40.前夜祭③
教会の清掃を手伝っていたマリーが護衛のサリッサと共に詰め所に帰ってから、俺とミラベルは司祭執務室の卓を挟んで向かい合っていた。
俺が彼女に会いに来たのはカタリナに土産を持たされたからではない。ミラベルが俺を呼び出したのだ。伝声術で言付けを受けた本人であるカタリナは、なぜか詳しくは説明してくれなかった。恐らく、あまり良い話題ではないのだろう。
向き合う銀髪の皇女の顔も険しい。
「昨夜、ロスペールが陥落しました」
継承戦、もしくは皇帝絡みの話だろうと推測していた俺は、予想外の聞き慣れない地名に眉をひそめて尋ねる。
「……ロスペール?」
「隣国ドーリアとの国境付近にある、我が国の城塞都市です。この辺りですね」
卓上に大陸地図を広げたミラベルが、皇国と隣国との境界線近辺の一点を指しながら言った。意味するところを悟った俺は、顔を上げて皇女の固い表情を見る。
「皇国軍が負けたのか」
ドーリアとの戦争は皇国軍が圧倒的に優勢だった筈だ。そもそも、皇国軍が敗北した戦いは歴史上にも数えるほどしかない。城塞が落とされるなどという大敗は、もしかすると皇国の歴史上初めての事かも知れない。
「……ロスペールには第二皇子と月天騎士団、それに皇国軍の第四師団が駐留していたのですが、敗走したようです。損耗は六割を超えると報告されています」
ウッドランド皇国とドーリアを含めた東方三国との間で続いている《七年戦争》と揶揄されるこの戦争は、元々、皇国が隣国アイオリスへ侵攻を開始した事に端を発する。
国力の低いアイオリスは、近隣の同盟国であるイオニアとドーリアに支援を要請。三国の抵抗により、当初は七年以内に皇国の勝利で終わるとされていたこの戦争は、十二年目にさしかかろうとしている。
だが、それでも皇国の勝利は確実視されていた。兵と騎士の数も、武器の質も、東方三国をひっくるめても皇国に遥かに劣っていた。現に三国は敗戦に敗戦を重ね、どの国が真っ先に降伏するかなどという賭けが行われるほどだった。
特にドーリアの戦線は、あの国の中央付近まで上がっていたと記憶している。もし本当に国境付近の城塞を落としたのであれば、あまりにも神懸った逆転劇だ。
「ロスペールはドーリア方面への兵站を一手に担っていました。ドーリア国内に取り残された皇国軍は補給を断たれ、退路も塞がれた……全滅も時間の問題でしょう。この十年で皇国が得た戦果は水泡に帰してしまいました」
「……今まで押されっぱなしだったドーリアに、いきなり城塞を落とすような力があったとは思えない。一体どういうことなんだ」
「詳細はまだ調査中ですが、ドーリアによるロスペール攻略の折、未知の使役生物が投入されていたという情報が上がってきています。目撃した兵の証言によれば……この世のものとは思えない、空を舞う巨大な生物であったと」
ミラベルの言葉に、俺は自分が呼ばれた理由を悟る。
「タカナシ様、それが竜種である可能性はあると思われますか」
執務室に、沈黙が落ちる。
竜種。千年前に滅びた、この世界の本来の支配者。
仮にドーリアが竜種を味方につけたのだとすれば、城塞などものの数ではない。人間が積み上げた砦など、赤子の手を捻るように吹き散らしてしまうだろう。
しかし、暫くの思案の末に俺は断言した。
「あり得ない。竜種は一体残らず滅びた」
正確には、俺を含む九人の往還者が滅ぼした。
竜種全体の長であった《暴竜の王》と呼ばれる個体を殺し、それ以外も一体残らず狩り立てて抹殺した。当時の俺達にはそれだけの力があった。
それから千年、竜種が現れた事はただの一度もない。現代に至っては伝承のみの存在と化した彼らが実はどこかで生き残っていたという可能性は、ないと考えていい。
「……ですか」
ミラベルは安堵するように曖昧に頷くと、肩に垂れた長い銀の髪を指に巻き付けながら、思案するように視線を宙に彷徨わせた。
「ありがとうございます。ドーリアが何を手に入れたのかは分からなくなりましたが……少し安心しました」
竜種を研究しているドネットの出資者でもある彼女は、竜種の存在がどれほどの脅威だったのかを知っている数少ない人物の一人だ。俺の口から、少しでも安心できる言葉が欲しかったのだろう。その結果、謎が深まってしまうのだとしても。
「自分の問題だけでも難儀だってのに、色々と気苦労が絶えないな」
