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異世界往還の門番たち  作者: 葦原
二章 時の渦
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38.過ち②

 セントレアを出てから六日目の朝。激動の旅が終わりを告げようとしていた。

 スキンファクシのタラップを降りて南平原の土を踏みしめた時、俺は不思議な感慨にとらわれた。たかだか一週間にも満たない留守だったにもかかわらず、ようやく帰ってきたという強い実感があった。

 それは風に微かに混じる草の香りのせいだったかもしれないし、見慣れたセントレアの朝焼けの空のせいだったかもしれない。

 隣に降り立ったサリッサも朝日に照らされた南門の残骸を見つめて目を瞬かせていた。彼女が何を思っているのかまでは分からなかったが、横顔から読み取れる限りは穏やかな表情を浮かべているように思えた。

 

「セントレアか。聞かない街だけど、本当にここでよかったのかな?」

 

 俺達に続いて平原に降り立った軍服の皇子が物珍しそうに周囲を見回しながら言った。それなりの年齢であるはずの彼だが、田舎に足を運ぶ機会はあまりないのだろうか。

 いや、皇族という立場を考えればその方が自然なのかもしれない。

 俺は頷き、礼の言葉を口にした。

 

「ええ。助かりました、殿下」

「いや、私の方こそ、君には大きな借りを作ってしまったからね。送り届けるくらいはさせてもらうよ」

 

 そう口にする皇子、アーネストの顔には疲労の色が濃い。

 無理もない。皇都で彼が失ったものはあまりに多い。塔に突入させた月天騎士団はエニエス一人を除いて全滅している。残ったのはスキンファクシを運用するための僅かな人員と、身一つだけだ。

 しかし、彼は平然と立っている。

 それは強さなのだろうか。俺には判断が付かない。

 

「君達やアニエスが居なければ、きっと私もこうしてはいられなかっただろう。また生き恥を晒してしまったが……犠牲になってしまった者達に報いる為にも、我々は立ち止まるわけにはいかない。これからが肝心だ」

「……そうですね」

 

 俺は曖昧に頷くに留め、低く滞空するスキンファクシを見上げた。

 結局、あの後エニエスとは顔を合わせていない。タラップの先にある昇降口にも彼女の姿はない。彼女ともアニエスとも知り合ったばかりで、今会ったとしても掛ける言葉は見つからないのだが、少し気になった。

 それはサリッサも同様だったのだろう。アーネストに何かを伝えようと口を開きかけ、しかし言葉にまではならなかったらしく、胸の前で両の掌を握り合わせるのみだった。

 僅かな間、ただ風景を眺めていたアーネストが、唐突に踵を返して言った。

 

「さて、我々はランセリアに戻るとしよう。君達がセントレアに帰ったということは私からミラベルに伝えておくよ」

「お手数をお掛けします」

「なに、お安い御用さ……ああ、そうだ、忘れるところだった。これは君からあの子に渡しておいてくれないか」

 

 アーネストは振り返って俺に歩み寄ると、軍服のポケットから赤い粒を取り出した。

 彼はその、紅玉(ルビー)を思わせる立方体を俺に握らせた。

 火葬(クレメイト)だ。俺は驚いて皇子の端正な顔を見るが、彼はどこか謎めいた笑みを浮かべるのみだ。

 

「いいんですか? これの為にあれだけの犠牲を払ったのに」

「構わないよ。こちらの用事はもう済んだからね」

「……それは」

 

 言葉の意味を問おうとした時、スキンファクシから激しい風が吹いた。

 まるで急き立てるかように船体が僅かに浮き上がる。言葉を遮られた俺に、アーネストはどこか申し訳なさそうな微笑を浮かべた。

 

「また会おう、剣の福音。そう遠くないうちに」

 

 そして再び踵を返すと、振り返る事無くタラップへと向かっていった。

 俺はただ、その背中を見送ることしかできなかった。表情と合致しない、やけに抑揚のない別れの言葉が耳に残った。

 もしかするとそれは、あの薄い笑みを浮かべた皇子が初めて垣間見せた、彼の本当の顔だったのかもしれない。

 

 

 

 ■

 

 

 

 米粒ほどにしか見えなくなった航空艦の船体がやがて完全に雲間に消えた後、俺とサリッサはどちらともなくセントレアに向けて歩き出した。

 どう切り出したらいいものか分からず無言で歩みを進めていると、隣を歩くサリッサが不意にこちらを向いた。視界の端に写る彼女の顔が再び痛切の色を帯びているのを見止め、息が詰まった。

 彼女は自分の不運を嘆いているのではなく、ただ俺を気遣っている。去り行く自分が後を濁すことのないように。

 やはり、俺には許容できそうになった。

 俺は、これから言わんとする言葉の邪魔をする理性――僅かな良心の呵責を迷いなく締め出せるように瞼を閉じた。

 それから息を吸い、胸に詰まった鉛のような何かを声にした。

 

「ひとつだけ方法がある」

 

 予想していた言葉とは違っていたのだろう。

 サリッサは一瞬、驚いたように唇を僅かに開いた。そして、すぐに険しい表情を浮かべると、間髪入れずに平坦な声で尋ねた。

 

「方法?」

「詰め所の地下に遺跡がある。それに触れれば、少なくとも皇帝の力が体に影響することはなくなるはずだ。俺と同じように」

「地下……あ、あれね」

 

 俺の端的が過ぎる説明を聞くなり、サリッサは思い当たる節があるかのように頷いた。彼女は往還門を見た事など一度もないはずだが、事ここに至っては最早どうでもいい。

 

