8.慈悲の杖①
翌日。
山岳林を抜けて下りの山道に出ると、曲がりくねった街道の向こうに一旦の目的地である転移街アズルが確認できた。
針葉樹が点在する平地の真ん中に、およそ現実感のない威容を晒す巨大な構造物がある。苔むした灰色の石柱で組まれた環状の遺構だ。形状自体は異界――現世にあるストーンヘンジに近いが、スケールが狂っている。
なにせ、遺構が成している環の直径はアズルの街そのものよりも広いのだ。街を囲うように設置されている無数の石門自体のサイズも、ちょっとした城ほどはある。そのひとつひとつが転移魔法を常時展開している高度な魔法施設――転移門なのだ。
この門をくぐるだけで、別の転移街までひとっ飛びできるという優れものである。大陸広しと言えど、国内にここまでの規模を持つ転移門を配しているのは、大国であるウッドランド皇国のみだ。
石門のサイズがえらい事になっているのは、大規模な転移魔法を実現する為に魔法陣の大きさが極大化した結果だ。遠目にはデカいだけの、ただの古ぼけた遺跡だが、間近で見れば表面にびっしりと紋様が描かれているのが確認できる。
そんな代物を無数に設置し、選任の魔術師をつけて機能を維持するとなると、小国の国家予算ではとても賄いきれるものではない。ましてや交通ネットワークを形成するなど、到底実現できようはずもない。
とはいえ、そんな皇国の繁栄の象徴とでも言うべき転移街の姿も、千年の時をだらだらと生き続けている俺と、当の皇国の住民である少女達からしてみれば、今更何かしらの感慨を抱かせるようなものではない。むしろ見慣れていると言ってもいい。
なので、転移街アズルの姿が見えた時も、一行の中で特に話題に上ることもなかった。
俺は睡眠不足を押して寝袋に包まれた少女を抱えて黙々と歩いているだけだし、一頭の馬に二人乗りしている皇女達も何を語るでもない。
少し離れて後を付いてくるフェオドール少年も、やはり淡々と馬を山道に歩かせているだけである。時折、彼の視線を感じるが、俺ではなく俺が両手で抱えている少女――コレットを気にしているのだろう。
石化に蝕まれた少女は、時々申し訳なさそうな視線をこちらに向けてくる。どうも声を発することができないらしいので表情から意思を汲み取るしかないのだが、色々と察しの悪い俺には荷が重いと言わざるを得ない。
この分では、やはり少々乱暴だが馬の背に括り付けて運んだ方が良かったのではないかと思わないでもないのだが、この提案は皇女達から即座に却下された。
年頃の女の子にとっては馬の背に括られるよりも、知らない男に抱えられる方がよほど辛かろうと思うのだが。
「ところでタカナシ様、昨夜は何をなさっていたのです?」
不意に馬上のミラベルに問われ、俺はかぶりを振る。
「聞かないでくれ」
剣の福音を完全なものとする試みは、ものの見事に失敗に終わっていた。
一朝一夕でどうにかなるものとは最初から思っていないが、全く何の手応えも得られなかったのは痛い。情けない限りだ。とても正直に報告する気にはなれない。
ミラベルも深くは追求せず、視線を山道に戻す。その背中でぐったりとしていたマリーが、おもむろに首だけをこちらに向けて弱々しい声をかけてきた。
「……どうやら具合が悪そうだが……休まなくて平気なのか……」
「君ほどじゃない。ただの寝不足だよ」
長年の門番生活で寝不足には慣れている。
眠いものは眠いが、何か不都合が出るほどではない。俺達と出会う以前から強行軍を続けていただろうフェオドールや、連日馬に揺られて酔いまくっているマリーの方がよほど心配だ。
生気の薄い俺達は、目と鼻の先まで近付いた転移街までのろのろと進んでいく。やがてアズルの街の外縁部にある正門に辿り着いたが、その頃にはミラベルを除く全員がグロッキーな有様であった。
さすがに交通の要衝だけあって、街道からアズルに入る荷馬車や人の数はセントレアの比ではなく、門の前には検閲待ちで結構な列が出来上がっている。
