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異世界往還の門番たち  作者: 葦原
二章 時の渦
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39.代償

 

 ふと視線を送ったデジタル時計の無機質な数字表記が、午前九時を告げている。

 

 異界(クリフォト)――現世における我が家の質素なリビング。

 激戦を経て傷みに傷み抜いた服から、まだこちらの世界で暮らしていた頃に激安量販店で購入した無地のカットソーと地味なチノパンというラフな格好に着替えた俺は、スマートフォンを片手にソファーに体を沈めていた。

 覗き込む五インチの画面にはこちらの世界の情勢(ニュース)が映し出されている。一通り確認し終えると、俺は端末を放り投げて溜息をついた。

 

「……駄目だ。せめて何か糸口がないとな……」

 

 気が遠くなるほどの間、ただの一度も気にかけていなかった世界情勢を今になって再確認している理由はひとつだけだ。

 皇帝――カレルの語った未来では、異界(クリフォト)現界(セフィロト)の資源を目的として侵攻を行うらしい。しかし、戦争そのものが忌避されている現代の社会情勢において、しかも人類史上初めてとなる未知の文明との遭遇を経てもなお、敢えてその文明と戦争をするとなれば、実際にはそこまで単純な話でもないだろう。

 複合的な原因が存在するはずだ。

 だが、それが何なのかが分からない。

 確かに、俺が現界(セフィロト)に転移させられるよりも前から、こちらの世界では資源の枯渇が喧伝される傾向がないでもなかった。

 ただそれは「いつかそうなるかも」という程度、言わば可能性レベルの話であって――少なくとも七十五億人と十億人を天秤にかけるような緊迫した問題ではなかったし、今確認してみてもそんな事実はない。

 開け放たれたカーテン、アルミのサッシ窓の向こうに広がる空に異世界が浮かび上がって見えるなどということもない。ただ晴れ渡っていて、セントレアから見上げた空と何ら変わりなく青かった。

 

 かちゃりとドアのラッチが鳴る音がして、上半身を起こして首を動かす。

 黒髪赤目の、本当に年端もいかなくなってしまった少女が後ろ手にドアを閉じているところだった。

 サリッサだ。

 彼女の服装も変わっていた。ぴったりとした赤いニットのワンピースに、黒いレギンスを合わせている。気まずさからか羞恥からか、或いはその両方か。心なしか顔まで赤くしたサリッサの赤い眼はあらぬ方向を向いていた。

 やっぱり赤が好きなんだな、などという感想を抱きつつ、俺は苦く笑った。

 

「妹の服が残ってて良かった。サイズは問題ないか」

「う、うん。大丈夫だけど……そっか、あんたって妹居たのね」

「ああ。居た頃もあったよ」

 

 こちらの世界での生活も、家族の存在も、今の俺は他人事のような事実として辛うじて脳に記録しているに過ぎない。実感はとうになくなっている。顔も覚えていない。

 自分のことを話すのは苦手だ。

 何か問われる前に矛先を変えようとサリッサの姿を注視した。変な着こなしでもしていれば話のネタにしようと思ったのだが、それとは別に何か引っかかるものがあった。

 

「な、なによ。どこかおかしいところでもあるの?」

 

 サリッサはくるくると体の向きを変えて自らの装いを確認するが、おかしなところはどこにもないので無意味だ。

 それよりも彼女の姿に見覚えがある気がするのだ。

 するのだが、どこで目にしたのかを思い出すことができないでいる。

 

「……いや、何でもないんだ。気にしないでくれ」

 

 毎度の事ながら疲れているのかもしれない。セントレアに戻ってからも往還門に直行したせいで休養は取れていなかった。今回はカタリナの時と違って異界に逗留する理由はないにしても、休息は必要だろう。

 

「サリッサ、腹減ってないか。飯にしよう」

 

 空腹を感じて提案する。常日頃の彼女の大食っぷりを考えれば家の備蓄だけでは足りないかもしれない。買出しにでも出かけるかと考えた時、サリッサが憂鬱そうな顔で信じられないことを言った。

 

「あたしはあんまりお腹空いてないから……気にせず食べて」

「嘘だろ!?」

 

 その、あまりに衝撃的な発言に思わずソファーから腰を浮かせてしまう。

 慌ててサリッサに駆け寄って額に手を当ててみる。熱はない。血色もいい。

 まさか、時の福音の影響がまだ――

 