「本来はいち司教でしかない私が関知するような問題ではありませんから、大丈夫です。皇都は今頃大騒ぎだと思いますが……相手が竜種でもなければ、皇帝が対処し切れないということもないでしょう。ドーリアの動きはイレギュラーではありますが、さしあたって私達の障害にはなりません」
大丈夫だ、と口では言いながらも、ミラベルの顔色は決して良いものではない。
皇帝は許し難い外道だが、様々な意味で絶大な力を持つ彼がいなくなれば皇国は立ち行かなくなってしまう。このジレンマを解消するのは困難だ。
そもそも皇帝を打倒する算段はまだついていないのだから、とんだ皮算用ではあるのだが。
「それよりもタカナシ様のほうが心配です」
「俺?」
「皇帝と戦うといっても、具体的な方策はお持ちでないのでしょう?」
見抜かれていた。
苦笑して頭を掻く俺に、ミラベルは上品に微笑む。
「あの夜、顔に書いてありましたよ。なんて考えなしな人なのだろうと、逆に感心したほどです」
「は、はは……面目ない」
卓上に置いていたティーポットを傾け、カップに紅茶を注ぎながら皇女は言った。
内心で困惑する。俺は自分で思っているよりも単純なのだろうか。
ミラベルは不意に笑みを消し、自嘲めいた呟きを漏らす。
「いえ……傲慢ですよね。私がそんな風に思う資格なんて、ありはしないのに」
深い後悔が滲むその口調に、俺の胸にも全く同種の感情が去来した。
俺達はいつだって最善の選択をしているつもりで、それでも、いつだって簡単に間違えてしまう。千年前もそうだった。俺も、ずっと後悔ばかりをしている。
ミラベルは往還者達が一度世界を救ったと表現したが、それは誤りだとも言える。俺達は竜種を滅ぼして人類種を救っただけであり、世界を救ったわけではない。
仮に竜種が健在だったとしても、世界が滅びるなどという事はなかっただろうと今の俺は考えている。彼らもこの世界に生きる生命であったには違いないのだから、世界を滅ぼすだなんて真似をするわけがなかったのだ。
そんな生命を一方的な断罪で滅ぼし尽くしてしまった俺達に、世界を救っただなんて言われる資格はない。
極端な解決策ではなく、緩やかな融和の道は本当になかったのか。
たった九人で世界を変えてしまった俺達は、何も分かっちゃいなかった。
支配者である竜種を失い、人類種同士の戦争の時代に突入してしまったこの世界で、俺には後悔だけが残された。
マリアとの約束がなければ、この世界に残り続ける勇気もなかったかもしれない。
「でも……いえ……だからこそ、嬉しかったです」
そんな俺に、ミラベルは何かを思い起こすように目を閉じ、訥々と言葉を重ねる。俺の言葉が気休めにもならないハッタリだったと分かっていて、なお。
自分は間違っていないと、もう一度信じてみてもいいのだろうか。
こんな残骸のような人間にも、まだ守れる何かがあるのだと、そういう風に考えてもいいのだろうか。
勧められて口をつけた高そうな紅茶の味は、いまひとつよく分からなかった。
■
日が傾き、商店街の連中が前夜祭という名目の飲み会を行っている中を抜けて詰め所に帰り着いた俺は、遠目に分かるほど崩れて潰れた南門を視界の隅に置きながら詰め所の扉を開けた。
妹に夕飯に呼ばれているという銀髪の皇女が、何もない詰め所の玄関を珍しそうに見回し、気落ちしたような声で言う。
「随分と……質素な生活をされているんですね」
「……安月給だからな」
ぐうの音も出ない。
しかも、収穫祭以降はその僅かな収入も怪しくなってくる。この詰め所も番兵団の所有物だ。門番だから利用を許可されているだけなのであって、失職しそうな今となっては追い出されないとも限らない。いや、さすがに町長がそんな無体な決定を下すとは思いたくはないのだが、そうであっても何ら不思議はない。
収入の件は早急に解決しなければならないだろう。気が重い。
複数の人の気配がするリビングに入ると、足を組んでソファーに座るサリッサと、はらはらとした顔でキッチンを覗くカタリナの姿があった。
二人は同時に俺とミラベルを向き、目を細め、或いは不自然に口角を上げた。彼女達の態度に違和感を覚え、隣に立つ少女を見る。
一体、何時の間にだろうか。
ひし、と俺の腕に絡み付いた銀髪の皇女は、おおよそ人に見せてはいけないような邪悪なドヤ顔でサリッサとカタリナを睥睨していた。
何をやっているんだ、このお姫様は。
「み、ミラベル様……それはどのような趣向でございましょうか」
