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異世界往還の門番たち  作者: 葦原
二章 時の渦
84/321

ex.覆水不変

2/39(B)

 遠い夜闇の中に浮かぶ蛍火のような光を眺めやりながら、サリッサは嘆息した。ちかちかと明滅を繰り返す無数の赤い光は、どうやら背の高い建造物に備え付けられている灯火であるらしい。

 建造物は遠近感こそはっきりしなかったが、今までに見たどんな城よりも高いように思える。それほどの建物が、ひとつふたつではない。バルコニーの手すりに腰掛けるサリッサの視界いっぱいに、数え切れないほど数多存在している。

 それらを、門番の少年は建築物(ビルディング)としか説明しなかった。彼も知らなかったのか、或いは説明がはばかられるような存在であるのか。それとも単に言語の壁なのか。サリッサには何も分からない。

 しかし、ガラス戸の向こう、部屋に置かれたソファーで寝息を立てている彼を起こす気にもなれず、そもそも大して興味もない。

 

 目に見えるものが全てだ。

 

 色とりどりの星をばら撒いたような異界の夜景は、どこか星空に似ているようで、しかし、それよりもずっと強い輝きで夜空を焼いている。星さえ掻き消してしまうほどに。

 日常的にこの光を見て育った人間ならまだしも、魔力灯のぼんやり漂う燐光に触れて育ったサリッサの目には、それは空恐ろしい光景に映った。

 ゆうに千を超え、万に届く光の全てが人の営みなのだと思うと、本当に途方もない話に思えてならない。

 地平を埋め尽くすほどに人が溢れている。その事実が、ただ怖い。

 超常の力を持つ不老の人間。そんな荒唐無稽な話でさえ瑣末に感じられた。

 いまや、自分がそれに成ってしまったというのにだ。

 

 どうやら往還門というらしい遺跡に触れて異界に移動した瞬間、サリッサは疲労を感じなくなっていた。疲れが取れた、という感覚ともまた違っている。

 それは皇帝の力に蝕まれて《若返って》しまった体のせいでもなく、何かもっと別の、不可逆の変化であったらしい。

 食欲も消えていた。強引に勧められて口をつけた異界の焼き菓子は香ばしく、実に美味ではあったのだが――味わって食べたそのひとつで、もう十分だと感じられた。

 食事そのものに対して必要性を感じなくなっていたのだ。

 

 首を捻るサリッサだったが、何気なく手繰り寄せた愛用の白槍《永劫(アイオーン)》から伝わってきた感覚によって、彼女は変化の意味を概ね理解した。

 それらの異変はサリッサに与えられた《永遠(とわ)の福音》によるものだった。より正確には、変化しない(・・・・・)事こそが彼女に与えられた権能である。

 無限の永続性からくる不変と不滅。

 食べずとも死なず、もう眠る必要もない。

 槍が言うには「気合さえ入れればどんな変化にも耐えうる」とのことだったので、試しに髪でも一束切ってみようと、洗面台に置かれていたハサミを拝借して刃を入れてみたところ、ハサミの方が根負けして壊れてしまった。

 そのことにショックがなかったわけではない。

 しかし、いよいよ人間離れしてしまった、と考える一方で、制御が利かないままだと髪が伸び放題になっちゃいそう。などと、そんなこともぼんやりと思う程度に、彼女は楽観的でもあった。

 分水嶺はとうに過ぎている。

 いつだったのかは分からないまでも、自分の足で踏み越えたのは確かなのだから。

 

 それに、気持ちも通じているのでは――と、自分でも信じられないほど甘ったるい思いも確かに存在している。

 が、万が一にそうであったとして、あの少年と自分がどうこうなるという未来はまったく想像できないし、なりようもないに違いない。

 

「……さすがにこの有様じゃね」

 