「あっ、あたしだって食欲のない時くらいあるわよ!」

「そ、そうか? でも少し横になった方が……」

「具合が悪いわけでもないってば! 大丈夫だから!」

 

 などと言いつつ、サリッサは頬を紅潮させて手足をバタバタさせた。

 その様子はいささかどころではなく子供っぽいというか、急激な肉体年齢の変化が精神にも影響を与えているのではと心配になるのだが、確かに元気そうではある。

 

「本当に大丈夫なんだろうな」

「……ほ、本当だってば……ちょ、ちょっと心配し過ぎなんじゃないの……?」

「当たり前だ。心配するに決まってるじゃないか」

 

 心の底からの本音を述べる。至近にまで迫ったサリッサの顔が更に上気し、赤を通り越しておかしな色になりつつあるが、まったく気にしない。

 小さな両肩を両手でがっしりと掴み、更なる言葉を紡ぐべく息を吸う。

 

「ちょっ……ちょっと……!?」

 

 結局、俺はサリッサの手を引きながら往還門を通過した。

 俺が彼女を往還者にしてしまったのだ。

 それはカタリナも同様だが、意味合いは全く異なっている。

 

 いくら俺が愚鈍でも、女性にあんな風に言われてしまっては真意に気付かないわけがない。当人にとっては不本意だろうが、気持ちは十分に伝わってしまっている。

 ただ、それは彼女を往還者にしてしまった理由では断じてないし、それを理由にしてしまうのは本人も許さないだろう。切り離して考えなければ、これから往還者として辛い経験をするだろう彼女に対して、あまりにも不誠実だ。

 だから俺は、自分の本音だけを素直に言葉にして認め、伝えなければならない。

 

「俺は……俺にはお前が必要なんだ」

 

 吐いた慣れない台詞は、力み過ぎて出だしで噛んだ。

 次の瞬間、絶叫に近いボリュームの悲鳴が耳を劈いた。

 

「ふぎゃああああああ!」

 

 ボグッという致命的な音を響かせ、俺の体は五センチほど上方へ浮いた。

 愕然と見やれば、俺の腹に突き刺さる拳がある。羞恥と憤怒をごちゃ混ぜにした顔のサリッサが、涙目で拳を繰り出しながら歯を食いしばっていた。

 ごぼり、と肺から空気が込み上げ、俺は為す術なくフローリングの上に崩れ落ちた。

 

「……ま、真顔で……恥ずかしいこと言うの禁止……だから!」

 

 なるほど。二度とやるまい。

 サリッサが肩で息をしながら言ったその教訓は、俺の胸に深く刻まれた。

 

 その後、どうやらサリッサは本当に体調を崩していたり時の福音の影響を受け続けていたりしていたわけではなかったようで、買い置いていたナッツのタルトと紅茶を勧めると、僅かずつながらも口にしてくれた。

 俺も食事は簡単に済ませ、残りの時間は異界(クリフォト)や往還門、往還者などについての概要をサリッサに説明した。

 とはいえ、異界についてはともかくとしても往還門や往還者については俺自身も分かっていないことの方が多い。推論や余談で保管しながら知る限りの全てを話し終える頃、俺は、いつの間にかソファーで眠り込んでしまっていた。

 

 

 

 

 ■

 

 

 

 

 まず瞼を持ち上げると、しんと静まり返った夜の闇があった。

 それから、窓から差し込む薄明かりに照らされたサリッサの顔が見えた。明かりも点けずに窓の外を向いている。起きているのか。

 一点を見詰めて動かない、微かな光を反射してきらめく赤い瞳を言葉もなく見上げていると、寝息が止んだことに気付いたらしいサリッサが視線を落とした。

 穏やかな笑みで、彼女は言った。

 

「おはよう」

 

 とても優しい声だった。

 俺は寝惚けた頭で状況を考え、自らがソファーに横になっている事を思い出し、肩部から後頭部にかけて存在する柔らかな感触と温もりについて思い当たった。

 膝枕だ。ようやく自分が途轍もなく恥ずかしい体勢をしているのだと気が付くと、跳ね起きようとした。

 しかし、添えられた手によって優しく押し戻されてしまう。

 

