ex.やがて焼け落ちる断片
16.5話
冷やりとした空気が満ちる暗い部屋に、カタリナ・ルースは呆然と立っていた。
我に返って振り返れば、端々が黒ずんだ金属製の扉がある。彼女は淡く光る双眸で扉を凝視し、やがてその扉こそが、東洋人の少年が《往還門》と呼んだ世界間を繋ぐ道であるのだと結論付けた。そうでなければ、自分がここにいる説明がつかない。
鳶色のエプロンドレスを身に纏ったこの少女は、つい先程まで別世界――恐らくは異界と言い伝えられる魔素が極端に希薄な世界にいた。タカナシと名乗る東洋人の少年に運ばれ、その世界で数日ほど静養させられたのだ。
彼は異界の生まれであり、千年近くこの往還門を守り続けているのだという。あまりに荒唐無稽な話だったが、実際に別世界へ運ばれたカタリナとしてはその話を事実として受け入れざるを得なかった。
タカナシのとった方法は強引で衝撃的なものではあったものの、そのお陰で彼女はほぼ復調していた。魔法を放つ度に毒素を溜め込む欠陥品の身体は、今は何の不調も訴えていない。感覚を全て失っていた部位の調子も問題ない。数回の魔法行使には耐えられるのではないかとさえ思える。
これならば、守りたいと強く思わせるあの少女を、少しでも守ってやれるかもしれない。カタリナは役立たずの身体を動かし、右手を握って微笑んだ。
数分遅れて戻ると言っていたあの少年に何と感謝を述べるべきか思案していたカタリナは、結局まとまらない思考の海から顔を上げてから、彼がなかなか姿を現さないことに気が付いた。
カタリナは懐中時計などという高価な品は持ち合わせていない。体感では十数分は経っているように感じた彼女は、がらんとした地下室の隅に置いてある木箱に腰をかけると、もう一度地下室を見回した。
火の灯った蝋燭が置かれた簡素な木の机と、椅子。そして今腰掛けている木箱と、例の扉。それだけしかないこの部屋は、タカナシの私室なのだろうか。
とりとめのない考えを巡らせていると、頭の中で硝子が擦れるような音が響いた。
まただ。
カタリナは額を押さえ、頭痛に耐える。《精霊憑き》の症状とは明確に異なるそれは、異界で目を覚ました時から断続的に彼女を襲っていた。
タカナシは気付いていない。彼の話によれば往還門を通った者は不老の存在《往還者》になるという。しかし、それだけではないのだと、カタリナは実感を以って洞察している。
より正確には、この洞察そのものが異変だ。
タカナシの部屋で異界の知識を貪欲に収集したのも、常日頃のカタリナとはかけ離れた行動だった。この少女は才女ではあったが、未知の世界について容易く理解するほどの下地はさすがにない。
にも拘わらず、何かに衝き動かされるように開いた異世界の知識は、すんなりとカタリナの頭に蓄積されていった。
どころか、見聞きした以上の情報がいずこかから去来するのを彼女は自覚していた。自らが持ち得ない筈の知見が頭の中を占領していく。頭痛の原因はそれだ。
つまるところ、カタリナ・ルースという少女はタカナシが《福音》と呼んだその力の概念を既に理解していた。彼女にも備わった福音そのものによって。
《叡智の福音》とでも呼ぶべきこの権能を、彼女は知恵と名付けた。一から十を理解し、無限の知識を引き出すこの力は未だ不安定であり、頭痛という形でたびたびカタリナを悩ませている。
人が知り得る知識には限度がある。無限の知識にアクセスできるからといって、仮にその全てを得たとするならば、果てにある《それ》はもはや人ではなくなるだろう。ゆえに彼女は知恵をなるべく抑制することに決めている。
これは知恵に限らず、福音がもたらす権能全てに言えることだ。
カタリナは自分が幸運であると確信していた。彼女は皮肉にも知恵そのものにより自分が何を手に入れてしまったのかを理解したが、他の往還者は違う。
彼女はそれを、とても残酷なことだと感じていた。
