26.ささめく雨の街で③
夕時、疲れが取れたとは言い難い体を引き摺って歩く。
カフェで相談したとおりにランセリアの市庁舎に立ち寄った帰りだ。役人が言うには、現状ではアズルからの連絡はないが、もし何かあればサリッサが滞在している宿に届けてくれるそうだ。転移門の破壊で行政も混乱していたというのに随分と親切な対応である。
特に皇女の名を出したわけでもない。不思議なものだ。
さて、机に突っ伏して寝るなどという経験を最後にしたのは、果たしていつだったのだろうか。俺の体感時間的には遥か昔であり記憶にはさっぱり残っていないのだが、現代日本人の共通認識的に考えれば、学生の身分だった俺にもそのような経験をしていた頃はあったはずである。
しかし、少なくとも慣れてはいなかったようだ。どうも体の節々が痛む。
「あんだけ寝た割に妙に疲れたというか……年寄りくさい顔してるわね」
「歳なんだよ」
「はいはい、そうね」
隣を歩くサリッサは、やはり呆れ顔で肩をすくめる。
「そういえば、あんたっていつも顔色悪いわよね。いつもちゃんと寝てるの?」
「むしろ寝てる方が珍しいくらいかもな」
「寝不足が習慣化すると老けるのが早いって聞いたことあるけど」
「……そうかねえ」
考えてみれば、夜は戦ってばかりいる気がする。
大体それはミラベルや九天の騎士――サリッサ達も一因であった気がするが、口にはしない。詮のないことだ。
相も変わらず小雨が降る空は、徐々に薄暗さを増していく。
「もう日が暮れそうだけど、宿はどうする気?」
俺がこの街に一人で来たのはアクシデントの結果である。当然、宿の手配などできていよう筈もない。
この時間でも、一人分なら部屋を取れなくもないように思う。だが、手持ちの金もそう多くはない。不都合がない限りは節約を心がけるべきだろう。
「一人だったらどうとでもなるわな。酒場でも野宿でもより取り見取りだ」
「はぁ……なにがより取り見取りなんだか。そんなだから不健康そうな面構えになるのよ。別にお金がないってわけでもないでしょうに」
「分かってないな。無料と有料には大きな開きがあるんだぞ」
とはいえ、野営の道具もアズルに置きっぱなしである。身に着けている外套だけで寒さを凌ぐには、この地方は少々寒過ぎるだろう。
となると酒場で夜明かしをするか。酒場というのは安宿を兼ねている場合もある。運がよければ出費を抑えた上で寝床にありつけるかもしれない。上等なベッドなどとは無縁だろうが、壁と屋根があるだけマシである。
ぼんやりとそれなりの覚悟を決めている最中、
「まったく、仕方ないわね……あたしが泊まってる部屋に来なさい。ソファーくらいなら使っていいから」
などとサリッサが唐突に言い出したので、俺は驚愕に見舞われることになった。
黒髪の少女はいつもの嫌そうな顔で言うものだから、いまいち何を考えているのかが判然としない。
素直に考えれば本人の言葉通りに嫌々仕方なくなのだろうが、彼女の表情は行動や内心と合致していない可能性が高い、というのが、短い付き合いの中で学んだ数少ない事実のひとつだ。
しかし、サリッサの思考がどうあれ、少なからず魅力を感じている異性と同室で一晩を過ごすというのは肯んじえない。道徳観念上もそうだし、心情としても受け入れ難い。
「さすがにそれは遠慮する」
なので慎重に言葉を選びつつそう告げたのだが、サリッサは口をへの字に曲げて不機嫌さを加速させる。
「は? なんで?」
ああ、彼女の情動は謎だらけだ。これは、俺が思っていたよりも気安く――打ち解けているということで、実は断るべきではないシーンなのだろうか。性別を超えた友情とでも言うべき何かなのだろうか。
であれば、変に意識してしまっている俺の方が間違っているのか、という気になってくる。いまひとつ他者との距離感は分かりかねる。俺が深い人付き合いに不慣れなせいなのかもしれない。
「いや……そんな顔するなよ。別に嫌なわけじゃないんだ」
「んじゃなによ。夜遊びでもしたいわけ?」
「なわけないだろ」
両手を腰にあてて俺の顔を覗き込むサリッサは、本当に分からないといった感の表情である。いつだったか、彼女に無神経だと言われた事があるが――サリッサ自身も大概ではないだろうか。
サリッサはなおも納得のいかないといった様子だったが、俺はそれ以上彼女に構う事無く街路の向こうに目をやった。
転移門の方角だ。周囲一帯は鎖で規制線が張られている。その更に向こうには、皇都から転移して来たと思しき黒ローブ姿の魔術師や物々しい全身鎧を着込んだ騎士などが闊歩していた。
「あの連中は」
「ん? さあ、あたしは魔術師についてよく知らないけど……騎士の方は月天騎士団ね。第二皇子の指揮下にある騎士団よ」
「月天……ロスペールを守ってた連中か」
「よく知ってるわね。騎士団の配置なんて機密もいいとこなのに」
「ああ。ちょっとな」
ロスペールが陥落したことはサリッサも知らないと見える。
竜種は腑に溜め込んだ魔素で自ずから焼け落ちたようだが、骨は残っているだろう。竜種に完膚なきまでにやられた月天騎士団が死骸から情報を探りにやってきたと考えれば筋が通る。
