16.天空回廊の戦い②
高梨明人が正気ではないことは、来瀬川姫路の目には明らかだった。
異界で目撃した彼の戦う様子とは似ても似つかない。目にも止まらない速度で老婦人と剣を交える彼は、禍々しいなにか、黒い霞のような光を全身に纏っている。その姿はまるで剣の生えた暗闇の雲のようで、決して善を為す存在ではないのだと、遠い場所から誰かが叫んでいる。
過去、明人を斬った恐ろしい剣士だという老婦人でさえ、まったく歯が立たないままに蹂躙されていた。空中回廊にまで戦場を後退させた両者は、剣戟を未だ繰り広げている。
老婦人が反撃する度、軽く弾いた明人が三度、稲妻のように苛烈な剣を返礼に打ち込む。只管にその繰り返しで、老婦人だけが切り刻まれていく。あまりに一方的なそれは、もはや戦いではなかった。
見ていられない。読心の力、覚で伝わってくる明人の思考は殺意に満ちている。彼の思考に殺意などという要素が含まれていること自体、異常だ。本当の彼は人を殺すどころか傷付けることも、戦うことすらも嫌っている。ただ状況に強いられているだけだというのに。
「高梨くん! 駄目だよ! その力は……!」
姫路は走り出す。
しかし姫路の、読心の力であの暗闇の雲を止めることなどできはしない。あれは濃密な死の影だ。数多の時間軸で死した高梨明人の残像。無数の並行世界と、その外部に連続する情報の集積。魂。剣の福音そのもの。今の明人は逆流する剣の福音に飲み込まれつつある。
もし、時間と空間に囚われない記憶の集積、魂が実在するとして。
その記憶を都合よく取捨選択して取得できるのならいい。彼が用いていたという剣の福音の概念攻撃、不完全な剣技はそうだった。
でも、取捨選択をしなければ?
完全に、自在に引き出してしまった並行世界の記憶は、本来の彼の記憶との見分けがつくだろうか。それらは境界線を失って混濁することになるのではないか。最終的に彼は剣の福音そのものになってしまう。それが完全版――真の剣技。彼は福音の力を引き出し過ぎたのだ。望まぬ相手と、人間と戦うことで悪化してしまった。
こんなものはもう能力という表現に当てはまらない。呪いとでもいうべき福音の形質。副作用。
息を切らしながら、姫路は走る。
なぜ彼が剣なのか、姫路はずっと疑問に思っていた。今そうであるように、数多の時間軸で彼が剣士であったからとも考えた。その集積の本質が剣であるのは自然だと。
しかし違う。彼が剣士になったのは結果であって原因ではない。彼はごく普通の、異界の学生に過ぎなかった。その彼は剣の福音になったから剣を使ったのであり、剣の福音でなければ剣士になどならなかっただろう。よって剣の福音は、本当の意味での発端にはなり得ない。
発端は何だったのか。あの明人の姿は恐るべきその真実を暗に物語っているのではないか。あの、剣持つ者を否定する、暗闇の雲は。
福音書は言った。剣を取る者は剣によって滅びる。剣に聖性は無い。神聖さを見い出されていない。神の属性に含まれていない。それは武器であり、暴力であり、邪悪であると見い出された。
偽書は言った。神が空の光として機能する月と太陽を創造し、創造界に降りた月は殻によって光を弱め、夜と暗闇が生まれた。
反転した器。聖性を覆う邪悪の外殻。
殻。
「暗愚どもが! 剣持つ者が聖などであるわけがないだろうが! これほどの邪悪が他にあるとでもいうのか!? ありはしないだろうがッ!」
恐ろしい叫び声と、凄まじい衝突音がした。
空中回廊の上、全否定と共に上段から叩き込まれた明人の剣が、横に受けた剣聖の剣を押し込んでいる。遂に膝を折る剣聖の上から、剣を握る暗闇の雲が、浮かんだ仮面が叫んだ。
「斬り裂き! 殺し! 奪い去る刃の悍ましさが! その邪悪が分からないとでも言うのか! 人間の分際で! 定命者の分際でッ!! 限りあるものの分際でえッ!!」
叫びと共に幾度も打ち下ろされる刃が、刃と噛み合って血の如き赤い火花を散らす。紙一重で凌ぐ剣聖に余力は無い。
素人の姫路にも分かるほど、血塗れの老女の命は風前の灯火だった。
「おい、どうした!? どうしたんだ!! まだ剣は折れていないだろ!? まだ腕は千切れていないだろう!! 戦え! 立って戦えよ!!」
「……ぬうっ!」
