38.前夜祭①
日々の習慣と時間の感覚が一致しなくなる、というこの現象には、やはりいつまで経っても慣れそうもない。
現世にある、2LDKの慎ましやかな我が家。俺はたっぷり八時間近く寝てから、今はだらしなくソファーにもたれかかってテレビを見ながらコーヒーを啜っていた。
最近は激動の日々を過ごしていたせいか、そうこうしていても脳はまるで覚醒してる気配がない。
「そろそろ死ぬんじゃないだろうか、俺」
着信履歴にまみれたスマートフォンを放り投げ、大きく欠伸をする。
テレビの画面に目まぐるしく流れる朝のニュースは、世界中で原油の枯渇が深刻化しているだの、スイスで行われる大型ハドロン衝突型加速器による革新的な実験だの、俺にはまるで関係ない話題ばかりだ。どれも頭に入ってこない。
カフェインを胃に流し込んでみても、やはり頭を回転させてくれるような材料にはなりそうもなかった。
「アキト、そろそろ支度をしてくださいな。いくら現界の時間が経過しないからといっても、あまりのんびりしていては……」
白いフリル付きのブラウスにオレンジ色のフレアスカートを合わせた赤毛の少女が、寝室からひょっこり顔を出して言った。日頃は大きな三つ編みにされている長い髪も、こちらの世界では解かれている。何かこだわりがあるらしい。
すっかり垢抜けた現代風の装いも見慣れた少女――カタリナ・ルースは、赤い眼鏡の奥の双眸をすっと細めて俺の持っているカップを見るなり、ささっと近寄ってくる。
「何を飲んでるんです?」
「コーヒー」
「まあ! ではそれが、焙煎した豆から抽出するというお茶ですか!?」
相変わらず異文化に好奇心旺盛な赤毛の少女は、瞳を輝かせながら、すんすんと香りを嗅ぐ。
彼女のような魔術師や、ミラベルのような聖職者が現界と呼ぶ、かの異世界には、約千年前に往還門を通していくつかの植物がこちらの世界から伝わっている。その中にコーヒーは含まれていない。
あの世界で嗜好飲料といえばもっぱら紅茶であり、コーヒーに関しては類似した飲み物すら存在しない。不思議なものだ。
「これはインスタント……あまり本格的じゃない、手軽なやつだけどな」
ほわほわとした笑顔で待機しているカタリナにコーヒーカップを手渡す。
何の躊躇もなくコーヒーを口に含んだ彼女は、何とも言えない、眉を絶妙に傾けた顔でそれを飲み下した。
「……香りは好きですが、味の方は……」
「飲み慣れてないとそんなもんだ」
セントレア南平原での戦いから二日が経った。
俺はカタリナを再び現世に連れてきていた。様々な攻撃魔法が飛び交ったあの戦場にいた彼女が、一体どれだけの精霊を身体に蓄えてしまったのかが未知数だったからだ。
それに加え、あの日、カタリナは天弓を撃っている。
俺が撃たせてしまった。カタリナがああまでして俺を止めようとするとは予想だにしなかったとはいえ、俺の責任であることに変わりはない。
しかし、カタリナは今まで通りのカタリナのままだった。あの後も特に俺を責めるでもなく、マリー達と一緒に負傷者の手当てなどの後始末に奔走していた。
結局、あの戦いでの重傷者は十五名に留まり、死亡者に至ってはゼロであった。
戦いの規模を考えれば、これは奇跡的な結果と言えるだろう。野戦病院がごとき地獄と化した診療所で、一晩中奮闘していたドネットの功績が大きい。
がらがらだった診療所のベッドは埋め尽くされてしまったらしいが、死人が出なかったことだけは彼女も喜んでいたように思う。
最初から死んでいた、一人を除いて。
「ちょうどいい。買出しのついでに美味いコーヒーでも飲みに行こう」
「アキト、異界の食べ物が美味しいのは分かりますが、ちょっとのんびりし過ぎなのではありませんか。気が緩むようでは困りますよ。あなたにはこれからも、殿下の為に頑張ってもらわないといけないのですから」
手を叩いて言う俺に、カタリナは呆れたように頭を振った。
ソファーに投げ出していたグレーのジャケットを引っ掴み、俺は笑う。
「まあまあ。どうせこれから収穫祭で忙しくなるんだし、ゆっくりできる時にゆっくりしておこうぜ。英気を養うと考えれば、無駄なこととは言い切れないだろ」
