16.献身③
大なり小なり魔素を扱う者ならば、すぐに気付いただろう異変があった。
大気中の魔素や精霊が極端に減少している。砦の回廊を走りながら、窓の外を見やる。不気味に佇む山のような影の頂点が、不規則な明滅する光を帯びて瞬いた。
その光と月光とに照らされて浮かび上がった姿には、蛇を思わせる長い首に、鉤爪を備えた両腕を持つ胴体が確認できる。
間違いなく、竜種だ。
だが《それ》は、生物と呼ぶにはあまりにおぞましい剥き出しの肉色をしている。
表皮がないのだ。
どころか肉も殆どなく、骨と筋だけで屹立している骨格標本のような有様であった。
造形もおかしい。地平と見えている姿のサイズを推測すると、上半身しか存在しないことになる。翼もない。
だが、それでもなお、この世界の旧支配者は巨大だった。空の眼窩をアズルに向けて聳える身の丈は、アズルの転移門の七割ほどはある。
畏怖を覚えずにはいられない。明らかに蘇生の途中であるというのに、あの竜種は既に意思を持って起き上がっている。そして、あの焔の如き光。あれは、まさしく。
「マリー! ミラベル!」
掌に汗を滲ませながら会議室に声を張った途端、武器を携えた皇女達が間髪入れずに姿を現した。魔素の枯渇で異変を察知していたのだろう。
砦の見張り台に飛び出した俺と二人の皇女は、街灯が消え、闇に包まれたアズルの街を目の当たりにした。
「魔力灯が消えている? これは一体……」
街灯に使用されている魔力灯は地中の魔素を用いて半永久的に動作するが、彼方に見えるあの竜種は、空気中を漂う魔素だけでなく地脈に含まれる魔素をも全て吸い上げている。魔素の枯渇で機能不全を起こしているのだろう。
広大なアズル周辺一帯の魔素を吸ったあの竜種が、一体何をするつもりなのか。
影の頂点、即ち頭部にあたる部分で不気味な明滅を繰り返す赤い光を見れば、明らかだ。即座に脳裏で様々な対抗策を検討するが、それらを明確な形にするよりも、異変の襲来はずっと早かった。
魔素の空白地帯に、一筋の光が発生した。竜の影から伸びた極細の赤光が、まるで照準を合わせるかのようにアズルの街へ伸びている。
「攻撃が来る! 防御魔法を!」
端的に状況を告げ、腰の長剣を抜き放つ。
だが、これから襲い来るものに対し、俺の持つ剣はあまりに小さ過ぎた。告げた言葉も足らない。それをより正確に表現するならば、「攻撃」ではなく「砲撃」と言うべきだった。この世界に火砲の概念があれば、そうしていた。
一直線に夜の闇を裂いて、紅の極光が訪れた。
アズルの街目掛けて放たれた膨大な魔素の奔流は、街を囲うように存在している転移門のひとつに直撃し、巨大な岩塊で構成されているそれを、まるでバターか何かのように瞬く間に溶かして貫いた。
その向こうにあった、人家などの建物を数十、数百の単位で轟音と共に薙ぎ払い、炎と熱をばら撒いて破壊の限りを尽くす。
次の瞬間、縦に裂かれた街から無数の火柱が上がった。
マリーが、そしてミラベルまでもが、戦慄の表情で声も無く息を止めた。
遅れてやってきた温い熱波が頬を撫でる。
俺は、一瞬で炎に包まれた街を忸怩たる思いで見るしかない。
否応無く、千年前を想起させられる光景を。
「こ、こんな無茶苦茶な魔法が……」
「魔術の類じゃない……単なる息吹だ。赤竜の息吹は、触れるものを焼き尽す」
呆然自失のままに呟いたミラベルの言葉を、俺は掠れた声で返した。
悲鳴と狂乱の声が街のあちこちから響いてくる。そうはさせまいと住人の避難を図ったのだが、何もかもが遅過ぎた。
直撃を受けた幾百の人家は蒸発してしまった。中には人が居ただろう。家族が居ただろう。延焼している千の人家にも、また。
これ以上は食い止めなければならない。絶対に。
そうと決意して彼方の竜を睨む。
