9.慈悲の杖②
あまりにも呆気なさ過ぎる、という感想を抱かざるを得ない。
何かしらの呪文や手当ての所作やら、奇跡にしたってもうちょっと手間がかかってもいいんじゃないかと思うほどに、生命の福音の力は簡単に人を癒す。
聖堂の長椅子に横たえられたコレットは瞼を瞬かせるばかりで、自分の置かれている状況を理解していない。
つい先ほどまで無残に硬化していた手足は、既に健康な色を取り戻している。
「し、信じられねえ。どの医者も匙を投げたってのに、こんな簡単に……!」
フェオドールの愕然とした呟きを聞いて、陰鬱な白髪の女は無数の花をモチーフにした白の長杖の先端で彼を指した。
「……定命の者はこれだから困るのよ……誰かにできないことが、誰しもにできないこととは限らないわ……見たままを受け入れなさい」
無茶なことを言うものだ。無闇に辛辣なアリエッタの言葉に、フェオドールは大口を開けて呆けるばかりだ。
なにせ、傍目にはアリエッタは何もしていない。コレットを長椅子に横たえたのも俺であるし、彼女がしたことといえば、せいぜい横たわった少女に視線を送ったくらいのものなのだ。驚くなという方が無理である。
これが《生命の福音》。
怪我や病気など問題にならない。
失われた命でさえも呼び戻す、神の力だ。
アリエッタ自身には何の消耗もない。治癒術のように魔力を使っているわけでもなく、肉体も指先一つ動かしていないので当然と言える。
彼女にとって全ての生命は自在だ。かの福音にかかれば、他者を癒すことは路傍の雑草を引き抜くよりも容易で、だからこそ彼女は何の抵抗もなくそれを実践する。
景観を乱す雑草はない方が良い。本人の認識もその程度だ。
「この街の司祭は狡賢いですね。アリエッタ様を聖堂に招けば、確かに国教会の威光も増すというものでしょうが……綺麗なやり口とは、とても言えません」
どこか苦々しい口調で言うミラベル。彼女も国教会の一員として思うところがあるのだろう。アリエッタは、崇拝されている神の使いのうちの一人。紛れもない本人だ。
そんな伝承上の存在が国教会の都合で動かされている現状には不満を覚えるのかもしれない。
「……宿代が浮いて助かるから別にいいのよ……最近じゃ、その司祭も含めて誰も来ないし……この街にはもう病人なんていないんじゃないかしら……」
当のアリエッタは言いながら踵を返し、ワンピースの裾を引き摺りながら祭壇に戻っていく。鬱々とした口調にも抑揚がない。本当に何とも思っていないのだろう。
たった今、手を触れずして癒した少女のことでさえ、もう目に入っていない。
長椅子の上で身を起こしたコレットは、完治した自らの手足を見て涙ぐんでいた。その様子に感極まったらしいフェオドール少年も顔を歪めるが、すぐにはっとした顔になってアリエッタに向き直る。
「……声が出ないのは心因性じゃないかしら……そこまでは知らないわ……自分達で何とかなさい」
振り返りもせずに先んじて言ったアリエッタは、もう語ることは語り尽くしたと言わんばかりに祭壇をただ見上げている。
投げやりともとれる対応だが、肉体的な異常が原因ではないのならアリエッタの福音でも治しようがない。彼女は最善を尽くしたのだ。
「あ……ありがとう……ございましたッ!」
聖堂中に響き渡るほどの声量で叫び、フェオドールは深々と頭を下げる。
次いでコレットも、何度も何度も頭を下げた。アリエッタには見られてもいないというのに、彼らはいつまでも頭を上げようとはしない。
これでは話が終わらない。俺は頭を掻きながら、傍らの皇女に声をかけた。
「ミラベル、フェオドールとコレットを近くの宿に送っていってやってくれ。俺は後で合流する」
もうこの少年と少女が皇都に行く理由はない。この街で別れるべきだ。