「はあ。物は言いようですわね。まったく」
腕組みをして苦笑するカタリナだったが、俺がジャケットを羽織って簡単な支度を済ませるや否や、俺の腕にすかさず自分の腕を絡ませてきた。
ブラウスの首元に付いたフリルがふわりと揺れ、温かい感触が伝わってくる。
ひたすら驚くしかない俺だが、赤毛の少女は悪戯っぽい笑みを浮かべて言った。
「何せ、わたくしは別の世界の生まれですので」
「……それとこれに何の関係があるんだ」
「こちらの世界には不慣れですのでエスコートをお願いします、という意味ですわ」
適応の早さが尋常ではない癖に、何を言っているのか。
往還者の少女は臆面もなくそう言うと、ぐいぐいと俺の腕を引いて歩き出す。エスコートの意味をちゃんと分かってるのかと問い質したいところだ。
いかに往還者が不老だとはいえ、不死身ではない。カタリナの場合、精霊憑きという体質を考えれば、常に死の危険が付きまとっていると言ってもいい。
だがそれは、こうして定期的に現世へ連れてくることで解決できる問題である。
俺は、マリーや皆とは同じ時間を歩めない。いつかは道が分かたれる。
それは歪めるべきでない摂理で、ごく自然な事だ。
しかし、どうしようもない俺なんかのために泣いてくれたこの友人だけは、果てしなく長い付き合いになるのかも知れない。彼女自身がそれを望むかは、分からないにせよ。
カタリナの事だから最後までマリーに付き添って、共に終わるのかもしれない。そうと思わせるほどには、カタリナはマリーのことを溺愛している。
無意味な問いだと知りつつも、もしその時が来たらどうするつもりなのかを、何となく聞いてみたいような気がした。
「インターネットで調べたところによると、コーヒーにも色々な飲み方があるそうですね。アキトはどんな飲み方が好きですか?」
楽しそうに尋ねるカタリナの横顔を見て、俺は出かかった言葉を引っ込めた。
そんなに先の話をしたところで、一体何になるというのか。
大体、その頃には俺も死んでいるかもしれないというのに。
「俺はすげー甘いやつとか好きだよ。カフェモカとか。あれをコーヒーと呼んでいいのかは分からないけどさ」
「では、まずはそれを試してみましょう」
「まずは? いったい何杯飲む気なんだ」
「何杯とかではありません。全種類を網羅ですわ。何かお店の参考になる発見があるかもしれませんからね」
「……本気かよ」
聞いただけで胃が荒れてきそうな話だ。
だが、きっと退屈はしないだろう。
今までは、現世でやる事など俺には何もなかった。
今は、もう違う。
俺達は玄関の扉を開け、やはり何のかんの言い合いながら、心なしか色付いた灰色の街に向けて歩き出した。
■
収穫祭を明日に控え、セントレアの街も慌しさが最高潮を迎えている。
往来には普段の倍以上の人が行き交い、催し物などの準備に余念がない。
その混乱が特に顕著な商店街の、一番隅に真新しい看板の店がある。
ルース・ベーカリー。
その軒先で、難しい顔をして金槌を動かす巨漢の姿があった。屋台を組み立てているらしい。木材を不器用に積み、慣れない手つきでひたすら釘を打っている。
「よお、ヴォルフ」
「お疲れ様です、ヴォルフガングさん」
タコみたいな頭をしたその大男は、俺とカタリナの姿を見るなり――いや、カタリナの姿を見るなり、白い歯を見せてニカッと笑った。
「カタリナ様、おかえりなさいませ」
「えぇ……様付けかよ」
驚く俺に、フリフリのエプロンを纏う筋骨隆々の男は金槌を向けて言った。
「筆頭のお嬢様と知れた今、我々、九天の騎士がカタリナ様に敬意を払うのは当然のことだ! 雇っていただいている恩もある!」
「律儀な奴だな」
「ヴォルフガングさん、お土産です。引き続きよろしくお願いしますね」
当のカタリナは苦笑しているが、もう慣れているのだろう。特に何も言わず、背負っていた、本人の倍ほどもある大きなリュックサックから小さな包みを取り出し、ヴォルフガングに手渡す。
「おお! ありがたく頂戴いたします!」
受け取るヴォルフガングは照れ笑いを浮かべながら、坊主頭を掻いた。
