7.訓練
放棄された砦から転移街アズルに向かう林道は、率直に言ってしまえばハイキングコースと何ら変わりないものだ。
交易に使用されるような広い峠道からは外れてはいるものの、山岳林の中を抜けるというだけで特段険しい道でもない。十分に馬も通れる。
それでも目論見が外れて山中で一夜を明かすことになったのは、オーバーペースで歩き続けてぶっ倒れているフェオドール少年と、馬に揺られ過ぎて体調を崩したマリアージュ皇女殿下のおかげである。
毛皮の寝袋に包まれて運ばれている少女を除けば、フェオドールは一行の中で唯一、魔素の操作を会得していない人間だ。意地を張らずに二頭の馬のどちらかに乗ればよかったものを、彼は頑なにそれを拒んでいた。恐らく、少女を抱えて歩く俺に張り合ったのだろう。
そもそも安全地帯まで逃げることを目的としていたフェオドールが皇都に向かう俺達に同行する理由は何もないのだが、彼はやはり石化症に蝕まれた少女のことが気になるようだ。全てを忘れて他人に委ねる、という決心ができないほどには。
焚き火を囲む皇女二人から外れた位置にある岩に腰掛け、木立の向こうの月明かりに浮かぶ山の稜線を眺めていた俺は、近寄る少年の気配を感じて振り返った。
「何か用か」
「別に……用ってほどじゃない」
答えたフェオドールは、どうにも厳しい面持ちをしていた。
決して良い出会い方をしたとは言えないが、初対面の時とはまた違う意味での敵意を感じる。いや、敵意とはまた異なる感情なのかもしれない。対抗心とでも言うべきか。
「あんた、本当に騎士じゃないのか? あの身のこなし、どう見たって……」
「何度も言ってるが、違う」
軍属の人間ともなると観察眼が鍛えられるのか。それともフェオドール少年個人の執着からくるものなのか。いずれにせよ、彼の目には俺が騎士に見えるようだ。
「魔素を扱う才能があるのに、本当にただの田舎の門番だってのかよ」
「傭兵やら冒険者やら、才能があっても在野の人間だってごまんと居る。別に珍しいことじゃない。魔法使いの類を含めれば、普通にどこの街にだって居るだろう」
「でも、あんたは剣士だろ。剣を見れば分かる。その剣は飾りじゃない。剣士なら騎士を目指すもんだろ?」
苦い顔で俺を見上げるフェオドールの目線の先にあるのは、俺が腰に巻いている黒革の剣帯だ。柄も鍔も簡素な造りをした、愛用の長剣が下がっている。
つい最近新調したような気でいたが、老鍛冶師から剣を買ってからの数度の激戦を経て、すっかり使い込まれたかのような風格を備えてしまっていた。握りに巻かれた黒革は所々が擦れ、鋼が露出している部分には微細な傷がついてしまっている。
この長剣の状態を指して言っているのであれば、やはり兵士ともなると見る目が養われるのだろうか。
「それとも、素質があったのに挫折したのか」
士官の少年は髪と同じ色をしたダークブラウンの瞳を細め、皮肉げな表情で笑ってみせる。
彼が嫌味を言っているのだと理解するのに、俺はたっぷり五秒ほどの時間を要した。
どうも彼と俺では根本的な部分の感覚が違っているらしい。笑みは確かに憎たらしいものだが、言葉自体は俺にとって何の嫌味にもなっていないのである。
親指の爪でこめかみを掻き、俺は言葉を紡ぐ。
「フェオドール。俺は騎士を目指したことなんて一度もないし、それどころか剣士ですらない。俺に突っ掛かってこられても、俺はお前の望む答えを持ってない」
「……どういう意味だよ」
問い返す少年の顔には疑問符だけが貼り付いている。
恐らく、彼の胸には熾火のように残っているのだ。
持たざる者が抱く、強い憧憬。或いは、幻想が。
自分にも力があれば。
誰もが一度は夢想するものだ。その為に努力もする。
ただ願うだけでそれを手にした俺は、彼にかけられる言葉を持っていない。
