17.剣の福音
俺が《剣の福音》なんてものを与えられた理由は、実際のところ判然としない。
それもその筈で、与えた本人である《不定形の神》が何の説明もしなかったからだ。
頭の良い連中が立てた仮説としては、往還者当人の強い願望に基づいているのではないかということだったが、その仮説が正しいのだとすれば、俺は心の底から剣を欲していた事になる。
聞いた当時の俺は、この仮説に納得していたように思う。
が、今は釈然としないものを感じている。
この千年で福音によって価値観が変えられはしたが、それを差し引いたとしてもやはり納得のいく話ではない。
確かに俺は少年の願望として剣に憧れもしたし、成長してもその願望を多分に引き摺っていた。同世代の人間からしてみれば、やや子供っぽいと認めざるを得ない趣味として抱き続けていた。
けれど、その願望は現世における常識の範疇に収まっていたように思う。
いくら物語の中の存在に憧れようと、それが最も強い願望だったかというと、違うと言わざるを得ない。現世で生きていく上では、もっと現実的な願いの方が強かった。
では、なぜ俺は剣を与えられたのか。
意味を使命の中に見出そうともした。
竜種によって滅びかけていた人類種を救うこと。この力はその為に与えられたものなのだと納得しようとした。
だが、竜種が死に絶えた後も人類種は救われてなどいなかった。
人間同士の争乱の時代に突入した世界は、相も変わらず悲劇に満ちていて、使命などと勝手に思い上がっていた俺は、自らの無知を呪うくらいしかできなかった。
人を斬るという行為に抵抗があったわけではない。
数多の竜を屠った俺は、既に命ある者を殺めるのに慣れ切ってしまっていたし、命の尊さというものを説く資格なんぞもとうに無くしていた。
ただ、ひとつの争乱を収めるのに、一体何人を斬ればいいのか。一体いつまで斬ればいいのか。そういった、自分が抱えていた根本的な矛盾に直面した。
かつて竜種が引き起こしていた惨劇が、今度は人の手によって生み出されている。
全ての命が等しく平等の価値を持つというのなら、
竜という種を滅ぼしたように、人という種も滅ぼさなくてはならないのではないか。
頭を過ぎった無茶な考えは、分別を無くしつつあった俺でもなにかが明確に間違っていると感じられた。空恐ろしいのは、このロジックを一見しても何も矛盾無く感じられてしまったことだ。
俺はもう狂っていたのだと思う。
それから、狂った頭で納得がいくまで思考した。
人間とは善悪を併せ持つものであり、争乱を引き起こすこともまた、生まれ持った自然な性質だ。これは間違いがない。
命はもちろん平等である。貴賎などない。これも、間違いではないはずだ。
だとすると、竜種を滅ぼしたのが間違いではなかったか。
そう結論付けた先にあったのは、尽きる事のない後悔だけだった。
気が付けば、俺は一人になっていた。ずっと一緒に居るだろうと勝手に思い込んでいたマリアでさえ去り、まるで逃げるように現世に帰ることを決めていた俺は、今度は約束に縛られた。
何も分からないまま、ずっと諦観の中に居た。
果たして、この力の意味は、一体どこにあったのだろうか。
俺は千年も解らないでいる。
だから、そんな単純な事も分かっていない俺は、自分が繰り出した闇色の剣技が竜種の赤い息吹に呑み込まれるのも「ああ、やっぱりな」という無味乾燥した思いで眺めている。
原理の不明な、切断と重圧とを兼ねた複合剣技は十全に発動した。剣尖から放たれた黒い魔素の濁流は、迫りつつあった真紅の魔素の奔流に対抗せんと一直線に伸び、そして消えた。
息吹と拮抗することもなく、勢いを減じさせる事すらもできずに。
「積層鏡楯・九十七層!」
半ば悲鳴に近い叫びと共に、ミラベルが恐らくは全霊の防御魔法を展開した。
目と鼻の先まで迫っていた光と熱が、百に迫る層を重ねた銀色の障壁によって遮断される。だが、それも僅かな間のことだ。薄っすらと透けた障壁の層が、前面から順に砕けて焼失するのが確認できた。
果たして何秒もつのか。計算しようとして、やめる。
「……どうやら、だめみたいですね」
ミラベルが日頃よりも幾分か子供っぽい、諦めの滲む微笑を浮かべて言った。もはや風前の灯といった状況に置かれながらも、取り乱すことはなかった。
この少女は日常的に死を覚悟している。いや、ミラベルだけではない。今は悲嘆に膝を折ったマリーもだ。助けると約束した俺の言葉を信じながらも、その力が俺にはないことを理解している。
もし俺が、今でも一人だったならば。
このまま諦観の中で消え去ったとしても何の問題もなかった。むしろ相応しい末路だろう。人から外れた者に、人のような死に方は望むべくもない。
けれどもう、俺の背は幾つかの運命を負っている。背後と眼下で燃える街には、大勢の人々が居る。
それを分かっていながら、成す術もなく消え入ることなどできるだろうか。
無理だ。
俺には許容できない。
「ここじゃ終われない」
「え?」
見開かれた翡翠の瞳を見つめながら、打ち震える手で長剣の柄を握り直す。
「何とかするって約束しただろ。だから、こんなところじゃ終われない」
内なる権能に強く呼びかける。
心の底では嫌悪してやまない、与えられただけの力に。
しかし、山中で試みたときと同じく意識が遠のくだけで、かつてのような能力を引き出すことは叶わない。