 手すりに腰掛けたままで振り返る、ガラス戸に写る自分の姿。まるで子供の時分に帰ったような――実際に帰ってしまっている、体の造形。

 僅か二年、三年程度の退行。それが、成長期を過ぎた頃合の彼女には致命的だった。

 元々、孤児時代に劣悪な環境で育ったせいで健康的な発育を遂げたとは言い難い子供だったのもある。それでもこの数年で大幅に成長したのだが、全ては永遠に失われてしまった。

 現状には何の後悔もなかったが、その点だけは暗澹とした気分にさせられる。

 そうなる前に恋のひとつでもすべきだったのでは? と、永劫(アイオーン)が言葉ならぬ意思を伝えてくるのも腹立たしい。どうも麺棒扱いされたことに腹を立てているらしかった。

 以前の得物だった大鎌も非常識な武器だったが、この槍も大概に常軌を逸している。

 サリッサはうんざりしながら手すりから降りると、担いでいた白槍を物干し台に引っ掛けてバルコニーを後にした。

 

 ガラス戸をスライドさせてリビングに身を滑り込ませても、ソファーで横になっている黒髪の少年は身じろぎひとつせずにイビキをかいていた。

 目を覚ます気配はない。

 恐らくは束の間の休息になるだろう眠りから起こす気にはやはりなれず、脇を素通りしてリビングを抜ける。

 異界の建物とはいえ、間取りそのものはサリッサの知る人家の範疇である。

 闇の中には何の変哲もない廊下があり、居室や浴室へのドアが並んでいる。最奥にはタイルを敷き詰めた土間と、素材の分からない黒塗りの扉がある。頑丈そうな錠がついているのを見るに、どうやらそれが玄関であるらしかった。

 上質そうな作りの内装の割には、やけに狭い。

 客としては失礼な感想を抱きつつ、やはり客としては不適当な好奇心から、手近な居室のドアを開ける。

 往還門が通じている寝室は既に見ている。何の面白みもないベッドがあるだけの部屋であった。つまり、残された居室は門番の少年の部屋である可能性が高い。

 職務上の都合で宛がわれているだろうセントレアの詰め所ではない、本当の家にある彼の部屋には、いったいどんな物が隠されているのか。

 サリッサは自然と口元が綻ぶのを抑えきれなかった。

 しかし、

 

「……え?」

 

 ドアの向こうの部屋には、彼女が期待したような物は何もなかった。

 乱雑に積まれた薄茶色の紙の箱と、簡素な机。そして、空の書架だけがある。

 窓にカーテンすらなく、薄い月の光が差し込んでいた。

 静かに足を踏み入れると、サリッサは部屋の大きさだけを実感して息を詰めた。まるでがらんどうの部屋は、楽しめるような何かがあるようには到底思えなかった。

 

「こんな……」

 

 昔、翼竜狩りで負った傷がもとで亡くなった同期の騎士がいた。

 遺品の整理に訪れた際、彼女の部屋がひどくさっぱりと片付けられていたのをサリッサは思い出し――なぜ今そんなことを思い出したのかと強く自問して唇を噛んだ。

 

 ここが人家であると感じたのは間違いだった。

 この建物には何処にも人の温もりがない。

 家族の気配も、少年自身の痕跡も、何一つ。

 ここは誰かが帰ってくる場所ではない。そんなものはもう、彼にはなかったのだ。

 

 

 

 そっとリビングに戻って少年が眠るソファーに腰掛けたサリッサは、千年を生きたと言われてもまったく信じられない、あどけなさすら感じる寝顔を眺め、それから彼の頭を膝に乗せて、窓の外に広がる夜景を再び見た。

 異界には本当に途方もない数の明かりがあるというのに、自らが生まれた世界でもない場所で、ひとりきりで戦い続け、その果てに疲れて眠るこの少年は、なんて――孤独だったのだろう。

 

 多くは望まない。

 小さくなってしまった手のひらも、彼とは不釣合いな背丈も、共に歩めるのなら永遠にそのままだって構わない。

 

 でもせめて、今だけは。

 今だけは彼が安らかに眠れるように、少女は祈りながらその髪を撫でた。

 

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