そして、知恵の解析を以ってしても断片すら理解できない存在がすぐ目の前にある。
額を押さえる指の隙間から金属製の扉を見やり、カタリナは深い溜息を吐いた。
あの往還門は、カタリナの権能でも関連する知識を得ることができない、遥かに上位の存在だ。理解しようとするだけ無駄なのだと、彼女は再度結論付けた。
頭の中で暴れる知恵を黙らせたカタリナの双眸から、淡い光が去る。それから彼女は、木箱の上に座ったまま両腕で両膝を抱え込んだ。
タカナシ・アキト。知恵により解析した、あの東洋人の少年の名前だ。
同様に解析した日本語では、高梨明人と表記するらしい。今やカタリナは、彼の身長や体重、身体能力から健康状態まで完全に把握している。着ている服の素材も、帯びている長剣の構造・材質までも。しかし、その心までは解析できなかった。知恵も万能ではないのか、或いは、未だ発展途上なのか。
常にやつれた印象があるあの少年は、彼に往還門を託した人物に縛られ続けている。千年も続いているのだから、病的と言っていいだろう。彼自身はそれを約束なのだと称したが、カタリナから見たそれは、呪いに近い何かに思えてならないのだ。
彼の背景を知った今、できれば彼をそのしがらみから解放したいと考えていた。知恵によって彼を深く理解したことで、同情する気持ちが芽生えたのかもしれない、とカタリナは曖昧に自己分析する。
それ以上の気持ちがあるかどうかは、まだ彼女自身にも分からなかった。
不意に、靴音が響く。
反射的に顔を上げ、無意識に知恵を発動させたカタリナは、階段を下りてきた未知の人物を淡く光る瞳で見た。
背丈はカタリナと同程度。金を鋳溶かしたような長い髪を、白い絹のリボンで束ねたその少女は、顔を覆い隠した白磁の面をカタリナに向けた。
(……見えない)
白磁の面が発するノイズのような波動が、知恵の解析を阻む。
身のこなしから察するに相当な実力を持つ騎士のようだったが、ウッドランドにこのような風貌をした高位の騎士がいるという話をカタリナは聞いたことがなかった。
上の階には皇女マリアージュと女医がいた筈だ。何たる失策か。カタリナは大人しく東洋人の少年を待っていた自分に内心で激しい叱責を飛ばしながらも、平静を装って言った。
「ミラベル殿下の手の者……でしょうか」
「いいえ」
仮面の騎士は静かに首を横に振る。
無貌の面の向こうから漂う穏やかな気配にカタリナは眉を寄せた。確かに、騎士からは殺気も敵意も感じられない。だというのに、ひりつくような焦燥感を覚える。
「顔を見せない失礼をお許しください、カタリナさん。私はマリアといいます。アキトとは古い友人です」
「古い友人……では、貴女も」
「はい。往還者です。あ、座ったままで結構ですよ」
緊張を解かずに立って応じようとするカタリナに、マリアと名乗る騎士は掌を上げて制した。続けて階段の半ばから降りてくる騎士の挙動を注視するが、やはり何も不審な点はない。
目鼻の前までやってきたマリアは、上衣の袖から見慣れない赤い四角の缶を取り出した。器用に円形の蓋を外し、日本語で表記されたラベルの缶を振って、転がり出た赤い粒を掌に乗せる。
知恵の解析によれば、その物体の主成分は砂糖と果汁であった。
「……飴?」
「はい。今回はイチゴ味みたいです。食べますか?」
「い、いえ……結構です」
「そうですか。残念です。食べてくれる確率も二パーセントくらいはあるようなので、毎回ちょっと期待してるんですけど」
カタリナには理解し難い言葉を連ね、マリアは仮面を少しだけずらして口に飴玉を放り込んだ。毒気を抜かれたカタリナは、口の中でコロコロと飴を転がす目の前の騎士に問うた。
「あの、マリアさん。東洋人……いえ、アキトに何か御用でしょうか。彼なら今、その往還門の向こうにいますが……」
「知ってます」
事も無げに、マリアは言う。
「待っていても彼はきませんよ」
「え?」
