13.生命の福音
傭兵――それも一集団の頭目ともなれば、したたかさも頭一つ抜けるという事なのだろうか。追跡する俺とマリーの剣技や魔法を辛うじて避けながら、マードックは逃げに逃げて、西の街外れまで逃げた。
奇しくも地図に描かれていた地点に近付く動きだったが、彼が故意に誘導しているというよりは、他に道を知らないが故に起きた事のように見えた。であるからして、待ち伏せなどの可能性は検討していなかったのだが、やはり想定外の事は起きるものだ。
山麓からアズルの街へと伸びる水道は、峡谷と河川を跨いでいる。地図上で確認した時は、どのようにして水路を通しているのか少し気になっていたのだが、実際に目の当たりにすると、ちょっとした感動が待っていた。
水路を備えた、石積の水道橋が架けられていたのである。
アーチから構成される二層のアーケードを持つこの水道橋は、上層が導水路、下層が歩道となっていて、歩道部分は馬車も通れるほどの幅がある。アズルに並んでいる転移門の威容にも度肝を抜かれるものがあるが、この水道橋は建築技術の面で遥かに勝っていた。
魔法灯の白い光が並ぶ水道橋の歩道を、剣を手にすたこらと逃げるマードックの姿がある。追って走るマリーが、その背中を目掛けて掌から黄金の閃光を放った。
衰滅の角笛だ。
先程からガンガンぶっ放している。その度に、逃走する傭兵団団長殿は跳んだり跳ねたりして避けていたのだが、同様のアクロバットをするには水道橋の歩道が狭過ぎた。
遂に魔素の奔流を受けたマードックが吹き飛び、十数メートルの距離をバウンドしながら石畳を転がった。
マードックが跡形もなく消し飛んでしまったらどうしよう、などと一瞬考えたのだが、マリーが加減をしたのか、或いは衰滅の角笛の殺傷能力が低いのか。彼は消滅も絶命も免れたようで、よろめきながら起き上がった。
とはいえ纏った鎧はボロボロで、彼自身も決して軽くない傷を負っている。
「この、クソガキども……! しつこいんだよ……!」
「追いかけっこは終わりだ。貴殿も騎士ならば、誇りを持って剣を取るがよい」
「……ああ? 図に乗るなよ、お嬢ちゃん! 誇りで飯が食えるか!」
傭兵は剣を手に嘯いてみせるが、やはりその様にも消耗の色が濃い。
加えて、二対一である。どう考えてもマードック氏に勝ち目はない。
「なあ、マードック。降参してアズルから手を引くってのは無しか?」
「却下だ、バカタレが! 傭兵ってのはな、信用が第一なんだよ! 仕事を途中で放棄できるかってんだ!」
「いや、お前、さっきから逃げてるじゃないか……」
「これは戦略的撤退ってやつだよ! 仕事を投げてるわけじゃねえ! ちょっと待ってろ、今仕切り直すからな!」
ひたすらの逃げの一手に、一体どのような戦略があるのか。
マードックは不意に表情を緩めると、やおら剣を下げて空いた左手をポケットに突っ込んだ。煙幕でも取り出してまた逃げるのか、と一瞬警戒した俺だったが、彼が取り出したのはくちゃくちゃになった紙巻煙草だった。
おもむろに煙草に火を点けて一服を始める彼を、俺達は呆然と見るしかない。
「あぁ……うめぇ」
紫煙を吐き出し、彼は陶然とした面持ちで呟く。
マリーは神妙な顔をして様子を伺っているが、マードックの行動は本当に気分転換以外の意味を持ってはいないだろう。
だが、あたかも傷の手当を行ったかのように、傭兵の顔に活力が戻ってくる。
土の付着した頬をぐいと拭い、咥え煙草でこちらへ向き直ったマードックは、右手一本で剣を下段に構え、軽い調子で言った。
「うし、やるか。ガキども」
張り詰めた空気が戻り、言い知れない剣気が俺の肌を刺す。これほどの剣気に比肩し得るのは、かつて戦った九天の騎士の中でも上位に位置する者達くらいか。
微かに喉を鳴らすマリーを手で押しやり、俺は前に歩み出る。
傭兵の消耗を差し引いたとしても、やはり今のマリーには荷が重い相手だ。
「チッ、やっぱ小僧が前に出るかよ。用心深いこった」
大方、何とかしてマリーを人質に取ってから逃げようとでも考えていたのだろう。舌打ちした傭兵は、後ろに下がるマリーを完全に視界の外に追いやり、真正面の俺と対峙した。
恐らくは彼本来の得物である槍斧を破壊していなければ、この状況でもどうなっていたかは分からない。
剣尖を下げてじりじりと間合いを詰める傭兵が、唐突に問うた。
「逆にお前らが手を引くってのはどうだ。いくらなら手を打つ」
「今度は買収か。いい加減にしろよ」
「まあ、聞けよ小僧」
提案を一蹴する。考える余地すらない。
真っ直ぐに長剣を構えたまま一歩を踏み出した、その時。
「例えば、そうだな……お嬢ちゃんの命と引き換えならどうだ」
