊しながら苦心している間に、年下の彼女は天上の人になってしまっていたのだ。
この時、彼の心は一度折れてしまった。
自分は英雄譚の主役などではなかったのだと。
九大騎士団のひとつ、国教会に所属する皇女が率いる水星天騎士団に入団することが決まってからも、彼の心は沈んだままだった。
アルスゴーの吸血姫などと呼ばれる辣腕の皇女ミラベルが、わざわざ平均程度の騎士である彼を引き取った理由は判然としない。ウィルフレッドは疑問に思いながらも、水星天騎士団の団員として仕事――国教会の警備や辺境の巡回など――実戦とは言い難い任務を機械的にこなしていった。
転機は転移魔術に目覚めたことだった。
転移魔術は特殊な空間把握能力が要求されるため、この広大な皇国にも使い手は十人もいない。皮肉にも、剣の才能に欠いていたウィルフレッドは、魔術師として稀な才能を持っていたのだ。
一転して貴重な人材として扱われることになったウィルフレッドは、遂に《九天の騎士》で唯一の空位だった水星天騎士団の枠に収まるまでになった。
――おめでとう。よい働きを期待しています。
ミラベルと会話を交わしたのは、その時のただ一度きりだ。
あの皇女は希少な才能を見抜いていたのだろうか。
それとも、何か別の理由があったのだろうか。
九天の騎士となってからを含めても、ウィルフレッドには彼女の考えが分からない。
ただ、同じく九天の騎士となっていた少女との二度目の再会が、素直に喜ばしく思えたのは確かだ。腕はいいがアクの強い同僚に囲まれた上、九人の中では実力も序列も最下位だったが――ウィルフレッドは確かに満ち足りていた。
■
しかし、青年はまた挫折を知る。
九天の騎士達は辺境の地セントレアで敗れ去り、最後まで真意が分からぬままだった皇女ミラベルは彼らを見限った。もはや戻る場所はなく、仕えるべき主も居ない。
雨の中、泥の上に倒れ伏したウィルフレッドは、最愛の少女をも斃したという門番の少年への憎悪だけで這い進んでいた。
仇敵の槍技によって揺すられた脳で考えるのは、強引に一人で殿を務めたハリエットという魔術師の少女のことだ。もはや彼女も生きてはいまいと思われた。
あの東洋人の門番は、ウィルフレッドの目から見ても異様な存在だった。自身はともかく、皇国でも最高の実力を持つ九天の騎士達を尽く破っただけはある。
加えて、助太刀に現れた魔術師も尋常ではない。あのジャン・ルースがたったの一撃で深手を負ったのだ。もしかすると彼も死んだかもしれない。
ハリエットの敗北も、火を見るより明らかだ。またしても同僚が、最後の仲間が失われてしまった。
よろめきながら大剣を支えにして立ち上がり、もつれる足を引き摺って街の西へと向かうウィルフレッドの目に、やがて丘陵と、その向こうに広がる森が写った。
迷いなく、森へと足を向ける。
胸中に溢れる復讐心を満たす為にも、今は雨をしのがなくてはならない。そして休息をとったあとで再び挑むのだ。あの門番に。
あてどなく森をさ迷い、身を休めるにちょうどいい木を探した。枝葉の豊富な木の下であれば、快適とはいかずとも眠ることもできるかもしれない。
そうして草を掻き分けて森の奥深くまで入り込んだウィルフレッドは、望外にも石積の井戸を発見して驚く羽目になった。とても人が住んでいるとは思えない森の中に、そんなものがあるとは思ってもいなかった。
途端に喉の渇きを覚えて近寄ると、まるでその一帯だけが綺麗に手入れされているかのように、木々の途切れた空間が広がっていた。
中心には木積の家がある。
「こんなところに人が?」
民家は馬屋まで備えていた。木こりか、猟師でも住んでいるのか。
なんにせよ、ウィルフレッドにとってはこれも幸運である。家主に断りを入れてから井戸の水を分けて貰おうと母屋に向かうと、ログで組まれたバーゴラの下――ウッドデッキの上に安楽椅子で眠る女性がいた。
いや、女性というには年頃が若い、美しい少女である。
思わず息を呑むほどの美貌は、彫像のように微動だにしない。仮に彫像だと言われてもウィルフレッドは信じただろう。
それ故に、少女の両目がすうっと開き、青い宝石のような瞳が露になった瞬間、ウィルフレッドは激しく狼狽した。人間だった、という至極当たり前のことに驚いた。
「……あ、いや……その、僕は決して怪しい者では……ただ、水を少し分けてもらえないかと思ったんだけど……」
後退って身を仰け反らせるウィルフレッドを、少女は眠そうな表情で一瞥する。
そして、音もなく椅子の背もたれから身を起こし、ゆっくりと伸びをして目尻を指でこすった。それからようやく一言だけを言った。
「ご自由にどうぞ」
「そ、そう……ありがとう」