「はははは! 脳髄に殺戮だけを詰め込んだ略奪者どもが! 惰弱な殺人者どもが! 目を逸らすんじゃない! お前たちの生は無価値だ! お前らの剣など無価値な殺人技術にすぎない! 意味など無いんだよ!!」
それは。
いったい誰から、誰に向けての叫びだったのか。
きっと、防戦に回りながらも、未だ虎視眈々と隙を窺う剣聖に向けてではない。過剰なほどに自罰的なあの少年は、無数の並行世界でも変わらず己をも呪っていたに違いない。その集積が叫んでいる。読心の力を持つ姫路には見えている。
黒い霞のような光の先にある、無限の絶望。人の身にあっては認識することさえ危うい死の影。誰ひとりとして、受け入れることも理解することもできない巨大な虚。それは只人には不可能だ。
人であるならば。
だから無力な来瀬川姫路は、震える拳を固め、
凍て付くような風の中で声を張り上げる。理解する者であるが故に。
「意味はあるよ!! 無意味なんかじゃないよ!!」
「……!」
暗闇の雲が止まる。
困惑する剣聖の視線を浴びながら、
いまにも張り裂けんばかりの胸の内を、姫路はただ吐き出す。
「きみたちが積み重ねた時間は傷付けるためなんかじゃなかったはずでしょ!? きみが繰り返した時間は、奪うためなんかじゃなかったはずでしょう! 誰かのために剣を執ったことが、邪悪なだけだったはずがないんだよ!」
たとえその結末が尽く悲惨なものだったとしても。
明日が見たいと願う誰かの為に戦ったことを、邪悪などとは、
誰にも言わせはしないのだと。
「殺すためじゃない! 滅ぼすためでもない! そうでしょう!?」
理解する者は叫ぶ。
「高梨くん! いつか、きっと誰の手からも剣が無くなればいいって……きみは、そんな祈りのために戦ってもいいんだよ!!」
実現しない「いつか」を願ってもいいのだと。
その道が「いつか」必ず潰えるものだとしても、
彼がそこに至るまでの足跡が、きっと多くを救っているはずなのだと。
最後まで共に歩むと決めた姫路は信じている。
「……そうだ…………俺は…………」
仮面が外れ、地に落ちる。
立ち止まった明人から、黒い霞が解けていく。消えていく。
姫路は安堵し、立ち尽くす彼の傍に駆け寄った。
禍々しい死の影は去り、いつもの少しくたびれたような背中がそこにある。
姫路にはそれが堪らなく嬉しかった。
しかし、よろめきながら後退る剣聖は――――激昂していた。
「あ、ああ……なんということを……なにを……なにをふざけたことを言っているの……!? あなたは……あなたたちは!! せっかくの力が……剣の窮極が失われてしまった……っ!」
「……ふざけてなんかいません」
言い切り、再び拳を固める。まるであれが尊いものであったかのような老女の言いように姫路は腹が立った。
否。覗き見る剣聖の思考は、本当にあの力を惜しんでいた。自らの全力をぶつけるに値するものだと敬い、心の底から望んでいたのだ。圧倒的な剣の力との死闘を。人の身で打ち勝てるはずのない、本物の殻との戦いを。
腹が立って仕方がなかった。
「ふざけているのはあなたの方じゃないですか。彼を何だと思ってるんですか」
「竜を滅ぼさんと神が遣わした奇跡でありましょう!? 光輝なる御身がなぜ人であろうとするのです! なぜ人であると言えますか!」
姫路より何倍も長く生きているはずのその老女の目には、戦う力が何よりも崇高なものであるかのように映っている。生まれた世界の違い。倫理観の違い。そんな言葉では片付けられない思想の偏りがある。
「……違いますよ。彼は高梨くんです。高梨明人くんです。特別なんかじゃない、ただの人間です。さっきまでのだって、人間の……彼の力です。どこにでもいる、どこにでもいられたはずの彼らの力だった」
「人の世にあってそれが非凡なのだと、なぜ認めないのですか! 世を変え得る力だと……救い得る力なのだと!」
「それは、本当は私たちの……人間の仕事だったんじゃないんですか!? 本当は自分たちでやるべきことだったんじゃないですか!? どうして彼らに縋るんですか!? どうして彼らに縋れるんですか!」
剣聖は。
その一言の弾劾で言葉を失った。
