14.献身①
簡単な魔法しか使えない俺は、なんとか川から上がった後もずぶ濡れの服を乾かす事もできず、月明かりの下でくしゃみをするくらいしかできないでいた。
冬の兆しを見せる外気は冷たく、水を吸った衣服が体温を奪っていく。気候としては亜寒帯に属するこの地方において、深夜に濡れ鼠で外を歩くなど自殺行為に等しい。
魔力障壁を張って冷気を遮断し、ぐったりとした皇女殿下を抱えたまま歩き出す。
意識を失っている間、かなり下流に流されてしまったようだ。
飛び込んだ水道橋は影も形もなく、当て推量で方角の見当をつけて足を動かす。人一人を抱えて寒中水泳を敢行したおかげで体力をそれなりに消耗しているが、悠長に留まって休息をとるわけにもいかない。
俺の推測が正しければ、アズルの街が襲われるのは時間の問題だ。ロスペールと同様か、凌駕するほどの災厄に見舞われる事になる。
川縁から草木を掻き分けて進む俺の腕の上で、マリーが身じろぎをした。
薄っすらと瞼を持ち上げた少女は、安堵する俺の顔を見るや否や、悔恨の念が滲む表情で呟いた。
「……すまない、足を引っ張ってしまった」
いつもの堅い口調で放った、第一声がこれだ。
そんな彼女の様子に、俺は呆れるばかりだ。
「何でもかんでも自分の責任にするんじゃない。君はよくやってる」
本心からの言葉を口にする。
もしマリーが居なければ、そもそもマードックの逃げ足を止める事はできなかった。
足を引っ張るどころか、マリーは本当によくやってくれている。
彼女はついこの間まで、何もできないただのお姫様だったというのに。
「しかし……タカナシ殿一人ならアリエッタと戦えたのではないか」
「いや、どうだろうな。アイツも戦闘能力が低いわけじゃないし。それに、仮に戦えたとしても、アイツを止めるのはやっぱり無理だったと思う」
「なぜ?」
「生命の福音はアリエッタ自身にも作用するからだ。俺や他の往還者は不老不死だけど、不死身じゃない。傷は負うし、病にも冒される。だけど、アリエッタだけは違う。正真正銘の不死身だ。戦って倒せるようなものじゃない。だから逃げた」
アリエッタには、数百年前に彼女が起こした事件で危うさを感じてはいた。
だが、彼女と敵対するなんて、考えもしなかったことだ。皇帝に関しても同じだが、実際に敵対してみると、改めて往還者の脅威を実感する。
この世界の人間では、太刀打ちすることもままならない。
俺は努めて優しく話す一方で、判明した事実について整理していた。
特に、往還者同士の戦いでは福音の力が弱まるのでは、という仮説についてだ。俺が立てていたこの希望的憶測は、残念ながら否定されたと見ていい。
俺もアリエッタも互いを敵視した状態で権能を行使できていたし、特に変わった感触があったわけでもない。
俺がアリエッタに放った剣技も、きちんと発動して慈悲の杖を弾き飛ばしている。アリエッタの即死攻撃や皇帝の時間停止能力も俺に有効だと考えるべきだ。
確証のない推測に過ぎなかったとはいえ、絶望的な現実に心が折れそうになる。
《生命の福音》や《時の福音》をまともに相手にするとして、一体どのようにして戦えばいいのか見当もつかない。
「むう」
マリーは難しい顔をして腕組みをする。
抱えられたままだというのに、なんとも器用なことだ。
この件に関しては、ここで頭を捻ったとしても答えは出ないだろう。
思考を切り替える。
「それより、もっと厄介な話がある。恐らく、ドーリアの連中の狙いはアズルの地下に埋まってる竜種の遺骸だ」
「……なに?」
「奴らが地下の調査記録を盗み出したのは、たぶん竜種の骨か何かを捜していたんだろう。ドネットに聞いた事がある。この地方には竜種の骨が埋まってる可能性が高い」
「まさか……竜種を骨から蘇生することができるとでも……?」
「できるんだろう。ロスペールを襲った竜種もそうやって再生されたものだろうな。で、連中はもう見つけてるんだろうよ。あの水道橋の向こうで」
地図に記された地点。
あれはアズル水道の水源などではなく、竜種の骨が埋まっている場所だ。
「根拠は」
「アリエッタの関与そのものだ。コレットの症状を見た限り、竜種が蘇ったのは疑いようがない。そこに生命の福音を持つアリエッタが関わってくるとくれば、もう他に考えようがないよ」