ウィルフレッドは礼を述べながら、甲冑を着込んで帯剣している騎士を見ても、まったく動じるそぶりがない少女に違和感を覚えていた。容貌もさることながら、このような胆力は通常、平民にはないものだ。
いずこかの貴人かもしれない。貴族の狩猟地にでも迷い込んでしまったのかと訝る青年を、少女は腕組みをしながら眺めて言った。
「この森に人が立ち入るなんて珍しいことなので、ちょっと驚いています。折角ですからどうぞ中で休んでいってください、騎士さん」
白のドレスと金の髪を翻して母屋に入っていく少女には、言葉とは裏腹に驚いた様子はない。我に返り、慌てて少女を追いかけたウィルフレッドは、整頓されたリビングダイニングに足を踏み入れた。
お茶の用意を始めた少女に辞退の意を伝えようかと一瞬考え、しかし、彼は自らの疲労を自覚して思い直した。本当に、疲れていたのだ。
「珍しいって、街の人はこの森には来ないのかい?」
「ええ。街の北の方に良い木が生える森があるんですよ。そっちの方が近いですし、この森には秋ごろになると熊も出ますからね」
「なるほど……でも、だったら君みたいな女の子がひとりでこんなところに居るのは危険じゃないか。森も深いみたいだし……」
白い陶製のポットを手に、はたと手を止めた少女が首を傾げた。「女の子?」と呟いて不思議そうな顔をするので、ウィルフレッドはもしや――男性なのだろうかと目を剥く。細過ぎる華奢な体躯を見る限りその可能性は絶無ではあったが、魔術という神秘の深奥は計り知れないもので、男の見た目をした女性、女性の見た目をした男性といった人物も皇都には存在する。
しかし、急に顔を綻ばせた少女は歌うように言った。
「こんななりですが、私はあなたよりずっと年上ですよ」
「嘘でしょう!?」
「本当です。あと、魔法もそれなりに使えますので心配には及びません。この辺りは賊も出ませんし、動物なら話せば何とかなりますから」
直前までとは別の意味で目を瞠ったウィルフレッドは、視線を滑らせた先にあった暖炉の傍らに鞘に収まった長剣を見止めて息を止める。
魔術師。いや、騎士だ。眼前の少女に魔力の気配はなかったが、巧妙に隠されているとウィルフレッドは気付いた。僅かに身を固くする彼だったが、
「……うへぁ!?」
茶葉の缶蓋を開けようとした少女が、力み過ぎて中身を全部ぶちまけた瞬間に脱力した。茶葉を頭から被って気まずそうに笑う美しい少女の姿を見て、彼は確信する。
得体は知れないが危険はない。
そも、騎士道に則れば女性は守るべき対象であり、尊重するのが規範である。それは、たとえ相手が同じ騎士であろうが関係なく守られるべき心得だ。
大剣を置き、甲冑を外した青年を、少女は頷きながら見ていた。
香草で淹れたらしい茶と木苺のパイをご馳走になった後、ウィルフレッドは憎しみや怒りがすっかり溶き解されていることに戸惑った。
残されたのは自身の胸に宿る疑問と、香り立つ二杯目の茶だけだ。花弁の浮いた蜂蜜色の液体を見詰めながら、彼は自問を口にした。
「……どうしてこんなことになってしまったんだろう」
彼の独白と事のあらましを黙って聞いていた少女は、上品にカップへ口を付けて茶を飲み下してから、一呼吸を置いて問うた。
「力が足りなかったから?」
否めない。ウィルフレッド自身、力不足を痛感している。
しかしそれは本質的な問題ではないように思えた。ウィルフレッドを苛む疑問は、彼が敢えて目を背けていた自分達の所業に向いている。
「違う……皇女殿下を……妹君を殺せだなんて、どうしてそんな命令を聞かなくちゃいけなかったんだ……! 次の皇帝なんて誰でもいいじゃないか……!」
騎士道に則れば貴婦人は守るべき対象なのに。
言ってしまってから、しまったと口を噤んだ。どうやら隠居している騎士であるらしい少女が、まだ何者かも分からないというのに不穏当が過ぎる言葉を口走ってしまった。
しかし、少女は追及することなく、海のような深さを覗かせる瞳で騎士を見るのみだった。その瞳にちらりと過ぎる、微かな感情までは読み取れない。
「……誰でもよいということはありません。皇国の臣民すべてに関わる問題です」
「それはそうだけど……命を捨ててまでだなんて」
「愛国心に殉じて死ねとまでは言いませんが、主を守り、国と民を守るのが騎士の務めです。それが分からぬのであれば、あなたは騎士ではないのでしょう」
強烈な言葉とは裏腹に、非難というよりは労わりの色が濃い口調だった。
ウィルフレッドには返す言葉もない。
そもそも平民の出である彼には、騎士階級に生まれた者達のように無私の精神が染み付いていない。騎士はかくあるべきという理想、夢想のような騎士道を崇めてはいても、自分や他人の命の上には置いていない。