見たところ騎士の人数は十人前後。これが連中の生き残り全数とは思わないが、結構な割合を割いているに違いない。第二皇子とやらはリベンジにさぞ躍起なのだろう。
問題は、骨を見たところで何が分かるわけでもないということだが――継承戦のことを考えれば第二皇子は敵の可能性がある。わざわざ竜種のことを教えてやる義理はない。
「あんたはともかく、あたしは騎士団と顔を合わせない方がいいわね。さっさと宿に移動しましょ」
■
布製の外套が元着ていた革コートより重いなどということはないはずだが、気のせいか、いつもより肩がこる気がしてならない。
外套だけを脱いで肩を回した俺は、剣帯を身に付けたままでソファーに沈み込んだ。
ランセリア商業区の片隅にある小体な宿屋の一部屋だ。皇女様と違い、サリッサの宿選びが割りと庶民寄りなのは助かった。
いつだったか、ドネットとの会話の中でサリッサの金銭感覚も狂っていたと記憶しているが、もしかすると騎士を辞めてパン屋をやっているうちに改善されたのかもしれない。
木造二階建ての二階。しかも角部屋という位置取りも非常に普通だ。素晴らしい。
「とりあえずミラベルからの連絡を待つとして……のんびり休んでていいものかしら」
ドアの脇にある木製のコートハンガーに赤いインバネスコートを掛けながら、サリッサは欠伸を噛み殺しつつ言う。
まだ宵なのだが、随分と眠そうだ。いっぽう、一応は昼寝を行った俺は疲れこそ残っているものの眠気はない。はっきりとした頭で少しだけ考えてから、襟足の辺りを掻きつつ考えを口にした。
「この街で何ができるってわけでもなし、いいんじゃないか」
「悠長ね。ミラベル達に味方するんなら、もう少し危機感を持ったほうがいいんじゃないの? あれって反乱よ。反乱。東側の小国じゃあるまいし」
「いやいや、皇帝とまともに争ったら勝ち目なんぞ欠片もないってことくらい、みんな弁えてるさ。だからって、現状でやることがないのはどうしようもない。勝手に何かするわけにもいかないし」
どれだけ腕が立とうが、たかが剣使いと槍使いの二人でやれることなどたかが知れている。俺もサリッサも大局を動かすような人間ではない。それはミラベルのような人間の役割であって、俺達が勝手に動いても邪魔にしかなるまい。
と、俺は思うのだが、どうもサリッサは納得がいかないようで、どすんとソファーに腰掛けて乱暴に中衣を脱いだ。
「……いくら事情があっても、ミラベルみたいな賢い子が正面きって皇帝に逆らうなんて言い出したのは、どっかの誰かがけしかけたからだと思ってるんだけど」
「誰だろうな」
「白々しい」
膨れっ面で呟くサリッサは、キャミソールに似た衣一枚でソファーの背もたれに寄り掛かって天井を見上げる。暖炉が設置されている上に空調の魔法が効いているらしい室内は確かに暖かいのだが、それにしたって薄着が過ぎる。
なんて無頓着なのだろう。
あらぬ方向に視線をやりながら、俺は雑念を振り払って言った。
「つまり何が言いたいんだ」
「判断を下すのがあんたでも良いんじゃないの、ってこと。あんたがけしかけたんなら、それくらいの責任はあるんじゃない。能力だってあるはず」
「それは……」
駄目だろう、という言葉を飲み込んだのは、サリッサの言うことも納得がいくからに違いない。どころか俺には全面的な責任があるといっても過言ではないかもしれない。
いったいどのような経緯でサリッサがそのような結論に至ったのかは分からないまでも、一理も二理もある話だ。向き不向きを別とすれば、だが。
ログで組まれた趣のある天井を眺めながら、何かしらの責任を負っていた最後の経験を思い出そうとして、挫折する。百年単位で過去の出来事だ。事柄の重みが軽かったとは思わないが、焼き付くような記憶だったとも言い難い。
「あたしは……あんたは、元は位の高い騎士だったんじゃないかって思ってたこともあったのよ。たとえば……ずっと東にある国のね。まあ、過去形なんだけどさ。その程度には買ってるのよ」
だから、サリッサが溜息交じりに発した、そんな言葉に救われた。
自分がどれだけ人を率いるのに向いていないかを、経験談を抜きにしてうまく説明する自信がない。
持ち前の柔弱な精神性を発揮した俺は、苦笑を浮かべるに留めて首を掻く。
「無理だよ。俺には」
できるだけ客観的な分析に基づいた結論である俺の呟きは、息を詰めて佇む少女の傍を抜け、赤々と燃える暖炉の手前あたりに響いて消えた。
「……そ。ま、隠し事も多いもんね。あんたはさ」
非難めいた、それでいて物憂げなサリッサの声を聞きながら、ソファーに沈み込んだ俺は、何を返すわけでもなくただ目を閉じる。
サリッサにはああ言ったものの、本当に何もしないのは確かに暢気が過ぎるかもしれない。さしあたっては、先ほど見かけた月天騎士団とやらの動向を見るのも良いかも知れない。役立つ情報が得られるとは限らないが。
決して長くない時間で方針を決めた俺は、瞼を持ち上げてベッドに寝転がったサリッサの後頭部を見た。
不貞寝だ。規則正しく上下する肩を見るに、おやすみ三秒といったところだろうか。
まるで猫である。
そんな彼女の姿と言葉とに、若干の申し訳なさを感じたのは、何故だろうか。
俺にはいまひとつ、分からない。




