ex.いつか絶え果てる未来
34話 n巡目
降りしきる季節外れの雪の中を、見覚えのない顔の人物が通り過ぎていく。
すれ違う瞬間、微かに黒髪の少年がこちらを見た気がして、黒髪の少女は怪訝そうに顔をしかめた。
(……知ってる人だった……かな?)
彼女自身もそうだったが、ウッドランド皇国において黒髪の人間は珍しい。一度見れば簡単には忘れないはずだ。
「今の人、見覚えある?」
「今すれ違った人? 見覚えはないけど……帯剣してたみたいだし、この街の衛兵じゃないかな」
隣を歩く騎士の青年、ウィルフレッドがどこかぼんやりしたような声音で言った。
日頃からぼやっとした青年ではあるが、いつもにも増して呆けているように見える。省みれば、少女自身も思考に霞がかかったような、妙な感覚を覚えていた。
(……あれ?)
一瞬、自分の名前が出てこない。
少女は頭を振り、目を閉じて深呼吸をした。久しく忘れていた大きな戦いの気配を前に、柄にもなく緊張でもしているのか、と自嘲気味に考える。
少女――騎士サリッサは瞼を持ち上げると同時に、再び歩き出していた。
何となく気にかかった少年の事など、今は気にしている暇がない。かつての暗殺対象であり、今は知己となった皇女マリアージュを何とか説得し、この辺境の街から連れ出さなくてはならない。
人質を取られた九天の騎士は、既に撤退を決めている。街の近郊にまで迫った皇女ミラベルの手勢、水星天騎士団の総数はおよそ百五十を超える。皇女マリアージュに味方する侍女一人だけでは止められるはずもない。
その侍女が皇女を抱えて街路に立ち尽くしていた。抱えられた皇女は眠っているらしく、サリッサとウィルフレッドはおおよその事情を察した。
侍女の仕業だろう。梃子でも動きそうにない金髪の皇女を連れ出すには、これくらい強引な手段をとるしかなかったのだ。
「説得の必要はなかったみたいね」
「……ウィルフレッドさん、お手数をお掛けして申し訳ありませんが、馬車を回してくれませんか。東部地区にうちの店の厩があります」
「は……はい、分かりました」
侍女カタリナはやや腫れた目を二人に向ける。その目に宿る静かな迫力に呑まれたのか、本来であれば彼女に頼まれごとをされるような立場にはいないウィルフレッドが、呻くように返事をして掻き消えた。転移魔術だ。
「サリッサ、ごめんなさい。あなたの希望は叶えてあげられそうにありません」
「希望?」
赤毛の少女が言うが、サリッサは首を傾げた。
「パン屋を続けたかったのでしょう」
「何の話? そりゃパン屋も楽しかったけど、無理してまで続けようとは思わないわ」
サリッサの発した言葉は本心からだったが、カタリナは僅かに目を見開き、それから悲しそうにサリッサを見た。
「そう……なるんですね、この魔法は。なんて残酷な事を」
納得したように呟き、しかし、唇を固く結んで顔を逸らす。
何の事か分からないサリッサは、ただ悲しそうなカタリナを見つめるしかなかった。
■
一行はセントレア北部から皇国北端の街グラストルに向けて出発した。
既に日が暮れ、飾り気のない黒い馬車の中で目覚めた皇女は、サリッサの記憶している少女とはおよそかけ離れた様子だった。
「……セントレア? なぜわたしはそんなところにいるのだ」
「まさか、何も覚えてないの?」
「わたしは皇都を……出て……それから……ここまで逃げてきたのか……なぜ」
可憐な少女が顔を歪めて煩悶する様を、サリッサはやはり見つめるしかない。
馬車の客室にはカタリナも居るが、常に明るいはずの侍女は、何も言わずに暗い面持ちで皇女の背中をさするのみだった。
(ちびっ子がセントレアにいた期間は決して短くない筈なのに。そもそも、私はなんでこの子と知り合ってるんだろう)
何かがおかしいとは感じるものの、何がおかしいのかを思い出す事ができない。サリッサ自身にも存在する空白が、強烈な違和感となって彼女を襲った。
九天の騎士の指揮権を持つ皇女ミラベルからマリアージュの暗殺依頼を不本意ながらも受け、サリッサは皇都から辺境の街へ赴いた。そして、失敗した。