体表すら蘇生しきっていない頭蓋のみの頭部が、顎を開いてこちらに向いていた。
「……二射目がある」
確信し、剣の柄を握り込む。
「防ぎましょう。何としてでも」
ミラベルも呟き、長杖を持ち上げる。
見張り台の手すりにもたれかかるようにして膝をついたマリーは、少しも動かない。
街の炎に照らされた緋色の横顔は、正視に耐えない悲嘆の感情のままで凍り付いている。そんな様子のマリーを叱咤することなど、俺にはできない。
沈黙する妹を悲痛な表情で見つめていた銀髪の皇女を左腕で抱き寄せる。
整った容貌が乱れ、頬に赤みが差す。丸く見開かれた翡翠の瞳が戸惑いと疑問を投げかけてくるが、決して不埒な意味ではないので、無言のままに床を蹴って見張り台から大きく跳んだ。
突如として空中に躍り出た俺に、腕の中でどこか陶然としていたミラベルが一転して青い顔になって悲鳴を上げた。
「タカナシ様!?」
「掴まってろ!」
剣技を変則発動。過負荷を行使し、かつて目にした事がある技を引き出す。
大気中の魔素を操作し、即席の足場にする歩法だ。九天の騎士である毒刀使いが使っていた技である。剣技ではないため脳に相応の反動がかかり、頭痛を覚えるが気にしてはいられない。
根性で耐え切り、生み出された不可視の足場を次々に踏んで夜空を駆け上がる。
乱暴な空中散歩だ。だが、息吹の射線上に移動するにはこれしかない。
「い、いきなりなんてことをするのですか!」
「悪い」
さすがのミラベル様も空を飛んだ経験はないらしく、必死に俺の首にしがみ付いて慌てふためいている。
頬が触れそうな距離にある彼女の顔に向け、空を走りながら言葉を紡いだ。
「飛んで来る息吹に全力で剣技をぶつける」
俺の持つ権能、剣技の変則発動、混合による名前の無い剣技。
セントレア南門の戦いにおいて使用した際は、水星天騎士団の大半を薙ぎ払った。今の俺が単独で出せる最大火力の攻撃だ。
「だが、威力が足りない。規模が違い過ぎる。だから……」
「分かりました。私も全力で障壁を張ります」
「……いいのか? 射線上に出たらもう逃げられない。もし防げなかったら二人とも消し飛ばされる」
ロスペールが破壊された経緯を考えれば、城塞規模の防御魔法でも防げない公算が高い。無謀な試みへの懸念を口にする俺に、ミラベルは即座に言い切った。
「いい。あなたを失うくらいなら、ここで一緒に死んだ方がマシ」
計算高いミラベルのことだから、これも打算の上での言葉だろうか。
一瞬そう考えてしまうが、命と引き換えにする打算とはなんだろうか。もしそんなものがあるとしたら、それは純粋な献身以外の何物でもないのではないだろうか。
言い切ったミラベルの表情は穏やかだったが、心の内を見通す事はできない。
もう一歩踏み込めば彼女は答えてくれるのかもしれなかったが、俺にそんな猶予は与えられなかった。
燃えるアズルの街を眼下に進む俺の前で、再び竜の影から細い光が伸びた。
この光は、恐らくは照準用のレーザーポインターのような働きをしている。この軌道に沿って、竜種は息吹を放つのだ。
赤い光の軌跡は、一射目で貫かれた転移門とは別の転移門を指し示していた。偶然か、それとも意図的に転移門を狙っているのか。
だが一射目がそうであったように、直接的にアズルの街そのものを狙ってはいなくとも、赤竜の息吹は余波だけで街を引き裂き、焼くだろう。
「来るぞ」
足を速め、鋭く息を吐く。
辿り着いた照準用の光の上で、不可視の足場に立った俺とミラベルは、ほぼ同時に剣と杖の先端を彼方の竜へ向けた。
人間が持ちうる攻撃手段が届く距離ではない。やはり迎撃に徹さざるを得ない。
遼遠の向こうで、赤い魔素が織り成す光と熱が膨れ上がる。
やがて放たれた二度目の極光が、中天で武器を構える俺達に押し寄せ、視界を埋め尽くして弾けた。