「遥か昔、たった一度彼らに救われたからですか!? だからこの世界の人は弱くなったと、だから仕方ないのだと! 自分たちの弱さと責任とを彼らに押し付けて、世界を都合のいい奇跡の力に……不滅の皇帝や剣の英雄に委ようというんですか!? 永遠に!?」
無力な来瀬川姫路は、無力な老女を切って捨てる。
「ふざけないでください! 人は皆、そんなに無責任じゃありません! 今日も、明日も、もっといい世界を作ろうと、きっと誰もが思っているはずです! いつか、遠い未来でだってそうです! まだまだ完璧じゃないけれど、きっと争いが減った世の中にはなっているはずです! だから!」
異界を指して、姫路はそう予言する。
人が剣を捨てられる日は来ないかもしれない。剣が別の何かに代わるだけで、何も変わらないのかもしれない。それでも。
「人の世界に、神さまの力なんて要らないんです!」
「……ッ」
歯噛みする剣聖の目に、姫路は恐怖の色を見る。
この老女は、人の持つ可能性を信じることができないでいる。超常の力を以てでしか人の世を束ねられないと、本気で信じ切っている。
それは力への盲信であると同時に、人に対する絶望でもあった。愚かしく、争うばかりである現界の人々に、優れた剣力でしか人を救うことができなかった己に、彼女は絶望している。そんなか弱い老女を、智解の福音は読み切っていた。
「……先生、ありがとうございます……もういいですよ」
立ち尽くすばかりだった明人の肩が動いた。
剣を握った手は血に塗れている。完全な剣技の動きに追従しきれなかった彼の体は、剣聖以上にぼろぼろであるように姫路には見えた。
「この頑固婆さんには……言葉より何より……こっちの方が分かりやすいんだと思いますから」
しかし、明人は長剣を左手に持った鞘に納め、武骨な柄に右手を這わせる。
抜き打ちの構え。
驚く姫路は、既に彼の中から剣技が去ったことを読み取っている。もはや剣の福音はまったく機能しておらず、今の彼は粗末な鉄剣を構えているだけの、ただの少年だった。
「……なんの真似でありましょう?」
この有り様を、同じく満身創痍の剣聖は怒りに引き攣った貌で迎える。
それは侮辱であると。
だが明人は意に介さない。
何一つ持たず、何一つ敵に勝らない少年は言うのだ。
「……受けろよ……剣聖、マルト・ヴィリ・カリエール。剣比べだ」
****
喉奥から不快な錆の味がする。
断裂した全身の筋肉が悲鳴を上げ、酷使された手足の関節が酷く痛む。指一本動かすのにも多大な努力を必要としている。コンディションは最悪だった。
それでも、俺は剣の柄にかけた指を外さない。今や何の力もなくなった、彼女にとって何の価値もなくなった俺を見る剣聖の目からも視線を逸らさない。
来瀬川教諭には助けられてばかりだ。
気付けば完全に剣技に飲まれてしまっていた。
彼らが間違っているとは思わない。あれらも確実に自分の可能性の一つであり、自分の一側面なのだと受け入れている。
しかし、この俺は違う。彼らの辿った道と俺の辿る道は似ているが同じではない。俺はまだ剣に絶望などしてはいないし、独りで何もかもを背負うつもりもない。俺は独りではない。
「やれるんだね?」
「やってみせます」
背中にかかる確かめるような問いに、はっきりと頷く。
その問いに、俺自身の無事も含められているのも了解している。俺と来瀬川教諭の間にある約束はそういったものだ。
「うん……よしっ! ならやっちゃえ、高梨くん!」
「はい!」
根拠など無い。
しかし彼女が俺を支えてくれている限り、負ける気など微塵もしない。
「世迷いごとを……ッ!」
対する剣聖の苛立ちは、極地に達したらしい。怒り戦慄く手で長剣を鞘に納め、同様に抜き打ちの構えを取りながら問う。
「よもや本当に福音無しで……このわたくしの剣と打ち合うと……!? なんの力も使わず……そのみすぼらしい剣で……!?」
「そのつもりだよ」
「馬鹿な……そんなもので、あなたにいったい何ができるというのです!」
「証明する。あんたが皇帝から借りている神の力を破ることで」
己の奥の手が看破されていることを悟り、
剣聖の顔に動揺の色が過ぎる。
いずれにせよ俺は、
ただ力の強い者だけが勝つという、獣のような理に従う気はない。
それは剣聖が信奉する力の道理に他ならないからだ。
「……人の世界に、神の力が不要だということを。ただの人間の力を」