会心の笑みを浮かべた傭兵の言葉に、俺は咄嗟に後ろのマリーを振り返る。
傭兵に致命的な隙を晒すと分かっていながらも、振り返らざるを得なかった。
痛恨の表情で硬直しているマリーの首元に、白い長杖の先端が添えられていた。
無数の花を象ったその白い杖を、俺は良く知っている。
慈悲の杖。
《生命の福音》に対応する、遺物。
「……相変わらず……気配と魔素の探知に頼り過ぎているのね……アキト」
屋外でも裾を引き摺る女が、鬱々とした口調で言い、三白眼をこちらに向ける。
魔法灯の光に照らし出された彼女を見た瞬間、俺は色々なことを悟った。
悟ってしまったのだ。
「アリエッタ……お前、なんで……!」
俺達の視線を涼しい顔で受ける女――アリエッタは、わざとらしく肩をすくめる。
言葉にならない部分を汲み取り、彼女は言った。
「気を悪くしないで頂戴……私はきちんと、あなた達には手を出さないよう指示をしたのよ……まあ……ロスペールの生き残りは警戒すべきだとも、言ったけれど。功を焦ったどこかの馬鹿どもが……勝手にあなた達を襲ったに過ぎないわ……」
「馬鹿ときたか。言ってくれるじゃねえか、宮廷魔術師。作戦には万全を期すように本国からも言われてるだろうが」
ぐらりと、視界が揺れた気がした。傭兵が怒気を孕む声で言うのも、どこか遠くの出来事のように感じる。
アリエッタが敵に回った事自体に衝撃はない。彼女個人を良く知る俺は、アリエッタなら有り得る話だと、心のどこかで納得してしまっている。
俺に動揺をもたらしているのは、アリエッタの持つ権能だ。
まさか――
「あなたは……ドーリアに属しているのか」
俺の最悪の想像を遮るように、マリーが平坦な声で問うた。答えは聞くまでもない。
そもそも、俺達がアズルの街に来てから接触したのはアリエッタだけだ。
フェオドール達がロスペールの生き残りであることを見抜けたのもまた、彼女以外には有り得ないのだ。石化したコレットを見たのは、彼女だけなのだから。
なぜ、すぐに気付けなかったのか。
油断なくマリーの首に杖を添えたまま、陰鬱な顔でアリエッタは言い放つ。
「アキトだってウッドランドに加担しているじゃない。なら、私がドーリアに所属していても何の不思議もないでしょう……?」
「馬鹿な! ロスペールで何人の民が犠牲になったと思っているのだ!? それを知っていてなおドーリアに組するのか!? 人を癒す力を持つ、あなたが!」
杖を向けられたままで叫ぶマリーの言葉に、アリエッタは暗い笑みを浮かべる。
吸い寄せられるように視線を向ける皇女へ向けて、彼女は言う。
「……人を癒す、ね……ま、そういう見方もあるけれど……」
アリエッタは解せない様子のマリーから視線を外し、咥え煙草の傭兵に杖を向けた。
「あん?」
その意図を察知した俺が制止するよりも早く、彼女は呟いた。
確りと、呟いたのだ。
「それが全てじゃないわ」
途端、傭兵の胸から下が爆ぜた。
赤茶けた液体と肉が飛散し、石畳の上にぶちまけられる。
杖を構えたままのアリエッタと、愕然とするマリーに向かって口から血を噴いたマードックは、喉から水音を立てながら崩れ落ちた。
僅かな痙攣を見せた後、それきり動かなくなる。
誰の目にも明らかな絶命を遂げた傭兵を、ゴミでも見るかのような目で一瞥し、生命の福音を持つ往還者は言う。
「……私の権能は生命を操るのであって、癒すだとか……そんな形に決まり切っているものでもないのよ……与えることもできるし奪うこともできる……生殺与奪とでも言うべきかしら。その男も、後でちゃんと生き返らせるから大丈夫よ」
彼女の生命の福音は、ただ傷や病を癒すだけの権能ではない。
文字通り、生命そのものを操る。絶命した人間を蘇らせることすら可能である一方で、逆――生命を奪うことだって造作もない。
「貴様……! 人の命をなんだと思っているのだ……!」
その容易さが故に、彼女の行為はマリーの逆鱗に触れた。怒りと悲しみをごちゃ混ぜにしたような顔で、彼女は自らに杖を向ける女を睨み付ける。
マリーが他者にここまでの悪感情を向けるのは、俺が知る限りは初めての事だ。不倶戴天である父親や、自分の命を狙ってきた姉に対してでさえ、意地や義憤を露わにこそすれど、憎しみなどは抱いてはいなかった。
搾り出すような怒りは、それでも、極薄の笑みを浮かべるアリエッタには届かない。
「ふ……ふふ……おちびさんは、命は尊いものだと信じているのね……?」
「当然だろう!」
普通はそうだ。長剣を握る手に力を込めながら、俺も内心で同意する。
だが、違うのだ。
往還者には肉体と精神の停滞以外にも、明確に欠如するものがある。