辛酸を舐めるだけの俺に、唐突にミラベルの優しい声が届いた。
「ずいぶんと迂遠なことを言うのですね、タカナシ様は」
「……迂遠?」
「約束なんてなかったとしても、きっとあなたは何だかんだ言いながら戦ってしまうんですよ」
「どうしてそう言い切れる」
「だって、タカナシ様はアズルの街を守ろうとしているじゃないですか。あの竜を何とかするだけなら、早々に竜の下へ走ればよかった。なのにあなたは、真っ先に街の盾になることを選びましたね。あなたには、そんな義務なんてないというのに」
間近にある少女の唇が紡いだ言葉が、やけにはっきりと耳に届く。
言葉に詰まり、答えを探す。
息吹に障壁が砕かれるまで、もう幾ばくの猶予もない。こんな話をしている場合ではない。だが、重要なことなのだという確信がある。
「……嫌なんだよ。誰かが悲しむのは嫌なんだ。君も、マリーも、この街の人達も」
はっきりとした言葉にしたことはない本音を、初めて口にした。
ミラベルは眩しそうに目を細め、納得か、或いは満足したかのように頷いて、何も言わずに目を閉じる。
胸の内にあるのはあやふやで、しかし、強い衝動だ。
マリアも、約束を交わしたあの日、涙を浮かべて去っていった。だから彼女との約束は、俺の胸に強く刻み込まれた。彼女に恋慕していたからだけではない。
何だか分からないがマリアが悲しんでいて、俺が彼女の悲しみを少しでも軽くできるのなら、単純にそれがいいと思ったからだ。
世界に満ちる不条理が、とにかく嫌なのだ。辛いことばかりがある世界が、たまらなく許せないのだ。そんな駄々のような曖昧な感情こそが、俺の根本なのだ。
くだらなくも救いのない現世に生きた、高梨明人のちっぽけで壮大な最後の願いだったのだ。
きっとそれは、誰だって持っている答えだ。誰しもが一度は思い描いて、すぐに諦める願いなのだ。それなのに俺は、俺だけが力を手にしてしまった。
どうして諦めたままでいられようか。
もし本当にそんな、幼稚な願いから生まれた力なのだとしても。
もし本当にそんな、絵空事の為に与えられた力なのだとしたら。
「だったらこれしきの吐息くらい、微塵に切り裂いてみせろッ!」
抗うように叫び、剣を振るう。
最後の銀の障壁がたわむと同時に瞬時に砕け、熱波と共に赤い魔素の奔流が押し寄せてくる。絶叫と共に振るった長剣の刃は、何の剣技も発動させることなく、ただ宙を薙ぐ。
途端、視界を埋め尽くさんばかりに奔った息吹が、まるで十戒のように縦に割れた。左右に分かたれた奔流は俺とミラベルの傍を過ぎ去り、あらぬ方向の夜空へ流れて散っていく。
瞠目し、散っていく赤い魔素を振り返り、銀髪の皇女が嘆声を漏らした。
「これは……!」
摂理を捻じ曲げ、万物を切り裂く力。
剣という概念に含まれた、切断という現象のみを結果に反映する。
《時の福音》による時間操作、《生命の福音》による生命操作と並ぶ、《剣の福音》の権能の一側面。かつてそれらは《叡智の福音》を持つ往還者にこう呼ばれていた。
現象攻撃。
《剣の福音》の現象攻撃は、対象がどれだけ頑丈だろうが、実体があろうがなかろうが、関係ない。本当に全てを切断してしまう。遺物を手にした俺に斬れないものはなく、それ故に竜種と対等以上に戦えていた。
いつか、マリアが言っていた。遺物は鍵に過ぎないと。
福音の力は往還者本人に宿っているものだ。剣技がそうであるように、現象攻撃もまた、遺物の力ではなく俺自身の力として共にあったのだ。
使えるかどうかは、それに気付くか、気付かないかの差でしかなかった。
縦に裂かれつつも押し寄せる、赤い濁流のような息吹を更に横薙ぎする。四方に分かたれた膨大な魔素が吹き散らされるように夜空に舞い、大小の赤い花を咲かせて消えていく。
やがて赤い息吹が去った後、彼方に見える竜のシルエットには変化があった。息吹を放った竜の頭蓋が後方に脱落しかけている。蘇生が不完全な状態で二度も息吹を放った代償だろうか。
「三射目はないか」
あったとしたら、次は防ぎ切れなかったかもしれない。
現象攻撃を確実に行使する自信がない、と言い換えてもいい。あれだけ失敗した試みが、なぜ今になって成功したのか説明できないからだ。
気の持ちようだろうかとも思うが、そんな不確実な手段を安易に頼るわけにもいくまい。
溜息と共に長剣を収めた俺は、不意に抱きすくめられて足場の上でたたらを踏んだ。魔素で編まれた足場は狭く、二人で立つにはギリギリのスペースしかない。
だというのに、万力のような力で俺の胴を締め上げるミラベルは、潤んだ翡翠の瞳を俺の顔に向けるばかりだ。
できるなら最初からやれ、という非難の色もあるような、感謝の色もあるような。
いや、それよりもまず。
「……怖い思いをさせちゃったもんな。悪かった」
いくらミラベルの肝が据わっているとはいえ、死ぬのが恐ろしくないわけがない。
そう考えて気遣ってみるが、無言で首を振るのは強がりなのだろうか。
どうしていいのか分からないので、とりあえず胸に埋まったミラベルの頭を少しだけ撫でる。
すると、ぴたりと動きが止まったので、しばらく続けることにした。続けながら、夜空を赤く焦がして燃える街と、彼方に佇む竜の影を横目で見やり、次の行動を思案し始める。
いつまでもこうしてはいられない。
まだ何も、終わっていないのだから。