「まだ寝てなさい。タカナシったら、すごいイビキしてたんだから。休める時にはちゃんと休まないと駄目よ」

「恥ずかし過ぎる。いっそ殺してくれ」

 

 掌で顔覆って呻くと、サリッサはくすくす笑って視線を窓の向こうへと戻した。

 外も静まり返っており、いつもは微かに聞こえる電車の音が聞こえない。運行時間外ということは夜中――それも午前を過ぎたかという時間だろう。

 

「……眠らないのか?」

 

 サリッサも相当消耗しているはずだ。しかし、彼女は微笑んで首を振るだけだった。

 問いには答えず、関係のない話をした。

 

「ねえ、気になっちゃうから聞くんだけど、タカナシが戦う理由ってやっぱり昔の……仲間の人としたっていう約束の為なの?」

「そうだなあ。大本を辿ればそうなるかな」

 

 俺の口からするりと言葉が出た瞬間、サリッサの瞳に哀切の色が過ぎった気がした。

 随分と彼女の感情が読めるようになったものだと思う。その代わり、俺は彼女に対して建前を使うのをやめようと思った。

 人との距離の縮め方とは、きっと、そういうものだったはずだ。

 

「だから何とかして往還者を排除して、方法は分からないけど門を閉じて……約束した全部を成し遂げて終わらせられたら、思い残すことなんてなくなる。その時は、もう静かに消えようと思ってた」

「……うん」

 

 いくら往還者が不老だとはいえ、自分で自分を終わらせることくらいはできる。

 そうしようと思ったのも一度や二度ではない。

 

「でも、今はできない。やりたいことがある」

 

 息を詰めるサリッサの手を取り、俺は言う。

 

「もし俺にも未来が許されるなら、あの田舎街で毎日パンを買いに行きたい。そうしたいと思えるようになったんだ。だから、今度は俺自身が前に進む為にも戦うんだと思う。全部を綺麗に終わらせて、新しい何かを始める為に」

 

 サリッサは目を閉じ、俺の言葉を反芻するかのように幾度か小さく頷いた。

 それから、吐息のような声で呟いた。

 

「この世界の外の景色を見ながら、考えたの。往還門の、こっち側にいる間はあっち側の時間が進まないって話を聞いて……それって、あたし達がずっとこっち側に居れば、あっちの世界は……ウッドランド皇国は、ずっと同じままで止まり続けるのかなって」

「そう……なのかもな」

 

 少なくとも俺の認識上ではそうだ。いや、今はサリッサの認識上でもそうなる。

 往還門の持つこの大いなる矛盾については、未だに理解できていない。

 

「だったらさ、あたし達がこのままずっと、永遠にこっち側に居れば……ちびっこもミラベルも、永遠に辛い目に遭わずに済むのかなって、ちょっとだけ思ったの」

 

 その囁きは、まったくの想定外だった。

 思わず身を起こしかけ、やはりサリッサの両手に押し留められてしまう。

 

 俺達が戻らなければ、止まったまま?

 カレルの野望も、アリエッタの暴走も、止まったまま?

 マリー達に危害が及ぼされることもない?

 

 そうだ。俺は今まで何千何万回もの往還を行っているが、そんな見方で往還門を見たことはなかった。言われてみれば確かに、俺達の主観ではそう見えてしまうことになる。

 平和な世界は平和のまま、主観となる者にとってはそれで終わることができるのかもしれない。つまり俺と、サリッサにとっては。しかし、それは――

 

「でも、違うんだね」

「……ああ、違う」

 

 俺の気持ちを代弁するかのようなサリッサの呟きに、強く頷き返す。

 実際のところがどうだろうと、俺達がここで全てを投げ出したまま現世で生きていったとしても、それは俺達にとって停滞に過ぎない。死んでいるのと変わらない。

 握った手を解き、握り拳を作ったサリッサが、にこりと笑って言った。

 

「ちゃんと戻って……全部を綺麗に終わらせないとね。あ、もうついてくんなって言われても勝手についていって一緒に戦うからね」

「ああ。そいつは頼もしい限りだ」

 

 短く答え、軽く拳を握って突き合わせる。

 その時のサリッサのはにかんだ表情は印象的で、俺も晴れやかな顔をしていたと思う。

 


 結局この日、彼女は一睡もしなかった。

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