だが、なぜ失敗したのかを思い出す事ができない。過程を飛ばして結果だけが残されている。とにかくサリッサは失敗して、パン屋をやらされていたのだ。
(何かを忘れてる。でも、何を)
抜け落ちた何かを探すように這わせた視線が、客室の隅に立て掛けられた槍を捉えた。見覚えのない黒い柄の長槍が、サリッサに何かを訴えかけるようにそこに在った。
サリッサはその槍が自分の物であると確信する。穂先に結わえられた飾り布の生地が、今着ているエプロンドレスのものと同一であったからだ。
九天の騎士は皇帝から下賜されたという専用の装備を持つ。亜遺物と呼ばれる、材質も由来も分からない白、または白銀の武器や道具である。
サリッサも先代の九天の騎士から受け継いだ白銀の大鎌、収穫者を所持していた。通常の戦鎌と違って刃が真横に突き出している、まるで悪い冗談のような扱いにくい武器だった。過去形だ。折れて、既に失われている。
(違う。折られたんだ。誰かに)
サリッサにその記憶はないが、皇女を襲ったのであれば皇女本人か侍女のカタリナと戦ったのだろうか。しかし、目の前で頭を抱えて虚ろな眼を外に向けているマリアージュには、そんな技量はないように思える。
ではカタリナだろうか、と空転を始めた頭で考えるが、カタリナは魔術師型の騎士である。彼女が剣を使えるかどうかは定かではないが、少なくとも彼女が剣を帯びている姿を見た事はない。
(あれ? 何で剣で折られたって思ったんだろ)
不意に窓の外で黒々として流れていた風景が止まり、何者のものかも定かでない怒声が響く。カタリナが呆然とするマリアージュを庇うように抱き寄せ、思惟の中にいたサリッサも反射的に顔を上げた。
「水星天騎士団……やはり北部にも展開していましたか」
「主力は南部にいるんだから、数は少ないはず」
馬車の外では既に襲撃者と護衛の九天の騎士達との間で戦闘が始まっている。
サリッサは気配を探る。敵は多くても十数名といったところだ。通常の相手なら騎士がそれだけ居れば十分過ぎる戦力だったが、今回に限って言えばまるで不足している。
「九天の騎士の敵じゃないわね」
未だ惑乱の中にいる皇女を後目に、サリッサは長槍を掴んだ。外の騎士達に助勢が必要だとは全く思わなかったが、この戦いが少しでも長引けば南部にいた敵の主力に追いつかれる可能性は上がるからだ。
そういった考えの下での行動だったが、サリッサは長槍に触れた途端、自らの頭の中に巣食っていた術式が砕ける音を聞いた。
薄い硝子を割るようなその音を聞くのは、これで二度目だった。
二度目なのだ。
彼女は、自分が何を忘れていたのかを知った。
槍を片手に、弾丸のように馬車を飛び出した黒髪の少女は、間近まで迫っていた見覚えのない敵の騎士を一撃で屠った。
殺したわけではない。死なない程度に、槍で打ち据えて吹き飛ばしただけだ。加減は実証済で、数フィートほど吹き飛んだ中年の騎士は地面に転がって動かなくなった。
湧き上がる衝動が、サリッサに力を与える。つまるところ、彼女は激怒していた。
「あの野郎ッ! あの野郎の仕業ねッ!? たばかりやがってッ!」
「サリッサ!? どうしたんだ!?」
尋常でない幼馴染の様子に、馬上のウィルフレッドが声をかけるのも無視した。赤黒の疾風と化した少女は、宵闇の中で展開されている戦いの中に突進していく。
脚力に秀でた能力を持つ彼女の動きは、九天の騎士の同輩と比しても抜きん出ている。並大抵の騎士では捉える事すらままならない速さを以って、彼女はあっさりと敵を殲滅していった。
それから倒した騎士達を革紐などで縛り上げると、物凄い勢いで街道の脇に転がして荒い息を吐いた。ただ事ではないその様子を、他の七人は遠巻きに見守るしかない。
怒りに燃えるサリッサはセントレアの方向を向いたまま、声を張った。
「店長は知ってるんでしょ!? タカナシはどこ!?」
「サリッサ、あなた記憶が戻って……」
馬車から降りてきた赤毛の少女が、驚いたように呟く。
眼鏡の奥の双眸が、にわかに淡い光を帯びた。
「なるほど、その長槍……おかしな魔法がかかっていますわね。解呪……いえ、変化を拒絶している……?」
「そんなのどうだっていい! あの野郎はどこにいったの!?」