「あんたのその様子じゃ、それだけってことはないでしょ」

「ああ」

 

 いつの間にか足を止めていた少女の瞳を見つめ、その先を言う。

 

「一度そうなったら……もう普通の人間には戻れない。百年経とうが千年経とうが、死ぬことも……歳を取ることすらもない。人の営みの中に居場所はなくなる。もしかすると何もかもが嫌になる時も来るかもしれない。そういうものになるんだ」

 

 随分と遠回しで優しい表現を重ねたものだと、どこかで声がした気がした。

 サリッサは時折頷きながら聞いていた。

 彼女がどのような結論を出そうと異を唱えるつもりはない。最低限、その程度の覚悟はしなければ、俺は自分に言い訳もできないに違いなかった。

 

「また思い詰めた顔してるからどんな恐ろしい話かと思えば……」

「……恐ろしい話なんだよ」

「そう? そうかしら」

 

 サリッサはそれだけを呟くと、是とも否とも取れない態度のままで歩き出す。

 迂遠な表現ではやはり伝わらないのかも知れない。そう考え、必死で適切な言葉を探した。しかし、彼女を人の領域に留めたいと思う反面、死なせたくないとも強く思う。

 未だかつて、これほどの葛藤を経験したことはない。

 

「……そうよね。こんなに悩んでるんだもの。きっと大変だったのよね」

 

 またも俺の表情から心中を読み取ったらしい。サリッサはささやくような声で呟き、赤い目を伏せた。朝風に揺れる黒髪を指で梳りながら思案の様子を見せた後、彼女は透徹した微笑みを浮かべて言った。

 

「あたしってあんまり頭良くないからさ。あんたの言ってること……たぶん、半分も分かってあげられない。ずっと生きるって事が……どういう事なのか想像もつかないから。もしかすると……怖いのかもしれない。でも」

 

 言葉を切って、サリッサは真っ直ぐに俺を見上げた。

 

「そういうタカナシ自身はどうなの? 本当に辛いことばかりだったの?」

 

 思ってもみなかった問いに虚を突かれ、俺は黙り込んだ。

 違う。自問の必要もない。少なくとも、マリーがやってきて――それからの日々で出会った人々が、怠惰に門番を続けていた俺の世界に、何か、後悔以外のものを与えてくれたのは疑いようもなかった。

 

「こんなこと言うと気持ち悪いかもしれないけどさ……あたしは結構あるんだよ。こんな日がずっと続けばいいなって思う日。いつだったかのお昼にさ、いつもみたいにタカナシが死にそうな顔してお店にやってきて、あたしが作った不恰好な揚げパンを買っていって……あ、そういえば、あれ美味しかった?」

「え……いや、どうだったかな……確か、まずくはないと思ったが」

 

 いきなりの事で咄嗟には思い出せない。

 歯切れの悪い返事に気を悪くしたのか、サリッサは一転して口を尖らせた。

 

「い、いつも買ってるから気に入ってるのかと思ったじゃない! 紛らわしい!」

「まあ、飽きない味ではあるんだよな。恐らく」

「またいい加減なこと言って……嘘でもいいから美味しかったよーとか言ってみなさいよ。ま、それはそれで気持ち悪いけど」

「……どうしろってんだよ」

 

 不満そうに鼻息を荒くする少女をどう宥めようかと考えるも、名案を思い付くより早く、不意にサリッサが顔を綻ばせた。

 

「そうそう……こういう感じで。ずっと、永遠にそんな日がいいよ、あたしは」

 

 分からない。納得して頷くサリッサを見ても、俺には彼女の言いたい事が理解できなかった。その無理解は、彼女が意外に女の子らしい持ち物――小さな手鏡をポケットから取り出してこちらに向けた瞬間、氷解した。

 自分の口元に浮かんだ僅かな笑みを、俺はその時、初めて自覚した。

 

「辛いこともあったばかりで、やらなきゃいけない事は沢山残ってて……今はまだ無理かもしれないけど……いつか、こんな槍が必要なくなって……麺棒にしちゃえるような日が来たら……長生きするのも悪くないなって、タカナシも思ってくれるのかな……?」

 

 言いながら手鏡を仕舞うサリッサは、もう笑ってはいなかった。

 エプロンドレスの胸元を掴み、瞳に薄く涙を滲ませた彼女をどうしていいか分からず、俺は、随分と低い位置に下がってしまった頭を撫でた。

 それでも耐えるように眉根を寄せていた彼女は、やがて堪え切れなくなったかのように大粒の涙を零しながら身を寄せてきた。

 

「ごめん……ごめんね……今これ以上言ったら……脅迫になっちゃうから……」

 

 くぐもった嗚咽混じりの言葉を聞きながら、俺は朝焼けの高い空を見上げた。

 もう分からないままではいられない。不意にそう思った。

 

「……悪かった。もう、分かったから……伝わったから」

 

 苦心して空に発した言葉は、情けないほど小さかった。

 それでもサリッサはゆっくり頷き、一層強く俺の上衣に顔を埋める。俺は胸に去来した感情に名前をつけることができず、やはり空を仰ぎながら彼女の髪を撫で続けた。

 

 人の本質は利己(エゴ)であると誰かが言った。だとしても、己に利することと他に利することが同義である場合、それは何と呼べばいいのだろう。やはり利己(エゴ)なのだろうか。

 

 いつか、遠い昔に置き去りにしてしまった何かを思い出そうと探して視線を動かす。

 雲ひとつなくなった空のどこにも、答えはやはり転がっていなかった。

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