「そのままの意味だ。大体、今のお前に必要なのは剣の腕じゃないだろう。どこまでついてくる気かは知らないが、皇都まであの子に付き添うならまず服をなんとかしろ」
親指で焚き火の方を指す俺に、フェオドールの顔がたちまち引き攣る。
着の身着のままで逃げ出してきたらしい彼には酷なことだが、脱走兵であることを考えれば彼の服装――軍服はかなり不味い。交通の要衝とはいえ辺境の街であるアズルはともかくとしても、皇都に入ればさすがに軍に見つかるだろう。
いきなり逮捕される可能性もある。
「くそ。なんで俺はこんなことやってんだ。せっかく命拾いしたってのに」
焚き火の傍で眠る少女の姿を見やり、士官の少年は深い溜息を吐きながらその場に座り込んで呟く。そんな事を言われても俺の知った事ではないのだが、うな垂れるフェオドールに、俺はふと思った事をそのまま口にした。
「お前、あの子に惚れてるんじゃないか」
言われた少年の頬が、かっと赤みを帯びる。
とても分かりやすい反応だ。
「そ、そんなんじゃねえよ!」
フェオドールは吐き捨てるように言うが、赤面したままだ。
とてもとても分かりやすい反応だ。
何となく九天の騎士の一人、ハリエットの事を思い出す。マリーと同い年くらいの女の子なのだが、同僚の青年に片思いをしているように見受けられるのだ。
見ていて実に微笑ましい限りで、俺は密かに彼女を応援している。感覚としてはそれに近いものを、フェオドールにも感じるのである。
しかし彼は、すぐに暗い顔になって語った。
「あの子は……ロスペールで世話になってた鍛冶屋の娘なんだよ。名前はコレット。看板娘ってやつさ。親父さんは平民出の俺にも安く剣を作ってくれて……本当に、世話になったんだ。それだけさ」
腰に挿した鋳造の剣を見ながら述懐する少年の声は、やや湿っぽい熱を帯びている。
彼の言う鍛冶屋がどうなったのかは想像に難くない。どうやらコレットというらしい少女の状態を見るにも明らかだ。
どうにかしてやりたいというのが俺の正直な気持ちだった。城塞都市を襲った悲劇はもう覆らないにしても、この少年と少女までが死別に終わるのではあまりに救いが無さ過ぎる。
山を越えれば、アズルの街はもう目と鼻の先だ。アズルから転移門を通って皇都に辿り着くまでに一日はかかるが、コレットの石化の進行速度を見る限り間に合わないということはないだろう。あと一週間はもつと俺は見ている。
とはいえ、早く皇都に着くに越したことはあるまい。着いてからの問題も沢山あるが、今は気にしていても詮のないことだ。
「もう寝ろ。あと、明日はちゃんと馬に乗れよ」
やはり嫌そうな顔をするフェオドールに「あの子の為にな」と付け加え、俺は首を回しながら林の中に入った。
少年が追ってくる気配はない。どうやら大人しく休んでくれるようだ。
安堵して暗中に向き直る。名もないような雑草を掻き分け、道から外れた林の中を真っ直ぐに歩いていく。
俺は比較的、夜目が利く方だ。晴れてさえいれば月明かりで大体のものが見える。そのお陰で特に何かに躓くということもなく、木立の少ない場所に出ることができた。
振り返れば遠くに焚き火の光が見える。これだけ離れていれば皇女達に感付かれることは――あるかもしれないが、迷惑にはなるまい。
フェオドール達の件も確かに気がかりではあるが、それ以前に俺はふたつの重大な課題を抱えている。
《時の福音》を持つ皇帝と、竜種らしき存在の影。
後者はまだ判然としないが、少なくとも皇帝とはいずれ敵対し、戦うことになる。
今戦って勝てるかと問われれば、ノーと即答できる。俺は《時の福音》の全能力を知っているわけではないが、不確定な部分を除いたとしても俺が彼に勝る要素は何もない。