「彼は残りました。殿下を確実に逃がす為に一人で戦っています」
カタリナが視線で指し示すのは、やはり来た道の先――セントレアの方角だった。
その事実に、サリッサは歯噛みする。蘇った記憶の中の少年は、確かに強い。恐らくこの場にいる誰よりも強いだろう。少なくともサリッサはそう思っている。
しかしそれは、あくまで一対一での話だった。百を超える騎士の群れを相手に、剣一本でできる事などたかが知れている。どれだけあの少年が強かろうと。
立場としては元侍女に過ぎないとはいえ、実力的には騎士であるカタリナに分からない筈がない。
そのカタリナは、淡く光る瞳を細めてサリッサに告げた。
「ろくに戦えないこの身では、彼を止められませんでした。ごめんなさい」
事実なのだろう。門番の少年とカタリナの関係をサリッサは正確に把握しているわけではなかったが、それなりに親しい間柄だったと思っている。当然、止める筈なのだ。
だからこそ悔しいのだと、黒髪の少女は掌を握り締める。何も分からぬままに記憶を奪われ、蚊帳の外に置かれた自分には、堪らなく悔しいのだ。
忘我のうちに駆け出そうとしたサリッサは、手の中の長槍を見た。何らかの魔法で記憶を奪われたサリッサだったが、この槍のお陰で奪われた記憶を取り戻す事ができた。であれば、この場の全員にも同じ事ができるのでは、という考えが脳裏を過ぎる。
門番の少年と関わりの薄い者達はともかくとしても、マリアージュの状態は傍目にも分かるほど悪い。今すぐではないにせよ、この槍にかけられた魔法は必要だろう。
しかし、この槍なくしてサリッサに何ができるだろうか。今セントレアに戻ったとしても、再び記憶を奪われる可能性がある。最悪、槍を手放した瞬間にまた全てを忘れてしまうのではないか。
「お願いします、サリッサ」
迷うサリッサに、深い懊悩を覗かせる表情でカタリナが言った。
「グラストルで待っています。必ず、あの人を連れてきてください」
「……うん」
言葉に後押しされ、首肯したサリッサは躊躇いを捨てて走り出した。
背中にかかるウィルフレッドの声にも答えず、来た道を引き返していく。
カタリナの言葉は額面通りのものではない。そもそも今から引き返したところで間に合うかは分からない上、サリッサ一人が行ったところで何かが変わる状況でもない。門番を連れてグラストルに辿り着ける可能性は、ほぼない。カタリナも理解している筈だ。
彼女には守らなくてはならない存在があった。
自らが破滅的な道を進んでいると分かっていながら、サリッサは走った。自分を衝き動かしているのが怒りなのか、まったく別の感情なのかは分からない。
どっちだっていいのだとサリッサは結論付ける。騎士でなくともいいのだと言ってくれたあの少年は、騎士の他に生き方を知らない自分が本当の意味で思うままに生きるのに必要な人間だ。きっと、それだけだ。理由なんて、たったそれだけでいいのだ。
傑出した脚力で風のように走りながら、少女は迷いを捨てた。
■
だいたい、あの無敵の門番がそう簡単に負けるはずなどない。
心のどこかでそう思っていた彼女は、見る影もなく破壊されたセントレア南門の前で凍り付いた。まさか、まさかと、瓦礫の山になった門を乗り越えて見た先の平原は、地獄のような有様だった。
至る所で火の手が上がっていた。逃げ惑う水星天の騎士達。怒号と悲鳴。割れた大地の上で、さながら戦場の如き混乱が生まれている。
門番の少年一人がこれをやったのかと戦慄するサリッサだったが、混乱の中心に居るのは全く別の存在であった。
背中から夥しい数の青白い手のようなものを生やした人影が、水星天騎士団を狩り立てているのだ。それが門番の少年でないことは遠目にも判別できる。
一目でそれと分かるほど、外れる。
かつて門番の少年から聞いた言葉が、サリッサの脳裏に蘇る。騎士達を次々と殺して回っているあの人影は、明確に人間から外れているように思えたのだ。
確かにあれと戦って勝てる気はしない。早く門番を連れて逃げなければ、と炎が散らばる平原に視線を走らせ少年の姿を探す。
その途中、見知った白い祭服の人影が倒れ伏しているのを見止め、鋭く息を呑む。
(ミラベル……!?)