だから俺は、俺のままで剣聖を凌駕しなくてはならない。
ただの高梨明人のままで、人類種最強の剣士を破らなければならない。
どのみち、剣の福音は全て使用不能だ。
剣技との接続は絶たれ、現時点で借用可能な聖性は先程の影響で出力が著しく低下している。
一本残った長剣も既に耐久の限界を迎えている。何合も打ち合えていたのは無限の魔力補助があったからであり、その全てを失った今、俺自身の乏しい魔力だけでは一合も保つまいと分かっている。
だが勝たなければならない。
勝つのだ。
「――――できはしませんッ! そのようなことは、断じて……断じてッ!!」
確信と共に刮目する俺の目の前で、剣聖の長剣が鞘から引き抜かれる。ほぼ同時に、俺の右手も剣を抜き放っている。
既に剣聖の気配は急激に膨れ上がっている。予感する。予見できている。もはや初見ではないからだ。一度見ているからだ。剣技は必要ない。
一の太刀が来る。
老女の長剣が繰り出す初太刀を読み切る。
踏み込みからの、両手を用いた変哲のない水平斬り。
俺の目が、脳が、
その一撃を認識するよりもずっと速く、剣聖マルトは打ち込んでくる。コマ飛びした映像の如く、あたかも時を超えたかの如く、剣聖は眼前に迫っている。
しかし違う。彼女は踏み込みの速度だけで、剣の福音の権能たる早送りに匹敵しているのだ。仕掛けはここではない。
ただの反射神経だけで滑り込ませた俺の剣は、横一文字の斬撃を受けるべく構えている。その空恐ろしいほどの端麗な打ち込みを。
一人の人間が極めた武の窮極を。
ただ知っているというだけで、俺は、俺だけの力で再び破る。
刹那、
清廉なる一刀、横一文字の軌道が不自然に変化する。
破られる筈のない一の太刀が破れたその瞬間、
一切の澱み、一点の曇りも存在しなかった一撃が、変わる。
剣聖の剣尖は、俺が割り込ませた粗末な長剣を避け、
袈裟に近い軌道に変化しようとしていた。
――――ここだ。
前回、その袈裟斬りは俺の愛剣をすり抜け、
一刀のもとに俺を死に至らしめた。
しかし、受け太刀を許さない、すり抜ける刃などと。
そんなものは有り得る筈がない。
ならば、何かが嘘なのだ。俺は欺かれていたのだ。
幻術ではない。あからさまな魔術なら剣士には察知される。
仕掛けのある剣でもない。そんな奇術めいた剣に強度は望めない。
太刀筋に妙があるわけでもない。剣の理法は非合理な剣を認めない。
見えている光景に嘘はなく、真に迫る一刀だからこそ欺かれる。
裏切られる。
それは、ほんの小さな嘘だ。
しかし致命的な嘘だ。
それでも。
「二度は無いッ!」
時間だ。
彼女は時間に嘘をついている。
剣聖マルトの「一の太刀」は、袈裟に変化した後でコンマ数秒にも満たない僅かな時間分、遅く見えているのだ。
可視光を遅延させてズラしている。気付かないほどの一瞬の差、その差が、防御の刃をすり抜ける一撃に見せていた。本当の刃は一瞬だけ早く、防御を抜けている。見たままを信じると絶対に防げない、裏切りの剣。可視光に限定した遅延攻撃。
当然、こんなものは剣技ではない。魔術でもない。
聖性の欠片。
時の福音の現象攻撃だ。
異界で聖性を帯びた敵――特殊部隊の男やオルダオラと交戦するまで、往還者以外の存在が現象攻撃を用いるという発想を俺は持っていなかった。
しかし、一度疑いを持つと真実が見えた。剣聖の刃が俺の剣をすり抜けたタイミングと、俺の胴を薙いだタイミングが同時だった。そんなことは剣が二本なければありえない。剣が一本であるなら、時間が嘘なのだ。
そして、分かっているなら防ぐことができる。
剣聖より速く。剣を受けるのではなく剣を当てるのだ。俺は袈裟斬りの太刀筋を見切り、その太刀筋に絡めるように粗末な長剣の刃を引っ掛ける。
遅延している剣聖の剣と粗末な長剣の刃は、見た目の上では接触しなかった。しかし、手応えがある。間違えようがない。
「……ああ……あああっ!?」
刃を完全に捉えた瞬間、剣聖の忘我する顔が見えた。
それは誇りを持たない技を破られたことよりも、何よりも。
信奉していた力を、現象攻撃を。ただの人間に打ち破られたという甚大なる衝撃に、途方に暮れているように見えた。
知ったことではない――――!
