14.出立②
大陸北西部に位置するセントレアから皇国最東端のロスペール城塞都市までの道程は、普通に陸路を行けば気が遠くなるほどの日数がかかる。この解決困難な問題を二週間ほど前に出発したという末の皇女マリー。マリアージュ・マリア・スルーブレイス一行は、第一皇子マクシミリアンが確保していたという二隻目の航空艦フリームファクシを借用するという力技で解決したのだという。航空艦の性能や船足を考慮すると、彼女たちはもうロスペール付近に到達していると思われた。
が、俺たちにそんな素晴らしい選択肢は用意されていない。
あれだけ居た水星天騎士団でさえ全員引き上げてしまっているセントレアには使える軍馬一頭残っておらず、街の乗合馬車なんかを使うにしても日に一本しかない上、出発が早朝であるため都合も合わない。そもそも悠長に陸路で行くと数カ月かかってしまうので支障が出る。
ロスペール行きが間に合う間に合わない以前に、俺たちにはまともな移動手段がなかったのである。
本来であればこの時点で詰みであったのだが、人数分の馬を提供してくれたセントレア町長とジャン・ルースの手紙のおかげで一応の目途が立った。ジャン曰く、皇国北端の街グラストルと皇都の衛星都市ランセリアが転移門で繋がったのだという。であれば、セントレア最寄りの転移街アズルからグラストル行きの転移門を使い、間接的にランセリア――皇都付近に行けるのでは、ということになる。
もしそうなら、旅程の大幅な短縮に繋がる。
本来は転移街アズルからランセリアに繋がっていたのだが、転移門が以前の騒動で破壊されて以降、アズル領は陸の孤島と化していたのである。それがある程度解消されたということだろう。
僥倖だ。
物流のあれやこれやに田舎門番の俺が詳しいわけもなく、なぜ北端のグラストルとランセリアが繋がったのかなど、細かい事情は考察することなく無邪気に歓迎していたのだが、
「ああ……それはたぶん、グラストル側にあるアズル向けの転移門をランセリア行きに変更しただけなのだと思いますよ……?」
という、困り顔のミラベルの冷静な分析によって希望的観測から非情な現実に引き戻されたのだった。
「な、なんでだ……?」
「えっと……グラストル領も貿易で歳入を得ているわけですから、皇都との行路が切れたアズルよりも中央……ランセリアに繋げなければ財政に深刻な影響があります。グラストルには転移門がふたつしかありませんから、当然、無用のアズル行き転移門を転用したのだと……たぶんですけど」
「ちょっと待ってくれ。ということはアズルからグラストルには行けない?」
「無理です。転移門は双方向で繋がっていないと機能しないので……そもそもアズル側の転移門はすべて壊れていますし、修復されたという話は聞きませんね」
「完全に見放されてるじゃないか、アズル領……最大級の穀倉地帯だぞ……?」
俺は天を仰いだ。セントレアからグラストルまでの距離も皇都と大差がない。それでは意味がないのだ。
ジャンが無意味な情報を寄越すとは思えず、思案する。グラストル。この数百年は縁のなかった地域だったが、最近だれかの口から聞いた記憶がある。
あれは確か――カタリナがベーカリーの販路を語っていたときのことだ。北はグラストル、南は皇都まで、と彼女は言っていた。
いくらなんでもセントレアで焼いたパンが北端のグラストルまで保つ筈がない。そう思ったので記憶に残っていた。あれは一体どうやって――
「あぁ? グラストルなら二、三日で行けるよねぇ?」
と、アルビレオが当たり前のように言ったので俺は耳を疑った。
「……なに?」
「王国時代の天空回廊が遺ってるでしょ」
咄嗟に思い出せず、俺は首を傾げる。
パロサント。今はアズル領と呼ばれているこの地にあった、古い王国の名だ。首都はサントレイア、つまり現在ではセントレアと呼ばれているこの街に王城があったのだ。俺でもあまり憶えていないくらい、遥か昔のことだが。
システム何某については、俺よりも歴史家のミラベルの方が反応が早かった。