時の福音――時の渦は加速、減速、停止という、三つの時間操作を可能とする権能だ。たしか、空間や物体を指定して発動させていた気がする。
陳腐な表現だが、これは無敵の力だ。
まったくの想像に過ぎないが、敵対者は顔を合わせた瞬間に時間を止められ、何の抵抗もできぬまま殺されることだろう。もはや相対した瞬間に敗北が確定するレベルである。個人の戦闘能力は何の役にも立たない。
それを踏まえれば、あの恐るべき外典福音、アルビレオが無条件に皇帝に屈していたのも無理からぬ話と言えよう。
しかし、それでは説明がつかなくなる事柄がある。
彼が過去に他の往還者と相討ちになっているという事実だ。時間を止められるのであれば、そんな結果にはならないはずなのである。皇帝がよほどの間抜けを晒さない限りは、いくら往還者でも時の福音には手も足も出ないはずなのだ。
では、なぜ相討ちになったのか。
これも推測の域を出ないが、もしかすると往還者同士の戦いでは福音の力が弱まる、或いは、相殺されるのではないだろうか。
俺達が持つ権能は、それぞれ同一の存在――《不定形の神》から無造作に与えられたものだ。全く同じものに根ざしていると言える。同じ神の力同士のぶつけ合いになるわけだ。相殺という結果になっても不思議ではないだろう。
ただ現状では、これは何の根拠もない楽観的な仮説に過ぎない。確証を得るためには実験の必要がある。
それはつまり、他の福音持ちの手を借りなければならないということに他ならない。奇しくも石化症の件と全く同じ壁にぶち当たるというわけだ。
それから、竜種らしき存在について。
こちらはもっとシンプルな問題に尽きる。単に、今の俺では竜種は倒せないのだ。
各往還者には、それぞれの福音に対応する遺物という武具や道具が存在する。福音による権能は、本来はこの遺物を介して行わなければ十全には行使できない。
俺が遺物を用いず行使できる範囲の権能に名前を付けたもの、それが剣技であり、全ての剣技を再現するというインチキめいた力でさえ、あくまで《剣の福音》の一側面に過ぎないのである。
もし本当に再び竜種が現れたのだとしたら、今の俺では成す術もなく敗北する。この世界の旧支配者たる竜種は、とても剣技のみでどうにかなるような存在ではない。
だが、もし本来の福音の力を全て取り戻せれば、かつてそうであったように竜種を撃退することも可能となるかもしれない。
遺物を使わずに全ての権能を行使する。
今まではそんなことを試みた事もなかったが、皇帝や竜種に対抗するには備えが必要だ。取り越し苦労に終わることも、まずあるまい。
可能か不可能かはこの際、問題ではない。
できるはずだ。少なくとも、そうであると強く信じることが肝要なのだ。
などと、それっぽいことを考えながら、鞘から抜き放った剣に意識を集中させる。
万物を切り裂く白い剣。
あの力を、もう一度。
頭の中に作り上げた強固なイメージを掘り下げていく。
風に吹かれた木々の梢が立てる音が遠くなり、不意に五感が失われた。
失敗した。
あまりにもあっさりと、失敗した。
そうと気付いた時には既に、俺は前のめりに草むらに突っ伏していた。
剣技の変則発動による罰則に近い。意識が途切れかけ、視界は明滅を繰り返す。想像以上に困難を極めるようだ。
かといって諦めるわけにもいかない。向こう見ずな発言だったとはいえ、マリーやミラベルと約束してしまった。
彼女達を守るに足る力を手に入れなければならない。
闇の中で身体を起こし、再び剣を構えては倒れる。
倒れては奮起して立ち上がり、剣を構えてまた倒れる。脳裏に過ぎる弱音を片隅に追いやり、またも跳ね起きるや剣を構えてまた倒れる。
傍目には意味不明で滑稽に映るだろうが、構いやしない。誰も見ていない。
俺は結局、日が昇るまでひたすらそれを繰り返していた。
その結果は語るまでもない。