既に息絶えているのだろう。無数の剣に貫かれて倒れている友人は動かない。
どうなっているかを考えるより先に、サリッサは瓦礫の山から飛び出していた。
「……サリッサ? どうして戻ってきたんだ」
駆け出そうとした足が止まる。
少年が崩れた外壁にもたれて座っていた。ここに来るまではどんな文句を付けてやろうかと考えていたサリッサは、彼の傍に駆け寄って言葉に詰まる。
彼は深手を負っていた。血溜まりの上から青白い顔を向けた門番の少年は、呆れたような表情を作った。
「いや、何にせよ、早いとこ逃げた方がいい。奴はこの場の全員を皆殺しにする気だ」
「……あの化物のこと?」
「ああ。奴が、例のアルビレオだ。ミラベルは……助けられなかった」
忸怩の念を噛み締めるように言うタカナシ。彼自身も、もはや戦える状態ではない。
座り込んだまま動かない。長剣を握る右手も、力なく地面に落ちたままだ。
「ちびっ子達は無事に街から離れたわ」
「そうか」
タカナシは満足げな笑みを浮かべ、サリッサを見上げた。
「悪い、肩を貸してくれないか。詰め所に用がある」
「用って……そんな悠長なこと言ってる場合?」
「大事な用なんだ」
逃げるにせよ、タカナシに手当てを施さなくてはならないのも事実だった。
身を隠すには街の中の方がいい。サリッサは溜息混じりに「仕方ないわね」などと呟きながら、少年の手を取った。
足を引き摺るように歩くタカナシは、見た目以上に消耗していた。ふらつく彼を支えながら、南門の内側にある民家を目指す。
辿り着くなり、タカナシは寝室の床下にある地下室に向かうよう告げた。平原の方角から断続的に聞こえてくる戦いの音に追われるように、二人は地下室に降りる。
暗い地下室で蝋燭に火を点したタカナシは、壁にもたれると、そのままずるずると再び座り込んだ。
「ここまででいい。お前はもう逃げろ」
「馬鹿なこと言ってんじゃないわよ! あんたも連れて行かないと、店長に合わせる顔がないんだからね!?」
「さすがに……他の街まで歩く元気は、もうないな」
「だったら抱えて行くわ! いいからさっさと用事とやらを済ませなさいよ!」
有無を言わせず、上階で探しておいた包帯をタカナシの傷に巻きながら、サリッサは声を張り上げた。
彼女は大怪我を直すほどの治癒術は修得していない。止血程度はタカナシが自分で行ったようだったが、何かで押さえておかないと移動には耐えられない。
タカナシは諦めたように頭を振ると、壁の一角に手を置いて術式を起動した。地下室の壁一面に描かれた術式の紋様を見たサリッサは、絶句した。
「この部屋には不味いものがある……時間稼ぎにしかならんが、しないよりはいくらかマシだろう」
それは、攻撃魔法の術式だった。予め壁面に敷設してあったらしい。
地下室どころか建物ごと吹き飛ばして余りある規模だ。
「ここで死ぬ気だったのね」
「はは、まさか。どうにかして逃げるつもりだったよ」
「……まったく」
息をするように嘘をつく少年に、サリッサは彼の血で染まった手で頭を抱えた。
どうしてこんな狂った人間を助けなければならないのか。どうしてこんな少年を選んでしまったのか。自分が信じられなくなるが、不思議と嫌な気はしなかった。
破壊的な音が南の方から近付いてきているのを聞きながら、サリッサは包帯をきつく結んだ。
「馬鹿ね。あたしも」
ここで終わるにせよ、まだ続くにせよ、選んだ道に後悔はない。
長槍を握り締め、傷付いた少年の肩を担ぎながら、黒髪の少女は口元を緩めた。
■
廃墟と化した街を、濃紺の衣装を纏った少女が歩いていた。
数年前まで皇女であったこの少女は、今では反体制派の旗頭となっていた。
長く付き従ってくれた侍女は病状の悪化と共にこの世を去り、未熟であった少女に戦う術を教え、剣を預けてくれた騎士達も半数が戦いの中に没した。
ようやく、彼女はこの街に戻ってきた。街が廃墟となる以前、ここから逃げ延びたあの夜に何があったのか、彼女は知らぬままにこの日を迎えた。
後になってから、姉がこの地で死んだと聞かされただけだった。
この数年の間に様々な出来事があったが、彼女がこの街を忘れた事はなかった。
不思議と忘れる事ができなかったのだ。
背は伸び、知識も経験も得た。北方から始まった彼女の叛乱が、この地方を完全に勢力圏に治めたのも彼女あってのことだ。だというのに、少女の胸中は常に空虚だった。
皇国が倒れる日も遠くはない。
陣営の騎士達がそう囁くのも、彼女の心には何も響かない。
足の向くままに歩いた先に瓦礫の山があった。
どこか見覚えのある道外れにあった、民家の残骸。その傍らに、長く放置されていたとは思えないほど綺麗な長槍が転がっていた。
まるで墓標のようだと、少女は何となく思う。持ち主が如何なる無念のうちに果てたのかと思いを巡らせ、せめて僅かばかりでも弔うべきかと足を向けた。
少女はその槍を手に戦いを続け、やがて皇帝を討った。
槍を拾ってから、僅か一年後の事である。