「急に立ち眩みがしたので、タカナシ様に手をお借りしているのです。どうも先日の傷が響いているようですね」
それ、を指差しながらカタリナが震える声で問うのを、ミラベルはさも当然かのような態度で返す。具合が悪そうにはとても見えない。
「治癒術に精通してるあんたが、刺された程度でどうにかなるわけないでしょうが!」
「あら。私はあなたと違って繊細な作りをしているのよ?」
妙に血色がいい顔のミラベルは、サリッサが上げる抗議の声にも冷ややかに応じた。
中身が割と子供っぽい皇女様のお戯れに、ピリピリとした空気がリビングを満たす。
何にせよ、ミラベルが明るいのはよいことだ。当事者でありながら蚊帳の外といった感の俺は、首だけを動かして物音がする台所を見た。
「マリーはキッチンか」
せっかく姉がやってきたというのに、気付いていないのだろうか。
二人と見えない火花を散らすミラベルを腕にくっつけたままキッチンに移動すると、いつもの青いチュニック姿のマリーが、ナイフを片手に涙していた。
一瞬どきりとするが、よく見ればカットボードの上には刻まれたタマネギが乗っかっている。潤んだ瞳をこちらに向けた金髪碧眼の少女は俺とミラベルを見て、涙ぐみながらも笑顔になった。
「ああ、タカナシ殿……と、姉上……?」
が、すぐに怪訝な顔になり、姉の奇態を見やる。
「……マリアージュ、あなた料理なんていつ覚えたの」
姉は姉で、妹の行動に仰天した様子で尋ねた。
「タカナシ殿に教わったのです。みじん切りもできますよ、姉上」
どこかズレた返事をしたマリーが、得意げな顔でリズミカルにナイフを振るった。俺から離れたミラベルは、妹の成長ぶりに目を見張り、そのままマリーの隣で慣れたナイフ捌きを見学し始める。
姉とあれやこれやと会話を交わしながらタマネギを刻むマリーの姿を眺めながら、俺は自然と微かな笑みを浮かべていた。
「殿下には、明日からの収穫祭で出すカレーを試作してもらっているんです」
「なんでか知らないけど、ちびっ子ができるだけ自分でやりたいって言い出して聞かなかったのよね。手伝うつもりだったんだけど」
カタリナとサリッサが口々に言う。
ここはマリーの意を汲んで、大人しく待っているべきだろう。俺がそう口にしようとした時、鈴を激しく鳴らすような声がキッチンから響いた。
「タカナシ殿! 帰ったのなら手伝ってくれ!」
「……えぇ?」
てっきり、世話になった人や姉に自分の手料理を食べてもらいたいとか、そういう健気な話なのだとばかり思っていた俺は、思わず間抜けな声を出した。
マリーは心なしか不機嫌そうな表情で、ナイフ片手になおも声を張る。
「貴殿はわたしの相棒なのだから、わたしを手伝うのは当たり前だろう!」
どういう理屈だ。
口をへの字に曲げた俺は、両手を腰に当ててふんぞり返るマリーの向こうに、コンロにかけられた寸胴鍋を見た。ざわり、と肌が粟立つ。嫌な予感がした。
「ま、まさかとは思うが……何人呼んだんだ?」
「ええと、九天の騎士達とドネット先生、あと町長さんや水星天騎士団の騎士も何人かきますから……ざっと三十人くらいですわね」
「……本気かよ!?」
それだけの量を作るのに、マリーだけで間に合うわけがない。
ふと見れば、夕焼けに染まった庭で金髪の青年と帽子を目深に被った少女が鍋を火にかけていた。ウィルフレッドとハリエットだ。恐らく米を炊いているのだろう。
お米チームは、あとは火加減を見るだけという段階だ。だというのに、カレーはまだ材料を切っている段階である。かなり深刻な戦況だ。俺は戦慄し、悲鳴を上げた。
「全然間に合わないじゃないか!」
タマネギを引っ掴み、ナイフを手に取る。
眉間に皺を寄せて慌てふためく俺に、朝露のような美しい水滴を瞳に湛えながら、小さな相棒が晴れやかに笑った。
その笑顔に――唐突に、理由もなく納得する。
あの日、揺れる麦の波の向こうにあった笑顔と、あまりに似過ぎているこの笑顔を、
俺は、これからも守っていくのだろう。
相手が何であろうと。いつかは道が分かたれるとしても、それまでは。
往還門を俺に託したマリアの真意も、恐らくはそこにあったのかもしれない。
俺に権能の何たるかを教えて鍛え、当時まだ存在すらしていなかった筈の忘却を破却する術式を残した彼女は、この未来を予見していたのだろうか。
彼女が未来にいったい何を見たのかまでは、まだ分からない。
しかし、きっとその答えもこの道の先にある。
今は、そんな気がするのだ。