「あなたとアキトが往還門を別々にくぐってはいけないんです。一度あちらに戻って、必ず一緒に往還門を通ってください。それでこの時間軸にこなくて済みます。あ、ちょっとアキトに渡すものもありますから、待っていてくださいね」
「……時間軸?」
マリアは答えず、するりと髪を束ねていた絹のリボンを解き、何かしらの呪文を刻む。ふわりと広がった金の髪が、カタリナの心を再びざわつかせた。
時間軸という言葉の意味を調べるべく知恵を発動させる寸前、付呪した絹布を差し出したマリアは、無貌の仮面の向こうで笑う。
「このリボンを持っていってください。私からだと言えば、アキトも受け取ると思いますから」
「え、ええ……分かりました」
マリアの言葉は、カタリナには妙に断りにくい印象を受けるものだった。
あの東洋人の少年とどういう関係なのかを尋ねたい衝動に駆られる。そんな自分に疑問を抱きながらも、当の本人に聞けばいいと思い直したカタリナは往還門の前に進む。
しかし、門の使い方が分からない。
「手を触れればいいだけですよ。アキトによろしくお伝えください」
振り返れば、小さく手を振るマリアの姿があった。
まるで本人に会うことはないかのように言うマリアの口調に釈然としないものを感じながらも、カタリナはおずおずと往還門の扉に手を触れた。
その瞬間、カタリナ・ルースは同座標から完全に消失した。
残された仮面の少女は、満足げに頷いてからコロコロと口内の飴を転がした。
忘却を仕込んだあのリボンは、あの東洋人の少年とカタリナがもう一度往還門を渡った瞬間に前後の記憶を奪うだろう。
まだ彼らに往還門の本当の機能を悟られるわけにはいかない。往還門の挙動に疑問を抱きつつあるアキトも、叡智の福音を得たカタリナも、どちらも今回の結果から気付いてしまう可能性がある。
芽は摘んでおかなくてはならない。
「さて」
マリアは頭を切り替えるように呟き、元来た階段を上る。南門詰め所の寝室を通り過ぎ、リビングに出た。
そこで見知らぬ闖入者に目を丸くする小さな皇女と女医を、無言かつ無造作に魔術で眠らせる。全く立ち止まることなく戸口を開け、降りしきる雨と薄い闇に覆われた街路の向こうに微かに見える人影に向かって歩き出す。
ジャン・ルース。ウッドランド皇国最高峰の騎士。雨の中を歩きながら、マリアは口の中で飴玉と共にその名を反芻した。
「貴様……何者だ」
初老の騎士は、唐突に現れた仮面の少女の巨大な気配に眉根に皺を寄せ、険しい表情を作った。もはやその強大な力を隠しもせず、マリアは応じる。
「何者でもよかろう。すまないが、貴殿を通すわけにはいかん。今回は失敗なのだが、最低限やらねばならないことはあるのでな」
「……門番の仲間か」
「仲間か。合っているし、合っていないとも言える」
腰に下げた青の長剣を抜き放ち、白磁の面を被った少女はマントを翻す。
雨に濡れた金の髪が激しくたなびき、周囲に生じた銀の光を反射した。
銀弓。初老の騎士は、マリアの周囲に浮んだ膨大な数の魔弾に瞠目し、狼狽の声を漏らす。
「杖も……詠唱もなしにか」
「さてどうする、ルース卿。手負いの貴殿では防げまい。仮に防げたところで、剣でお相手させていただくだけだが」
言いながらも、長剣を構え直したマリアは確信している。
この初老の騎士が退くことはあり得ない。推測ではなく、経験として知っている。
「是非もない」
その確信通り、ジャン・ルースは幅広の剣を構え、冷徹な騎士の貌でもってマリアと対峙した。勝ちや負けの問題ではなく、己が使命と決めたもののためだ。
ぬかるんだ地を蹴り、初老の騎士と仮面の少女が激突した。
騎士を打ち倒しながら、マリアは仮面の下で表情を歪める。
心地の良いものではない。たとえこの現実が、幾度となく繰り返された、やがて焼け落ちる断片のひとつに過ぎないのだとしても。
倒れ伏した騎士の傍らで仮面を取り去った少女は、
雫の降りしきる空を仰いで誰かの名を小さく、呼んだ。
返事はなかった。
 