頷くミラベルを見てから、俺はアリエッタの方へ向かって歩き出す。ミラベルと連れられていく二人の気配が遠ざかる。代わりにすぐ後ろを小さな足音がついてくるが、俺はそれを咎めることはしなかった。
祭壇の前で佇む背中に、俺も少年達を倣って素直に頭を下げる。
「助かった。ありがとう」
「別にお安い御用よ……それより、マリアの言い付けを何よりも優先していたあなたが、往還門を離れて定命の者と行動しているとはね……いったい、どういう風の吹き回しかしら」
「今も変わっちゃいないよ。ただ、ちょっとだけ他にもやる事が増えたんだ」
「やる事?」
探るような声音で尋ねるアリエッタに、俺は自然とトーンを落した声で告げる。
「皇帝が生きてる。今も、この国の皇帝として」
二人の仲間と相討って共に死んだはずのその男の名を、アリエッタがどのような驚きをもって聞くのか、俺は様々に想像した。
しかし、彼女の背中は何も語ることなく、ただ、どこか憂鬱な気配と共に静かに佇んでいるのみだ。
「驚かないんだな」
「……むしろ、あの男が死んだと聞かされた時の方が信じられなかったもの……殺した程度で死ぬと思う? あの《時の福音》が」
「言われてみれば、確かにそれはそうだが……」
「……それに、カレルが生きていたところで私には何の関わりもないことだわ……あの男のことだから、どうせろくでもない事を目論んでいるんでしょうけど……別に定命の者たちの為に一肌脱ぐ義理もないし……知ったことじゃないわ……」
気だるげに言い切り、アリエッタは祭壇を向いたままかぶりを振る。
それは実に彼女らしい反応なのだが、俺の背後でそれを聞いていた小さな相棒――マリーには納得がいかなかったようで、やや非難めいた声色で問いを口にした。
「アリエッタ殿とて、かつてはその定命の者たちを救った一人なのだろう。そのあなたが、なぜそのような言葉を口にするのだ」
「……なぜ、ね」
問われて振り返ったアリエッタの顔には、微笑が浮かんでいる。
祭壇の上から差す陽光を背に、生命の福音を持つ少女は、とても明るく言い放った。
「定命の者たちが大嫌いだからよ」
■
アズルの街には、どこぞの田舎街とは違って何軒もの宿がある。アズルも辺境であるには違いないのだが、地方の交通を一手に引き受ける転移街ともなると、宿屋の需要も桁が違ってくるというわけだ。
貴賓館並の豪奢な宿から、民家とほぼ変わらない簡易宿泊所まで、さまざまな種類の宿が揃っている。選り取り見取りだ。
とはいえ、俺達が上等な宿に泊まってしまうのはかなり不自然だ。
皇女達も今は皇都の学生という設定であるし、俺は失職中の自称門番というわけのわからない身分である。お高い宿に泊まれる人種ではない。
どこに皇族などの目があるか分からない今の状況では、できる限り目立たない事を優先するべきなのだ。
なのだが、ミラベル様がリザーブなされたのはアズルの街で最高級の宿でございました。選りすぐりの調度品とラグジュアリーな内装がお出迎えしてくれた瞬間、俺はもう嫌になりました。人生とかが。
一泊で金貨が飛ぶレベルの客室というのは、もはやオーラが漂う。滞在するだけで思考力が奪われていくかのような、人を駄目にする空気が充満しているのだ。
妙に甘い匂いがする優雅な部屋を抜けて寝室に入ると、キングサイズほどはあろう大きなベッドに張本人のミラベル様が本を片手に腰掛けていた。
「ここ、俺の部屋だよな……?」
途方に暮れたような顔で宿の前に立たされていたフェオドール少年から聞いた限りでは、彼とコレットが同室、皇女姉妹が同室であり、俺は一人部屋とのことだったのだが。
本を閉じたミラベルは、澄ました顔で頷く。
「その通りです」