「おおおおおおおおお!」
絡めとった敵の剣を鍔元で受けた俺は、即座に手首を返し、渾身の力を込めて巻き上げる。
跳ね上がった剣聖の長剣は彼女の手を抜け、高く、舞い上がった。澄んだ金属音を響かせながら、空中回廊の空へ消えていく。落ちていく。
唯一、たったひとつ。
俺が剣技に頼らずに実践できた、たったひとつの剣技。
名も知らぬ、変則的な巻き上げ技。
剣を失った敵と、満身創痍ながらもまだ剣を持つ俺と。
それは明確な決着であったはずだった。
しかし、剣聖は――マルト・ヴィリ・カリエールは、俺の、俺たちの予想だにしなかった行動をした。
飛んでいった己の長剣を追って、空中回廊から身を乗り出したのだ。まるで縋りつくように。咄嗟に手を伸ばす俺と、声を上げる来瀬川教諭の目の前で、彼女は回廊の石床を蹴った。
一瞬だった。老婦人の姿が掻き消えるように下へスライドし、見えなくなった。その意味がよく分からず、俺は手を伸ばしたまま、しばらくの間、間抜けに立ち尽くしていた。
「いや……なんでだよ……」
彼女が地上に落下したのだと思い至ったのは、たっぷり数秒経ってからのことだった。
しかし、身を乗り出して眼下の山に目を凝らしてみても、宵闇の満ちる山肌にも、凍えるような風だけが流れる夜空にも、剣聖の姿を見つけることはできなかった。
高所からの落下程度で死ぬような人物とは思えない。だが、なぜ長剣などを追ってあんな真似をしたのか、理解に苦しむ――
「……なんかね、大事なものだったみたい」
「大事なもの……ですか」
「それしか読めなかったけど、ね」
やはり理解に苦しむ。どれだけ大事な剣だとしても、剣のために身投げのような真似をするなどと。或いは、彼女が現象攻撃を使っていた仕掛けのようなものが長剣にあったのかもしれなかったが、それも推測にすぎない。真相は不明だ。
考え込んでいると、背中に何かが当たる感触がした。
正直なところ全身で損傷していない箇所がない――背筋も例外ではないため、ひっくり返りそうなほどの激痛が走ったのだが、背中越しに感じる息遣いのせいで、俺はやせ我慢をすることにした。
「とりあえず……おつかれさま。戻ってきてくれて、よかった」
結局のところ、それは来瀬川教諭のおかげであって俺の手柄ではない。もしこの人が居なければ、俺は剣の福音に飲み込まれたままカリエールさんを殺し、自滅していたのだろう。
礼をいくら言っても言い足りないところだったが、ちょうど言葉を探しているときに空中回廊が――サントレイア港そのものが息を吹き返したように脈動するのを感じた。
石畳の隙間から薄い魔素の光が溢れ、複雑な紋様を描く。
その様子を見た俺は、なんとなく納得をした。転移門のような大掛かりな構造物が見当たらないと思ったら、この港そのものが巨大な付呪器具であったらしい。
「わあ」
発着場らしき地点からオーロラのような光が一条伸びるに至り、来瀬川教諭が子供のような歓声を上げた。天空回廊が起動したのだろう。
俺はといえば、もうひたすら五体が痛むので感嘆の声を上げる元気もない。ひん曲がって鞘に収まらなくなった粗末な長剣を無理矢理に鞘へと捻じ込み、苦笑いするだけに留め、その場に座り込んで胡坐をかくことにした。
そうしてから、驚くべきことに旅はまだ始まったばかりなのだったと思い出し、なんとも苦い気分になったので、やはり寝転がることにして目を閉じた。