だいたい、皇国の騎士全てがそのような覚悟を持っているわけでもない。貴族主義的な信条を持つ者も多く、そういった人物は権力や財力に重きを置く。ウィルフレッドはそれらも力であることは否定しないが、彼らの姿勢を正しいとも思えなかった。
「だとしたら僕は……何なんだ? こんな半端な僕は……」
厳格な騎士も、腐敗した騎士も、受け入れることができない。
では自分は何者なのだろう。何者になりたかったのだろう。
ウィルフレッドにはそんな事すら分からなくなった。恐らくはその惑いこそが、この状況を招いてしまった本当の原因なのだと思えた。
自嘲の薄ら笑いを浮かべる青年に、少女は短く、それでいて穏やかな言葉をかけた。
「あなた自身が決めることです」
「僕が……決める?」
自分は英雄譚の主役などではないと、ウィルフレッドはもう知っていた。
物語のようにはっきりと区分けされた善悪など現実には存在せず、沢山の曖昧な境界で区切られた世界のどこに立つか、自らの立ち位置を決める権利だけが与えられているのだということも。
だが、今までに一度でも、その権利を使う勇気が自分にあっただろうか。
「僕は……僕が正しいと思うことをすべきだったのか」
同僚に異を唱え、上司に進言をし、皇女にも具申して暴走を止めるべきだった。
そうすれば同僚は耳を傾けてくれたかもしれない。事態そのものは止められなくとも、何かが変わっていたかもしれない。
少なくとも、自分だけが生き残って見知らぬ女性に泣き言を零し――慰められているなどという現状は、絶対に起こり得なかったはずなのだ。
結果として地位を失って騎士でなくなってしまったとしても、何を恐れることがあったのか。理想は心の中にある。周囲に流されてなる騎士など、最初から意味はなかった。
「すいません、もう行きます」
勢いよく椅子から立ち上がったウィルフレッドの顔に、もう苦悩はない。
「どうするのです?」
「まずは皆の仇をとって……その後は分かりません。でも、僕のやりたいようにやっていこうと思います。もう何もかも遅いのかもしれませんが……お茶、ご馳走様でした。美味しかったです」
笑顔で見送る少女に背を向けて歩き出したウィルフレッドは、ドアを開けて外へ出た。いつの間にか晴れ上がった空から降り落ちる陽光に目を細め、鞘に収まった大剣を担ぎ直した彼は、歩き出そうとした。
だが、その足は一歩で止まった。
深緑の木々が立ち並ぶ森の手前、はっきりと見て取れる人影がある。
青い長剣を下げた、白いドレスの少女がそこに居た。
「まさか、そんな……!」
ウィルフレッドは狼狽して振り返る。
母屋の中に少女の姿はない。暖炉に立てかけてあったはずの長剣も、また。
「転移魔術!? でも、どうして……!?」
鞘走りの澄んだ金属音を響かせながら、少女は簡素な鞘から剣を抜く。
ウィルフレッドも咄嗟に大剣を抜き放った。そうしてから、抜いた事実に彼は愕然とした。いま剣を抜かねば死ぬと、ごく自然に思わせる何かが対峙した少女にはあった。
「構えるがいい、未熟な騎士よ。貴殿が己が意を通さんとするのであれば、相応の技を与えよう。その才……磨けば、或いは人の身でありながら神にも届くかも知れん」
■
何処とも知れない森の中で目を覚ましたウィルフレッドは、霞がかかったような思考を振り払うように頭を振りながら、枯葉の上から身を起こした。
大木の下で雨宿りをしているうちに、疲れからか眠ってしまったらしい。そう結論付けた彼は、傍らに置かれていたバスケットに気が付いて中身を改めた。
水筒と、果物のパイ。
眠っているうちに誰かが施しとして置いて行ったのかもしれない。未だにはっきりとしない意識でそう考える。こんな深い森の中に人が通るだろうか、という疑問はあったが、他に考えようもないので、ありがたく頂戴することにした。
パイを頬張り、馴染みのない酸味と甘みとを噛み締めながら、ウィルフレッドは不思議と穏やかな気持ちでいた。
仲間を奪った門番に対する怒りや憎しみは、勿論ある。しかし、その復讐は自らの心を偽らない手段で――騙まし討ちや多数で襲い掛かるような、後ろ暗い方法で遂げるべきものではない。そう思った。
正々堂々と決闘を申し込み、打ち勝つのだ。
その為にやるべき事は修練のみ。
目指す先も、おぼろげに見えている。
眠りの中で垣間見た気がする、天啓のようなビジョン。転移魔術を剣技に応用するという、誰にも為し得なかった戦闘スタイルが確立できれば、あの恐るべき門番の少年を越えることができるかもしれない。
興奮冷めやらぬままに、また一口、パイを齧った。
むせ返るような緑の香りが満ちる森の中で、抜けるような晴天へと変じた空を見上げ、ウィルフレッドはひとりごちる。
「美味しいなあ、これ」