「天空回廊……たしか、大陸西部に敷かれていた旧式の転移魔術による物流網ですね。術式に難があって五百年ほど前に廃れたと歴史書で読みました」
「今の転移魔術と違って、障害物と干渉しやすい術式だったんだよねぇ。だから標高の高い山の山頂とかにしか港を作れなかったし、安全性も微妙だった。ま、食料品を送るには関係ないからさ。それを使って王国は大陸中に食べ物を素早く届けていたのさ」
心なしか得意げなアルビレオの言葉に、俺は感心するしかない。
知らなかった。というか、ほとんど街に引きこもっていた俺はかつての王国が生産していた食料をどのようにして輸出していたかなど考えたこともなかった。
聞く限り不便なので、現代で転移門に取って代わられているのも納得のいく話ではある。わざわざ山の上まで物を運ぶより、街の周囲に転移門を作った方が色々と早い。
「王国時代の遺構だから殆どの回廊が壊れちゃってるけど、サントレイア港からグラストル近郊の回廊がまだ生きてたはずだよ。たぶんルースも知ってたんじゃないの」
「なるほどな。ベーカリーがどうやってグラストルまで出荷してたのか分からなかったんだが、そういうカラクリだったのか……そうならそうとジャンも手紙に書いてくれりゃいいのに」
「むしろ門番さんが知ってなきゃ駄目だろ。ずっとサントレイアに居たんだからさぁ?」
「ま、街の外のことは人づてに聞くくらいだったからなあ……」
街から長く離れることはなく、目と手の届く範囲のことにしか関わらないようにして生きていたおかげで大きな波風を立てるなく千年を過ごせたのだから、必ずしも間違っていたとは思わない。
しかし、世俗との関わりが特殊であろう外典福音より物を知らないというのはさすがに情けない気がする。
「やけに詳しいんだな?」
「……歳の功だよ。僕が居てよかったねぇ」
アルビレオはくつくつと皮肉気に笑う。アンデッドが年齢を重ねているかどうかは議論の余地がありそうだったが、俺も人のことは言えないので黙っておく。
酒場で英気を養っていた俺たちはそんなやりとりを経て、ひとまずの目的地を天空回廊のサントレイア港なる遺跡に定めたのだった。
***
日が暮れようとしている。
セントレアから馬で約半日、名も知れない険しい山の山頂手前、俺は立派な棺桶を背負って切り立った岩壁にへばり付いていた。
断崖絶壁である。
橙色に染まった岩肌のどこかに指を掛けられる窪みを探すが、見当たらない。荒ぶった呼吸で吐いた白色の呼気も一瞬で流れるほど、轟々と吹き荒ぶ寒風で手もかじかむ。俺は進退窮まっていた。
「お……おい、アルビレオ! 本当にこの上で合ってるんだろうな!?」
「道は合ってるよ! さっさと登れよ、クソ門番!」
背負った棺桶に怒鳴りつけると、こもった怒鳴り声が返ってくる。
「崖は道とは言わないんだよ、普通!」
「遺構だって言ったよねぇ!? もうほとんど誰も使ってないんだよ! まともな道なんて残ってるわけないだろ!」
それにしたって限度がある。
ベーカリーの輸送路になっていたのであれば、少なくとも馬車が通れる程度の道が現存していると想定していたのだ。数時間も登山をした上、崖登りをさせられるとはまったく思っていなかった。
霞む息を吐きながら視線を横に向けると、オレンジ色の空の上下に雲の海が見えた。標高で言えば二千メートル近いのでは、と今は崖の下で待っている来瀬川教諭が言っていたのだが、まさか雲海が見えるような高所とは思わなかったので圧倒されるしかない。
少し前までの俺なら、こんな高所で動くことなどは考えられなかった。しかし、今は異界の空をおおとり9号で飛び回った経験がある。
よじ登るのは限界であると見て、俺は剣帯に差した二本の剣のうち、細身の長剣を左手で抜いた。
剣をハーケンのように壁へ突き立てて使う手もなくはなかったものの、下手なことをして貴重な刃物が回収不能になっても痛手である。リスクを取ってでも早急に登り切るべきだと判断した。
「……おい、なにする気だ!?」
「飛ぶんだよ!」
剣技を行使する。