「私には分からないわ、おちびさん……あなたの言う命の尊さも、その価値も。私からすれば指先ひとつ動かさずに自在になる、取るに足らないものだもの。そんなものに価値を見出すなんて、とても難しいと思わない?」
真顔で言うアリエッタに、マリーは息を詰めて絶句した。
無理からぬことだ。両者の認識は、あまりにも隔絶している。
衝撃に凍り付いている少女を救うべく、俺は閉ざしていた口を開く。
「俺達は福音なんてものを持っているから、分からなくなる。自分達が持っている権能、それが司るものの価値が。だからコイツにも、何を言っても届かない。分かるんだよ。俺も同じだから」
「……タカナシ殿」
俺の場合は《剣の福音》――つまり、剣の価値が分からない。転じて、剣士や剣技といったものに対しても極端に関心が薄い。これは俺が元々そういった性格であったわけではなく、福音を得て長い年月を経た事で性向が変化したものだ。
剣なんてくだらないと、心のどこかで蔑んでいる。
所詮、誰かを傷付ける為の道具だと見下している。
同様に、《生命の福音》を持つアリエッタは、命そのものに対して価値を見出せなくなった。謂れなき迫害を受け、無残に家族を殺された際に、その認識はより決定的なものとなったらしい。
その結果、彼女は加害者である街そのものに死を振り撒き、地図から消した。
酸鼻極まる死に様を見せたマードックだが、アリエッタの手にかかったにしては、これでもまだ綺麗に死ねた方だ。
地図から消えた街で俺が目にした災禍の跡は、彼のそれの比ではなかった。
「だが、なぜドーリアに味方するんだ。この世界の人間を嫌ってるお前が、この世界の一国家に協力するなんていう、お前らしくもない真似をしているのはなぜだ」
「……さあ? 自分で考えてみなさい」
俺の問いには答えず、アリエッタは慈悲の杖をマリーの首に押し付けてみせる。
知らずのうちに噛み締めた奥歯が、みしりと音を立てて軋んだ。
先程から、思考を強烈に焦がす怒りがある。
アリエッタがその気なら、既にマリーも物言わぬ死体にされているだろう。そうなっていないという事は、アリエッタは何かしらの要求を俺に突きつける気なのだ。それが果たされない限り、マリーの身に危険はない。
だが、そうと分かっていても湧き上がる感情を抑え切れないでいる。今すぐに長剣を振るってアリエッタを斬り伏せ、マリーを助け出したいという衝動に駆られる。
辛うじて踏み止まっているのは、かつての仲間に対する情などではない。
俺がアリエッタを斬るよりも、彼女がマリーを殺害する方が明らかに速いからだ。生命の福音による即死攻撃は、慈悲の杖の先端を対象に向ける必要こそあるが、前提条件はそれだけしかない。
権能の行使にタイムラグはない。歯向かう素振りを見せた瞬間、マリーは殺される。
せめて、アリエッタに隙ができれば。
俺が心の底から渇望した瞬間、目をきつく閉じていたマリーが、ゆっくりと両瞼を持ち上げた。露わになった青い瞳には、強い意志が感じられる。
マリーとの間で、アイコンタクトなどを取り決めた記憶はない。彼女が何を伝えようとしているかなど分かるはずもなく、ただ困惑するのが順当な結果であるはずだ。
しかし、そんな思考とは裏腹に、俺はマリーの意図を完全に理解していた。千年の長きに渡る時間と比べれば、彼女と過ごしている期間は瞬きにも満たないというのに。
不意に、マリーの体が後ろに倒れた。
アリエッタが権能を行使したのではなく、自発的に仰向けに倒れんとしたのだ。
慈悲の杖の先端は、咄嗟の出来事に追従できていない。アリエッタが視線をマリーに戻し、杖を向け直すまでには数瞬を要する。
マリーが動くと同時に、俺は早送りによって加速していた。コマ送りのような世界で一歩を踏み出し、慈悲の杖目掛けて長剣で斬り上げる。
神が造りし遺物たる慈悲の杖は、《斬鉄》の剣技をもってしても破壊はできない。
だが、猛然と叩き込んだ俺の長剣は、慈悲の杖をあらぬ方向へ弾き飛ばすに十分な威力を持っていた。
残された加速時間を全てつぎ込み、仰向けに地面にぶつかる寸前のマリーを抱えて、水道橋の端から夜空を目掛けて跳ぶ。
魔力を使ってジャンプ力を増強したところで、ずっと飛んでいられるわけもない。すぐに落下が始まる。
中天から橋を振り返ると、忌々しげに口端を歪めるアリエッタの姿があった。その手から零れ落ちた慈悲の杖が傍らに転がっているが、彼女が拾い終える頃には俺達はもう橋の下の河川に落ちている。
恐るべき即死攻撃は間に合わない。
腕の中の少女をしっかりと抱いて落下していく俺にもう怒りはない。
こうなってしまえば、後はどのようにして生き伸びるかを考えるだけだ。
暗中を揺れる光が近付き、大きく息を吸う。
直後、水面に写り込んだ橋の像が崩れ、世界が水音に包まれた。