そんな状況では、改めるほどの荷もない俺達にいちいち衛兵が絡んでくることもなく、すんなりと門を通された。俺達はともかくとしても、脱走兵であるフェオドールが見咎められなかったのは僥倖と言えるだろう。とはいえ、彼も一度アズルを通過しているので、今回も危険はあまりないと踏んではいたのだが。
立ち並ぶ建物が目に飛び込んでくる。北欧風の街並みといったところだろうか。北欧になんざ行ったことはないので、何となくの印象でしかないが。
遠目に見た通り、辺境の街とは思えない密集ぶりである。人口もセントレアとは比べるべくもない。
最後にアズルを訪れたのは百――何年前だろうか。曖昧な記憶を探っていると、相変わらずぐでんぐでんになっている妹を背にしたミラベルが口を開いた。
「皇都方面は南東の転移門ですね。まっすぐ向かっても良いですが……」
言いながら、ちらりとフェオドールの方を窺う。
考える事は同じだ。
「まずはあいつの服装を何とかしなきゃな」
アズルはセントレアとは商業の規模も比較にならない。
服飾店も大量に存在するはずだ。
ミラベルはざっくりと物色して服飾店を見繕うと、地味な色のシャツだけを購入してフェオドールに手渡した。嫌そうな顔でそれを受け取った少年は、無愛想な礼を告げて路地裏に入っていった。人目につかない場所で着替える気なのだろう。
「タカナシ様もついでに服を変えてみてはいかがです」
「え、俺? なんで?」
唐突に言われて鼻白む俺に、ミラベルは俺の着ている革コートを見やって笑う。
「特にその外套、かなり痛んでいるようですし」
指摘の通り、コートにはあちこちに補修の跡が残っている。マリーと出会ってからというもの、俺はこのコートを着て数百年ぶりに戦いの渦中へと舞い戻ったのだが、激戦に次ぐ激戦でコートも何度か損傷を受けている。
その度に繕っているのだが、いい加減限界なのかもしれない。元はといえばミラベルも原因の一端を担っていると言えなくもないのだが。
「遠慮しておくよ。考えるのが面倒だ」
生来の物くさぶりを発揮する俺だったが、物言わぬコレット嬢も可笑しそうに目を細めているので妙に恥ずかしくなってくる。
セントレアのような田舎ではいちいち服装にまで注目されることはないのだが、都会に近付くにつれて道行く人々の服装も立派になってきている気がする。ハイカラである。
別に今のコートに愛着があるわけではないので、機会があれば検討してみてもいいかもしれない。
「その子、具合悪いのかい? なら教会に行くといいよ」
と、割合どうでもいい類の考え事をしていたところ、恐らくは神妙な顔をしてしまっていたのだろう。病人を抱えて困り果てているとでも見えたのか、通りかかった親切なご婦人が声をかけてきた。事実そうなのではあるが、寝袋に包まれたコレットの手足が見えていないのは幸いだったと言える。
見えていれば、きっと「具合が悪い」では済まされなかっただろう。
俺は内心を顔に出さないよう努めながら、随分と恰幅の良いご婦人に問い掛ける。
「教会に医者がいるんですか?」
妙な話である。教会にいるのは司祭であって医者ではないだろう。両者に何かしらの因果関係があるとも思えない。
ご婦人は否定も肯定もせず、首を傾げながら、
「医者というよりは……治癒術師なのかねえ。とにかく、どんな病気でも治してくれる人がいるんだよ。こんなこと言うと、何かの冗談みたいに聞こえるんだろうけどさ」
と、半笑いながら言った。
本人が言う通り、性質の悪い冗談か詐欺の類にしか聞こえない。
自覚しながらも言うからにはそれなりの理由はあるのだろうが、ご婦人は空笑いのまま早々に立ち去ってしまい詳細を聞きそびれてしまった。親切心から声をかけたはいいが、人を納得させるだけの材料は持っていなかった、といったところか。
――まさかな。
「ミラベル、アズルの教会がどの辺りにあるか分かるか」
「まさか寄るつもりなのですか?」
半信半疑どころか、全疑といった面持ちで聞いていた銀髪の皇女が呻くように言う。