岩壁を蹴って宙に浮いた俺は、空中で魔素の足場に足をかけ、オルダオラとの戦いで使った加速術を展開した。精霊に変わった魔素が雪の結晶に似た紋様を描き、七色に輝く。
虹橋。
俺ではない、世界樹のどこかで未来の高梨明人のひとりが到達したらしい、歩法の終着点のひとつ。属性の違う精霊同士の反発を使用者の推進力に変えるという、常軌を逸した技である。
狂っているとしか評しようのない発想である。なぜならそれは、足元で二種類の破壊魔法を衝突させ、その反作用で飛ぼうという発想と大差ないからだ。
危険なのだ。普通に。いったい誰が考えたのだろうか。
俺か。
悲しい自問自答と共に、俺の体は背負った棺桶――の中のアルビレオごと、物理法則を無視したかのような垂直方向の飛行へ移る。良く表現すればそうなのだが、悪く言えば、俺たちはバットで真上に打ち上げられたボールのように飛んだ。
「うわああああああああああ!?」
凄まじい加速で上から下へと目まぐるしく景色が流れていく中、棺桶から凄まじい絶叫が漏れた。
事前の覚悟が決まっていた俺とは異なり、棺桶の中のアルビレオは相当恐ろしいのだろうと想像はつく。つくが、加減はしてやれない。
二段、三段と虹の橋を蹴って上昇した俺は、勢い余って崖の終わりを通り越した。五十メートルほど空に浮き上がったところで普通の足場を魔素で作り、空中に着地する。
眼下に広がっていたのは、想像だにしていなかった風景だった。
高く切り立った山頂に白い古城が建っている。こんな山の頂に、どうやって築かれたのか皆目見当がつかない。よく見れば白は薄く積もった雪であったのだが、城館そのものは完全な姿を保っている。数本の尖塔や城門、支塔と本城を繋ぐ石橋まで備わっている。
雲海を背に、数百年を経てさえ今も在り続けるその古城に、俺は言葉も失っていた。
ガコ、と背中の棺桶が開いた気配がした。開けたところで彼女から見えるのは方向的に夕暮れ色の空だけのはずだが、アルビレオは言った。
「……サントレイア港だ」
「はは。よく……何百年も前にこんなものを造ったもんだ」
「王国の黄金時代の象徴さ。食いしん坊のとある王族が、世界中の人間の腹を等しく満たそうなんて馬鹿な夢を見た……その名残だよ」
俺は息を整えながら、アルビレオの静かな呟きに何かを思い出しかけた。しかしその微かな記憶は、はっきりと思い出すことのできない俺の家族と同様、ノイズ塗れで明確な形をとらない。ただ、その風化した記憶に触れると心なしか悲しいような気分になる。
俺は、なんとなく思ったことを口にした。
「もしかしてお前、王国の縁者なのか?」
とっくの昔に無くなった国について詳しすぎるアルビレオは、返事をすることなく棺桶の蓋を閉じる。
王国について大した記憶を持たない俺も無理に聞き出そうという気にはなれず、視線をサントレイア港であるという眼下の古城に戻した。
尖塔から白い鳥の群れが飛び立ち、夕陽に向かって流れて行く光景を見て思い出す。日が暮れる前に崖下で待つ三人を引き上げなければならない。
持参していたロープでは長さが足りないだろうと目算を付けることもできたので、一人ずつ抱えて往復するしかなさそうだった。
***
全員を古城まで運び終えた俺は、最後に山頂手前の崖下に戻った。
そこにはここまでの険しい山道を踏破してくれた馬たちと、馬に乗ったセントレアの町長や数人の町民の姿がある。古馴染みの彼は人の良さを発揮して俺たちに付いてきてくれた、わけではない。現代ではセントレアの誰もが忘れていた天空回廊に興味を示したのだ。
転移街アズルが使い物にならなくなった現状、天空回廊が過去の遺物であろうが関係ない。使えるのであれば陸の輸送路とは比較にならないほど早く作物を出荷できる。
夜闇が降り始めた中、眼鏡をクイクイ押し上げる町長に報告した。
「上から見たら分かったんだが、馬で行けそうな坂路が下までぐるっと伸びてる。途中で崩れちまってるのを直したら、そっちから上がれるようになるんじゃないかな」
「ほほう、なるほど……元手はかかりそうですが、なんとかいけそうですね。ありがとう、タカナシ君。春までには使えるよう動こうと思います」
