37.過ち①
白い塔は瓦礫となり、上層の大地に粉塵を巻き上げて姿を消した。
皇都トラスダンの上層に立つ塔が完全に崩壊する様子を、俺はスキンファクシの殺風景な展望室から見ている。艦が加速し、光景はすぐに雲の連なりの向こうへ遠ざかってしまったが、俺はしばらくの間、硝子窓の向こうに広がる夜の闇を見詰め続けた。
第二皇子アーネストは生きていた。
彼の副官であるエニエス女史と共に、スキンファクシまで逃げ延びることに成功していたのだ。彼らは航空艦を待機させ、塔が崩壊する直前まで俺達を待っていた。
サリッサを抱えた俺を見止めた時の彼女の表情。それから、アニエスの姿がないことに気付いた時の表情を、俺は、忘れることができそうにない。
俺は無力だった。
治癒術を施された包帯巻きの両手を伸ばし、傍らに立てかけてあった長剣の柄頭を引き寄せる。手慰みにそれを掌で弄びながら、意識的に思考を切り替えた。
皇帝の語った様々な言葉。
奴が語った――異界と現界が繋がる未来とは、一体いつの話なのか。奴が継承戦で転生を画策している以上、近い時期ではないように思える。が、それも推測に過ぎない。
あれが本当に起き得ることなのだとしたら絶対に阻止しなければならないが、何の手がかりもないのが問題だった。
皇帝本人に問い質すしかないだろう。再び顔を合わせれば戦いは避けられないだろうが、いずれにせよ奴の転生を許すわけにはいかない。決着をつけなければならない。
負けるわけにはいかない。
もう、二度と。
「……あんたって、結構……顔に出るタイプよね」
聞き覚えのない、幼さの混じった細い声に現実へと引き戻される。振り返ると、展望室の長椅子に寝かせていた黒髪の少女が目を開けていた。
年の頃が違うが彼女はサリッサのはずだ。皇帝の退行によって二歳、いや、三歳は若返っている。本来の退行は対象を消滅させるまで時間を巻き戻す現象攻撃だ。何らかの要因で効果が減衰したのか。
「ああ、いや……」
どう声をかけていいか分からず、俺は言葉を探して視線を彷徨わせた。すると、サリッサは変わらずに赤い瞳を瞬かせるや、ぷすっと吹き出した。
それから、自嘲じみた笑みを浮かべて一回り小さくなった自分の手を見た。
「別に気にしなくていいわよ。自業自得だもの……っていうか、これくらいで済んでラッキー……な、わけないか」
唐突に。
サリッサがかざした掌が歪んで見えた。
それは、時の福音の影響が健在であるという事実を物語っている。
「……嘘だ」
我知らず、愕然とした呟きが零れた。
まだ巻き戻るのか。いったいどこまで巻き戻るのか。決まっている。奴が、皇帝が手を抜く理由などなかったのだから。奴も言っていた。手を下すまでもないと。
最悪の想像が否応なく脳裏を過ぎる。
「……なんであんたが死にそうな顔してんのよ。ま、いいわ……あんまり時間がないみたいだからちゃんと伝えておくわね」
「時間がないって……何言ってるんだ」
当の本人は至って平静そのものといった顔で手を下ろすと、ゆっくりと身を起こした。緩くなってしまったエプロンドレスの袖をまくって固定すると、長椅子にかけてあった彼女の槍を手に取る。
純白に変じた槍は意匠こそそのままだったが、受ける印象は全く異なっていた。
存在そのものが、何か、世界から疎外されているような言い知れない異物感。
覚えがある。遺物だ。
だが、槍の形をした遺物など俺は知らない。剣、魔道書、杖、時計――少なくとも千年前にあった九つの中にはなかったはずだ。俺に槍を譲った往還者も、それが遺物だとは一言も言わなかった。
「あんたに貰ったこの槍……あたしにはいまいち何なのか分からないけど、王様の力を防げるみたいよ。まあ、完全じゃないみたいだし、限度があるみたいだけどね。だから、返すわ。あんたが使いなさい」
そう言うと、サリッサは穏やかな顔で槍を差し出してきた。
遺物を往還者以外の人間、俺以外の往還者が呼ぶところの定命の者が扱った例はない。そんなことが可能なのかどうかも俺には分からない。
だが、もし未知の遺物がサリッサを守ったのだとすれば、確かに筋は通る。
秘められた何らかの権能が、時の福音と干渉する類のものだったのか。或いは、遺物全てに他の福音の権能を減衰する効果があるのか。
いずれにせよ強力な武器になる。しかし。
「いや、ちょっと待ってくれ……それはお前にやったんだからお前が……」
「もう無理よ。分かってるでしょ?」
「……分からない」
嘘だ。
俺はもう理解している。退行はサリッサをこの世界から抹消する。
できることは何もない。物を斬るだけの俺の福音は何の役にも立たない。
深く、暗い絶望だけが眼前に口を広げている。
長く。長く生きてきた。覚えている事よりも忘れている事の方が遥かに多いほどに。
友人が居た事もないわけじゃない。けれど彼らは、あっという間に去っていく。彼らの葬式に出る度に我が身を少しだけ呪い、やはり他人とは距離を置こうと思い直してきた。なのにまた、気付けば同じ事を繰り返している。
それはきっと利己でしかなく、俺の心の弱さに違いない。それでも。
「まだ……なにか、方法があるはずだ……だから」
「いい加減にしてよ……!」
何かに堪え切れなくなったかのように、強く唇を噛んだサリッサが俺の手を引いた。益体もない俺は前に倒れ、自分よりも二回りは小さくなってしまった少女の両手で誘われるように、赤と黒のエプロンドレスに包まれた。
その意味を理解するより早く、俺を掻き抱いたサリッサの震える声が耳朶を打った。
「どうしてそんな顔で人の心配なんかしてるのよ……! いつも一人で戦って……きっと……戦い続けて、本当はもう……自分でも分からないくらいぼろぼろなのに……!」
「……俺が?」
懊悩がなかった、とはとても言えない。
俺は、今までサリッサにどんな顔をしていたのだろう。してしまっていたのだろう。
なんて情けない。
起き上がろうとする俺を、無言の、小さな手のひらが押し留めた。
そこからじわりと伝わる温度があった。その暖かさが、俺が努めて遠くに追いやっていた何かに触れた。
きっと俺は、本当は誰も取りこぼしたくなどなかったのだ。
まだ知り合ったばかりで何も知らなかったアニエス。
先に死んでいった友人達、街の人々、共にこの世界にやってきた仲間達――マリア。
カレルやアリエッタでさえも。
そう気付いた瞬間、俺はこの少女を失いたくないと思った。
たとえいつかは道が分かたれるのだとしても、それは、今日じゃなくてもいいはずじゃないかと。幾千、幾万もの悪罵を浴びせ続けてきた、居もしない神に縋った。
無意味だと知りながら。
違う。方法はある。
俺はきっと、地獄に落ちる。