喜び勇んで作業に戻っていく大男を置いて店に入る直前、俺はカタリナに尋ねる。
「何を渡したんだ?」
「お饅頭です。あちらの世界ではオーソドックスなお土産なのでしょう?」
「いや……まあ、確かにそうだが」
果たして、得体の知れない異世界の菓子を貰って喜ぶものだろうか。
腑に落ちないものを感じながら、パン屋の扉を開く。
すると、パンの焼ける香ばしい匂いと共に、ふて腐れたような声音の言葉が届いた。
「おかえり店長」
猫耳ヘッドバンドを装着した赤黒のゴシックロリータ調フリフリエプロンドレス姿の少女が、やけに不機嫌そうな顔でカウンターに頬杖をついている。
美しいウッドブラウンの内装で固められた店内でそんなことをしているのだから、それはそれで絵になる眺めだ。
膨れた黒髪の少女――サリッサは、細めた目で主に俺の方を見ながら言った。
「二人っきりで二時間も何をやってたのかしらね」
「し、仕事ですよ、サリッサ。入手の難しい食材を貿易商から仕入れてきただけです」
若干どもりながら、カタリナが弁解する。
こちらの世界では入手できないカレー粉などの材料を買出しに出掛けていたのだから、半分以上は事実だ。ただ、俺達の体感では二時間ではなく三日が経っているし、わざわざカタリナを連れ出したのは霊体版の透析とも呼べる療養のためである。
なので全くの事実とは言えないのだが、カタリナとミラベル以外は往還門の詳細を知らないので説明のしようがない。
「ふぅーん。ま、いいけど」
「あ、そうそう! そんなことより、サリッサにもお土産がありますよ!」
「……お土産?」
意味ありげなジト目で俺達を見るサリッサだったが、可愛らしくポンと手を合わせたカタリナが土産の包みを取り出すと、目の色が変わった。
ヴォルフガングのものより倍は大きい。中身が違うとは思えないので、単純にサリッサに合わせた量が確保してあるということなのだろう。
「あ、ありがと店長……食べ物?」
「ええ」
大きな包みを貰ったサリッサは、満更でもなさそうな顔で包みを凝視した。饅頭が口に合えばいいのだが、その可能性は低いように思える。
次いで、店の奥の工房から初老の男が姿を現した。なぜかコック服を着たその男は、娘の姿を確認すると、抑揚のない声を発する。
「戻ったか、カタリナ」
「お父様? なぜ工房に?」
「クリストファと毒蛇が抜けた穴を埋めに来た」
ジャン・ルースは額に浮いた汗を手巾で拭いながら、娘の問いに答えた。
「埋めに来たって……ジャン、あんたパン焼けるのかよ」
「侮るなよ、門番。奴らにできて、俺にできないことなどあるわけがなかろう」
どういう理屈かまるで分からないが、ジャンは自信たっぷりに言い切る。
カタリナとサリッサが微妙な笑顔でそれを聞いている辺り、本人が自覚しているよりも問題がありそうだ。
「で、ではお父様にはオーブンを見ていただきます。こちらへ」
無下に断るのも気が引けたのだろう。
カタリナは微妙な笑顔のままで、父の腕を引いて工房の奥に引っ込んでいった。
そんな二人の背中を見送り、サリッサがぽつりと呟く。
「……筆頭、料理だけは下手なのよね」
「……そうか」
南平原での戦いで九天の騎士達が被った被害は、重傷者二名と三名の軽傷者だった。戦闘直後は重傷三名だったのだが、そのうちの一人、ヴォルフガングが異常な生命力を発揮してほぼ完治したので、重傷は二名に減じた。
残る二人、身を挺してマリーを守ったクリストファ、そしてアルビレオの霊体攻撃に押し流されて高所から落下した毒刀使いの男は、今も入院中である。二人とも命に別状はないが、退院はしばらく先になるだろうとのことだった。
その後、九天の騎士達の間では、今後の方針について議論が続けられているらしい。
マリーやミラベルと共に皇帝と戦うべきだと主張する者や、叛逆には関与せず皇帝側につくべきだと主張する者、どちらにもつかずに国外に出るべきだと主張する者など、意見は分かれているようだ。
彼らがどんな選択をするにせよ、結論が出るのもまだ先の話になるだろう。少なくとも収穫祭の間は動けないに違いない。