「アズルが復旧する可能性もなくはないと思うが」
「だとしても、パロサント……僕のご先祖様が作られた遺跡なのでしょう? ならこの目で見てみたい。そう考える人はきっと僕だけじゃないんですよ」
そう語る町長の目は、心なしか少年のように輝いている。
であれば、これ以上言うことは何もない。今から抱えて連れて行ってやろうか、という申し出もきっと野暮なのだ。
彼は言った。
「それに、秋雪に代わる観光資源になるかもしれません」
「……そうか」
ちゃっかりもしている。ますます言うことはなくなった。
人間は逞しいものだ。たとえアズルが復旧しなくとも、人の増え始めたセントレアの先行きは暗くないだろう。
「じゃ、日が暮れる前に帰れ。夜の山は結構危ないからな」
「言われなくともそうしますよ……まあ、本当はいつか、僕も冒険の旅に出てみたかったんですけどね。お伽噺の中の君みたいに」
「馬鹿言え。何百年も前の話を持ち出すんじゃない」
「はは」
町長は笑う。笑って馬の向きを帰路へと変えた。
「皇女殿下……いえ、皆様によろしく伝えてください。無事のご帰還をお待ちしていますと。ついでにタカナシ君も。南門の門番をやってくれそうなのは君たちくらいですからね」
俺は少々驚いた。
マリーの一行、水星天騎士団の面々や九天の騎士たちがセントレアに腰を落ち着けるかは俺には分からないのだが、少なくともセントレアの住民は歓迎しているのだろう。あれだけゴタゴタがあったのにだ。
俺が不老であることも知れ渡ってしまっているというのに、目立った排斥の声が聞こえない程度には受け入れられている。どうやら俺の第二の故郷は、思っていたよりもずっと寛容な街であったらしい。
「分かったよ、クラース。伝えておく」
苦笑し、手を挙げて見送る俺を振り返ってから、町長たちは馬を引き連れて来た道を引き返していった。
その背が完全に見えなくなってから、心の中だけで頭を下げる。可能な限り力を尽くすつもりではいるものの、ロスペールの状況を考えれば全員が無事に戻る可能性は高くない。
それに、なんとなく予感がしている。
俺は、あの第二の故郷に戻ることはないのかもしれないと。
だから、出発前に往還門のある地下室を岩と土で埋めた。
地下室に施しておいた魔術的な防御も全て起動しておいた。何事もなく早々に戻れば良いだけの話だったが、万に一つの可能性がある以上、往還門の封印は必須だった。
それは別に死を覚悟しているという意味ではなく、ひとつの古い――本当に古い約束の決着をつけるためでもあった。
マリーに同行しているという、仮面の騎士リコリス。
いまの俺には彼女の正体がある程度わかっている。
理解の器、メティスと争って分かったことがある。それは認識の阻害――精神干渉系の能力は決して完全なものではないということだ。
疑いを持った上で推測を重ねれば、看破することも不可能ではない。そしてリコリスの纏っていた認識阻害の力は、メティスのものと同質だった。同じものだったのだ。
理解の力、理解の概念操作と読心。しかしリコリスは理解の器ではない。おそらく彼女は複数の聖性が複合的に作用している、小径の接続者だ。だから部分的に理解の力を行使できると考えれば説明がつく。きっと彼女は理解と王冠の――
眩暈を伴った頭痛がした。
頭の中に巣食った剣技が、無数に有り得た未来と過去の高梨明人の記憶たちが何事かを喚いている。
はっきりと分かるわけではないものの、感情の正負はまちまちであるように思えた。強引に抑え込んで頭を振る。
強まった剣の福音に、記憶が――思考が同化しつつあるのを俺は自覚している。このまま接続を繰り返せば、俺の意識は徐々に剣の福音と平衡するのだろう。有限に無限を代入できないが故に、イコールになることはない。しかしどのような変貌を遂げるにせよ、人間性の喪失は不可避であるように思えた。メティスの憂慮がそれであったかは不明だが、明らかにする必要はない。
俺はもう道を選んでいるのだから。
すべてに決着をつける。そのために必要なことを、粛々とこなすのみだ。