治癒術に熟達しているらしい彼女の目から見ても、コレットの石化は手の施しようがない症例だ。街の治癒術師が治せるとは考え難い。ましてや、どんな病気も治せるなどという胡散臭さ爆発の人物である。気が進まないのも当たり前だと言える。
常識的に考えれば、そんな奇跡みたいな真似ができる人間は存在しない。
そう。常識的に考えれば、だ。
しかし俺は知っている。現に俺がそうであるように、この世界には魔法すら超える奇跡が存在する可能性があるのだ。
「昔の知り合いかもしれない」
俺がそう口にした瞬間、皇女は翡翠の瞳を少しだけ見開いた。
■
その女は、見た目は少女である。
ショートボブほどの長さの髪は漂白でもしたかのような純白。淡いグリーンを基調としたマキシ丈ワンピースの裾を引き摺って歩いているあたりも、数百年前と変わらない。所々に白いレース模様があしらってあるのも彼女の趣味だ。
どうも昔からメルヘンチックというか童話調というか、そういった傾向の物が好きらしい。同行していた頃から絡みが多いとは言えなかった俺でさえ、彼女の趣味については概ね把握しているほどだ。
アズルの立派な聖堂の中で右往左往しているその女に、俺はどう声を掛けたものかと熟考せざるを得なかった。まさか本当に居るとは思わなかったので、咄嗟には言葉が思い浮かばないのだ。
そうして俺達が突っ立っていると、ふと大きな祭壇の前で立ち止まった白髪の女が、目線だけを動かして俺を見た。
見るなり、あどけない顔を倦怠感溢れる表情で彩る。
「あら、アキトじゃない……まだ生きていたとは驚きね」
唐突な憎まれ口にも、俺は苦笑するしかない。
「いきなりそれかよ。全然変わらないな、ヒイラギ」
「そう呼ばれるのも久しぶりね……アリエッタと呼びなさいと何度も言ったでしょう……ああ、アキトったら相変わらず鳥頭なのかしら……」
こんな一連の流れも数百年前と寸分違わないのだから堪らない。
安堵のような、呆れのような。奇妙な種類の感慨に囚われていると、後ろからマリーにコートの袖を引かれた。
「タカナシ殿、その御仁は何者なのだ?」
さて、どう話したものかと俺が言葉を選んでいると、先んじて答える声があった。
当のご本人様が恭しく礼をしたのだ。
「はじめまして……アリエッタよ。今は……旅人といったところね。ふふ」
低い声音で笑うものだから、ただでさえアンニュイな空気を纏っているヒイラギ――アリエッタの雰囲気が輪をかけて暗く見える。
喋らなければ可憐以外の何物でもないのだが現実は厳しい。相当に失礼な考えだが、あちらも俺のことを良く思ってはいないのでお互い様だろう。
えてして見た目が良いほど中身は残念なものである。
何故か怪訝な眼差しをアリエッタに向けるマリー。
また妙なのが出てきたな、と言わんばかりに引き笑いをしているフェオドール。
残るミラベルだけが、彼女が後ろ手に携えている白い長杖を凝視して口を開いた。
「遺物、慈悲の杖」
嘆息ともとれる吐息混じりの言葉に、アリエッタが首を傾げる。
「あら……詳しいのね。歴史家か何かかしら……?」
「そんなところです。まさか、本物の遺物を目にする機会が訪れるとは思ってもいませんでした」
ミラベルの言い方に引っ掛かるものを覚える。まるで本物ではない遺物が存在するかのような口ぶりだ。レプリカのようなものが存在するのだろうか。
気にかかるが、今はそれよりも目の前の倦怠的な女に用事がある。
「アリエッタ、折り入って頼みがある」
「へえ、アキトが人に頼みごとを……まあ、見れば大体事情は分かるのだけれど……石化とは、また随分と懐かしい症例ね……?」
白髪を揺らし、またも首を傾げるアリエッタの目線は俺が抱えているコレットに注がれている。現代においては不治に等しい石化症に蝕まれる少女に。
だが、わざわざこの少女を皇都に連れて行くまでもなくなった。この世界において最も確実に石化を治療できるだろう人物が見つかったのだ。
「治せるだろう。お前の《生命の福音》なら」
どこか挑発的な俺の口ぶりに、命を司る権能を持つ女は陰惨な笑みを浮かべる。
吊り上がった唇から漏れた言葉は、期待を全く裏切らないものだった。
「……無論ね」