眉根を寄せるマリーに、俺は言葉を重ねる。
「そもそも、連中ならアズルの街くらい一晩で皆殺しにできるだろう。わざわざ水源を押さえて毒を流す必要なんてない。大体、毒を流すくらいの事だったらいつでもできたはずだ。敵地であるアズルに滞在して機会を窺う理由がない。傭兵騎士団も必要ない」
「では、滞在して何をしていたのだ」
「掘ってたんだろ。傭兵まで駆り出して」
「……」
絵面を想像したのか、皇女殿下が微妙な表情で閉口する。
「アリエッタの権能でも、さすがにどこに埋まってるかも分からないものを蘇生するのは無理だからな。掘り起こす必要がある」
「……動きが早過ぎる。ロスペールが落ちてから、まだ一週間と経っていないのに」
「いや、だからこそだ。皇国軍の目も国境に向いてる。まさかこんな僻地にドーリアが入り込んでると考えない。ましてや、ただ穴を掘ってるなんて夢にも思わないからな」
そして、ロスペールに続いてアズルで竜種が復活すれば、皇国軍も対処し切れない。
一体でさえ抗し難い存在が、無防備な国内に突然現れるのだ。
致命的だ。
「と、俺がここまで考えることもアリエッタは予測しているだろうな。だから俺を無力化しようとしたんだと思う。マードックを殺したのも、奴には聞かせたくないような取引を持ちかけるつもりだったんだろうが……」
内容が何だったのかは分からないが、知りたいとも思わない。
「たったそれだけの為に人を殺すとは……生き返らせるからいいという問題ではないだろうに……!」
「……ああ」
軽蔑を隠さずに言うマリーに、俺は、はっきりとした言葉を返せなかった。
彼女は気付いていないが、本質的には俺もアリエッタと同じだ。
都合の悪いものを、ただ剣で斬り伏せて歩いてきた。その事実は、たとえ今がどうあっても変わることはない。
というか、変わってなどいない。
今も、どのようにしてアリエッタを殺すか。皇帝を殺すか。
そんなことばかりを考えている。
実際にかつての仲間と対峙して思い知らされた。
結局、どう言葉を飾ろうと所詮――俺は、剣の福音なのだと。
「アリエッタ達を止める」
やはり短絡的な手段をとるしかない。
諦観の後に発した言葉は、我ながらやけに掠れていた。
具体性にも欠く。不死の往還者をどのようにして殺すというのか。
軽蔑してくれてもいい、と覚悟してマリーの反応を待つ。
が、当の彼女はどこか気の抜けたような調子で俺の顔を見上げ、言った。
「では、縄をたくさん用意しなければな」
「……縄?」
「どうも説得が通用するとは思えん。であれば捕らえるしかあるまい。頑丈な縄が必要だな。うむ」
したり顔で頷くマリー。
俺は、あんぐりと口を開けて、大層アホみたいな顔をしていたことだろう。
「そりゃ……そうだ」
確かにそうだ、と急に馬鹿馬鹿しくなって頭を振る。
俺は何を思い詰めていたのだろうか。
一人で分かった気になって、本当に馬鹿みたいだ。
斬るだけが止める術ではないはずだ。現に俺は門番としてそのように振舞ってきた。
今回も何ら変わらない。戦争だろうが何だろうが、俺には関係ない。俺の仕事は守ることであって、敵を殺すことではないのだ。
外れかけた何かが、戻った気がした。
「だったら、縄より鎖とかの方がいいかもな」
俺がいつもの調子で言うと、マリーは碧眼を細めて微笑んだ。
その表情に、きっとこの子は俺の惑いを見抜いていたのだろうと気付かされる。
実に情けない限りだ。猛省しなければならない。
苦笑いを浮かべるしかない俺に、唐突に目を見開いたマリーが、心なしか紅潮した顔で呟いた。
「あの……そろそろ下ろしてもらえないだろうか……自分で歩けるから……」
この少女が恥らう様を見せるのは珍しいことだ。
何となく微笑ましい気持ちになった俺は、構わずに川原を歩き続ける。
「……タカナシ殿?」
「ああ、今日は月が綺麗だなあ」
「お、下ろせというに!? 貴殿は人の話を聞いておるのか!?」
抱えているのがお姫様だから、これぞまさしくお姫様抱っこだよなあ。
などという、本当にどうでもいい事を考えつつ、俺は笑いながら歩き続けた。