「……なら君がいるのは変だろう」
「いえ、少々お話したいこともありましたので」
アリエッタの件だろう、とおおよその見当をつけた俺は、言うなり唐突に上衣をめくり上げた皇女に動転する羽目になった。
露わになった、白磁の如き白い背中に否応なく目が吸い寄せられる。次の瞬間には顔を背けることに成功したが、目にしたものは脳裏に焼き付いてしまった。
「な、何を考えてるんだ!?」
また何かの戯れか。それとも。
容易に思考を巡らせるべきでない事柄に到達しそうになる。しかし、おそるおそるといった感で口を開いたミラベルは、思いもよらぬことを言った。
「どこか、おかしなところはありませんか」
おかしいのは君の頭だろう。という言葉は飲み込み、どうやら想像していたような事態ではなさそうだと安堵した俺は、ゆっくりと皇女の背中に視線を戻す。
目に毒極まりない、綺麗な背中だ。妙な点などどこにもない。
――いや。
「そうか、傷跡がないんだ」
先の戦いで、ミラベルは裏切った外典福音の攻撃によって背中に結構な深手を負っているはずなのだ。治癒術で塞いだらしいのは確認していたものの、既存の治癒術では重傷を跡形もなく消すなんてことはできない。
「やはりそうですか。あの僅かな間に、私の負傷まで見抜いて回復するとは……これが福音の力というものですか……まさに神の領域と言わざるを得ませんね」
上衣を整えると、ミラベルは考えをまとめるかのように呟く。
アリエッタの権能をよく知る俺からすれば今更驚くほどの事でもない。むしろ、俺の睡眠不足も治してくれて良かったのになあ、という程度の感想しか出てこない。昔から彼女にはあまり好かれてはいないので、期待はしていなかったが。
「っていうか……背中を確認するだけならマリーに頼めば良かったんじゃないか」
まさか背中の確認をさせるためだけに俺の部屋で待っていたわけでもあるまいが、心臓に負荷を掛けられた身からすればツッコミを入れざるを得ない。
ミラベルはベッドの上でくるりと反転してこちらを向き、舌を出して「てへっ」とでも言わんばかりの表情と仕草をしてみせる。
この子はやはり俺をからかって楽しんでいるのではないだろうか。
「もちろん、ちゃんとタカナシ様にお話があってお待ちしていたに決まっています。滞在する予定のなかったこの街にわざわざ宿をとったのも……」
「……アリエッタに何とか協力してもらえないか、って話だろ?」
半ばから先の言葉を引き取った俺は、頷くミラベルに苦笑いをして告げる。
「無理だ。他の福音持ちならともかく……アリエッタに限っては、絶対にこの世界の人間には協力しないだろう。憎悪の対象だからな」
「憎悪……ですか? ですが、アリエッタ様はコレットやアズルの人々を癒したではありませんか」
「いや、あれは……そうだな。例えるなら、ネクタイが曲がってる人にそれとなく指摘するようなものなんだよ。そのついでに直してやる。その程度のことらしい。別に相手の為にやってるわけじゃなくて、曲がったタイを見たくないだけなんだよ」
理解できない、といった顔をするミラベル。
当然の反応だ。かつて本人からその話を聞いた俺も、実はよく分かっていない。
自在に剣技を会得し再現する権能を持つ俺だが、他人の不出来な剣技を目にしたからといって、別にそれを正そうとは思わない。アリエッタの心情は理解しかねる。
だが、彼女が人類種を憎んでいる理由は知っている。
「あいつは夫と子供を殺されたんだ。人間に」
「……そんな」
そして、彼女は街を一つ地図から消した。
協力してくれるわけがない。アリエッタは、ある意味では皇帝と同じなのだ。
故に、俺には強い予感がある。
彼女とこの街で再会したのは偶然ではないかもしれない。そんな予感が。




