8.交渉②
ルース・ベーカリーから北門まではそこそこの距離がある。
牧歌的な風景を楽しみながら散歩をするにはちょうどよいのだろうが、それよりも俺は腹が減っていたので歩きながら揚げパンを齧ることにした。
行儀とかは気にしない。この街の人口では主街区でさえ滅多に人と出会うことがないからだ。田舎暮らしもここに極まれり。気楽なものである。
「お行儀悪いわよ」
サリッサが俺の歩き食いを汚らしいものでも見るかのように見咎める。
ああ、そういえばサリッサが居たのだった。
商店街からずっとつまらなさそうに隣を歩いているだけだったので存在を忘れかけていた。
「別にいいじゃないか。誰も見てないし」
「あんたってほんとインセンシティブよね」
「そうかね」
相槌だけ打って言われた言葉の意味を少し考える。無神経、だろうか。
ウッドランドの公用語はどうも頭から意味が抜け落ちてしまうことがあるので困る。
思考だけはいつまでも日本語で行っているせいだろうか。
「東洋人って、みんなそんな感じなの?」
ああ、やっぱり。俺は揚げパンを咀嚼しながら納得した。
サリッサがわざわざ同行を申し出たのは、やはりこの話の続きがしたいのだ。
「そんなわけはないだろう。色んな奴がいる。むしろ繊細な人間が多いんじゃないかな」
「あんた見てると、どうしてもそうは思えないんだけど。あたしの気のせいかしら……」
「ひどいな。俺だってナイーブなところはある」
飲み物なしで揚げパンを食べるのは結構辛いものがある。
「例えば、いつまで経っても名前で呼んでくれない奴とかな。実は傷付いてるんだ。うん」
「そうやって心にも無いことをすらすらと言うから無神経だってのよ」
「心外だ」
適当に話を合わせつつ井戸でもないかときょろきょろしていると、不意に頬に牛乳瓶を食らった。
冷たい。
「飲み物、買ってかなかったでしょ」
「お、おお? サンキュー?」
俺の頬に牛乳瓶を当てたまま、サリッサは嫌そうな顔をしている。
なんなのだろうか。単なる親切というわけでもないのだろうが、狙いがよく分からない。
嫌ならやんなきゃいいのにとも思うが、ここは素直に受け取っておくことにした。
どうやってプレスしてるのかいつも気になる紙の蓋を外し、瓶を思い切り呷る。そこで、ふと気付いた。
「何か盛ったのか?」
「盛るか!」
ドスッとボディブローのいい感じの奴を食らい、危うく色々とリバースしそうになったが堪える。
「いいパンチだ」
ビッと親指を立てて賞賛するが、サリッサは完全に無視をした。
彼女は俺の頭を指しながら言う。
「ところで黒髪ってやっぱり珍しいわよね」
「まあ、そうだな。言われてみればウッドランドには殆ど居ない気がする」
俺はサリッサの言わんとするところを少し理解した気がした。彼女の髪も黒だ。
まだ嫌そうな顔をしているサリッサ。だが、俺は何か勘違いをしているのではないだろうか。
彼女の顔立ちは、少なくとも俺の知る日本人のそれとは程遠い、バタ臭い感じの美少女だ。瞳も赤い。
顔の特徴は、やはりウッドランド人に近いだろう。
俺は共通認識として黒髪が東洋人とされている事を知ってはいるが、セントレアから滅多に離れることがないため、この世界の東洋人を実際に見たことはない。
この世界の東洋人がこういう容貌をしている可能性は十分にある。
生まれの話。ずっと遠い国。
この間の話の中で、それらがサリッサの心に残ったのだろうか。
「親の顔知らないのよ、あたし」
「ああ、孤児か」
「そうね」
さっぱりとした調子でサリッサは言った。
頻繁に戦争状態に陥るこのウッドランドではそんなに珍しい話ではない。
サリッサも言っていた通り、平和なのは田舎だけだ。
皇都あたりに行けば物乞いや孤児があちこちで見れることだろう。治安状態が悪い街では、街中に孤児上がりの盗賊が闊歩していることもある。
戦争なんて、どこの世界でも大して変わりはしない。
「親のことは詮のない話だと思ってるけど、自分のルーツは知りたいじゃない。あんたがどれだけ憎たらしい奴でも、ちょっとでも可能性があるなら聞いておきたい。そう思うのは変かしら」
「いや。俺にはいまいち分からんが、変じゃないと思うぞ」
しかし俺の出自は、サリッサとは絶対に異なるものだ。
何故なら彼女は持っていない。
俺がかつて、心から願って得たもの。俺がかつて、半分だけ手放したものを。
「この間も言ったけど、お前がもし俺と同じ出身なら、たぶん俺はお前に負けていたよ」
「あんたの国の人間がウッドランドに来たら、あんたみたいになるっていう話?」
「だな。どういう形かは人によって違うから分からないが、人間相手にまず負けはない。そういう意味では、サリッサが俺に言ったことはあながち間違っていないのかもしれないな」
人間である筈がない、だ。
そうかも知れない。ごもっともだ。
「残念ながらお前は俺とは違うよ。俺にとっては喜ばしいことだけどな」
「は。あたしにとってもそうよ」
呟いたサリッサの顔は、やはり嫌そうだ。
しかし、もしかすると彼女の嫌そうな顔は、俺にはそう見えているというだけで、本当は何か別の意味がある表情なのかもしれない。
ただ、どうも今の俺にそれを推し量るのは無理そうだ。
「言っとくけど、あんたとはいずれ決着をつけるわ。馴れ合うつもりなんてないから」
「ああ、まあ、そうだな。せいぜい楽しみにしておくよ」
何とも気難しい少女と話していたら、いつのまにか北門のあたりに差し掛かっていた。
さて、宿はどの建物だったか。曖昧な記憶をたどっていると、
「こっちよ、タカナシ」
赤黒のエプロンドレスの少女はさっさと先に歩いていってしまう。
本当に気難しい奴だなあとゆっくり噛み締めながら、俺はその華奢な背中を追いかけた。